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2010年10月11日 (月)

砥石としての加藤周一

 私は、考え方に迷った時には加藤周一に戻るようにしている。錆びついた感性を加藤という砥石で研いで再生するのである。

 加藤は日本でもっとも良質の知識人に属するだろう。そのポジションは権力よりもずっと大衆に寄っている。ものの見方がフェアなのは、経験と知識の豊富さが背景にあるように思われる。じっくり構えて、社会の大きな流れを読み取るスタンスは一般の社会人にはまねのできないものであり、そこに知識人の存在価値があるのだが、その点において加藤はもっとも強い輝きを放っていると言える。

 日本人は大局をつかむことを苦手としているように思う。信仰を持たないからなのか、持っている信仰があまりに現世的で遠くを見ないからであろうか。それとも科学的精神に欠けるからであろうか。いや、理由は何であれ、大衆の一人ひとりにそれを求めるのは酷かもしれない。であればなおのこと、しっかりと現実を観て、実はこうなっているのだと説明できる人の存在が必要になる。加藤はそういう役割を担っていた。

 加藤は逝ってしまったが、その著作は残る。砥石にしばらく不自由することはない。

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