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2010年10月18日 (月)

大勢を追いかけるな

  聖徳太子が「和をもって尊しとなす」と言ったから組織の運営において和が優先されるようになったと考えるのはあまりに一面的すぎるが、話としては面白い。しかし、それは言い訳のようにも思える。

 和が重要な要素であることは否めないが、それが最優先されることによって弊害も現れる。大勢に追随するとか、流されるとかいう表現があるが、明確な大勢があるならまだしも実態のはっきりしない大勢を追いかけている場合もあるのではないか。戦前・戦中において軍部の会議で、誰も反対する空気がなかったので自分もあえて異を唱えなかったという証言がある。また、誰かが反対すれば自分も支持するつもりだったという発言も聞いたことがある。大半のメンバーがそういう気分であったなかで強硬路線が選択されていったのだろうが、案を提起する側も弱腰の案では場の雰囲気を壊すのではないかとか、自分の評価が下がるのではないかという憶測で動いている。
 要は、意思決定が、事案の客観的な評価もしくは自分自身の信条に照らした判断よりも、なんとも頼りない空気なるものに動かされているのである。これを他人事として笑うことはできない。意外にも、自分が所属する大小の組織においても見られる現象ではないか。この傾向は異文化に触れたときにより鮮明に自覚することができる。
 例えば、中国の人達と話をすると皆自己主張が強い。まずは自分の考えを軸に議論する。兎に角言いたいことは出し合って、その上での調整に入る。まとまらなければ無理に妥協することはない。日本では始めから「落としどころ」に向かって議論の流れを作ろうとする。個々の意見は考慮せず、はなから全体の和を優先してしまうのである。
 
 こういう文化があると、個々の人間に責任を負うという自覚が生まれない。常に言い訳ができる状態に自分を置いていると言えるだろう。
  責任を取らない文化は、けじめのない文化とも言えるだろう。季節の節目節目に行事を行って時間の流れにアクセントを付けられる国民なのに、どうして組織の運営においてけじめをつけられないのだろうか。それもまた一つの生き方の知恵なのだろうか。そうであったとしても、それは消極的な知恵である。

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