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2010年12月19日 (日)

視野狭窄・・・老化する社会 

 学生の学力低下は下げ止まったとの見方もあるが、教育関係者からの情報ではかつてと比べると難しい問題には全く歯が立たなくなっているという。若者の数が減れば、それだけ傑出した学生の出現数も低下して当然だが、率においても低下しているのならそれは明らかに質の低下を意味する。

 思うに、昔は若くして科学の分野でも文学や思想の分野でも大人顔負けの才覚を発揮する者が現れた。たしかに、背伸びをして見せる傾向はあったのだろうが、それでも一定の評価を得ていたのだから嘘っぱちではなかった。ところが現在はほとんど聞かない。文学で十代の女性が賞をとったりするが、それはそれで結構なことだと思う反面、その水準は決して高くないと思われる。

 しかし、若者だけの問題ではなさそうだ。おとなの場合は学力とは言わないが、考えることの量も質も低下しているのではないか。まるで情報の量に反比例しているようだ。様々な情報を見聞きするが、情報の数は多くても、一つひとつは極めて断片的なものであって、ある程度の数を集めて分析しなければ一定の知見にはならない。自分から広く見ようとする意志と意欲があってこそ認識は深まるのであるし、考える力も強固になるのである。けっきょく、それが足りないのだ。

 日本の社会も経済的には発展したし、分野による違いはあるものの科学技術も進歩した。通信やIT、医療分野などは顕著な発展を示している。考えてみれば、良くできる学生はこぞって医学部に進むから医学が進むのは当然かもしれない。かといって先端医療が進んだからといって医療に対する需要が満たされるわけではないのだが。
 むかしは、頭が良くて成績が優秀な学生であっても、哲学や文学や政治に「走る」ことがままあった。それは知的青年のスタイルであったかもしれないし、流行りであったのかもしれない。しかし、それだけではなく、「志」とか「情熱」とかいう言葉で表される推進力があったのである。それが今はあまりにも少ないように見える。若者を動機づけるものは、偏差値だけになってしまったかのような様相である。もちろん、そこから自由な青年など一人もいないだろう。しかし、囚われつつも、そこから抜け出してやろうとする意欲、あるいは社会を敵に回して物事を考えてみよう(破壊するという意味ではない)とする大胆さがあってもいいのではないか。そういう若者がでないということであれば、いったい、今の社会に「自由」なるものがあるのかはなはだ疑わしくなるのである。

 若者を責めることで問題は解決しない。広くとらえれば、教育問題ではなく、社会問題である。学力が上がらない、優秀な人材が出ないことの客観的条件はなにか。以前とどこが変わっているのかを検討する必要がある。
 思い起こすと、むかしは学生の前で政治や文学を語る教師がいた。私もその類の先生に感化された記憶がある。それを許す学校の雰囲気もあっただろうし、教師にも言うからにはそこに信念があったのだろう。教育現場のことは詳しく分からないが、今はあまりないのではなかろうか。

 老化する社会。そんな言葉が頭に浮かんだ。

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