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2010年9月 5日 (日)

千葉法相が処刑場の写真を公開 「死刑」考

 新聞記事で処刑場の写真を見た。踏み板はよく見えたが、絞縄は吊り下がっていなかった。千葉法相が死刑に対する議論を喚起するために公開したという。写真を見ても想像力が働かなければ何の影響も受けないだろう。このこと自体の国民への影響力はさほど大きくないように思う。こんなこととは関係なく、「死刑」とは厳粛な問題である。

 死刑については存続派と廃止派があり、かなり活発に議論されてきたという認識がある。しかし、私はそこに深く立ち入ったことがない。双方の主張やその論拠についても調べたことがない。新聞や雑誌でのコメントを少しばかり目にした程度である。
 したがって、ここで過去の議論を踏まえた整然とした意見を述べることはできない。ゼロベースに近い、まとまりのない考えを羅列するにとどまるだろう。それもまたよし、である。

 現在、世界の国々のうち約7割が死刑を法律上もしくは事実上廃止している。日本は残り3割の存続国グループに属しているわけだ。廃止している国でも過去は執行していたはずだ。それが廃止に至ったには、歴史的ないきさつがあるに違いない。それは研究するに値する重要なテーマである。それぞれの国に「理由」があるはずだから、日本が、あるいは日本人が明確に存続の意思決定をするのであれば、その「理由」に相反するであろう別の正当な理由を確立しなければならない。

 死刑とは、国家が犯罪者を処刑することである。現在の日本では、殺人を犯した者に限られているようだ。(かつては、今年でちょうど100年目にあたる大逆事件など政治的・思想的犯罪に対しても執行された。)それは、被害者に代わって刑を下すのでもなければ、残された親族に代わって執行するのでもない。国家独自の問題であるはずだ。付随して、親族の溜飲が下がったり、殺されたものが浮かばれるという心情を周囲に引き起こしたりするなど感情という複雑な問題が生じ、それはそれで扱わなければならない問題だが、死刑を論ずるにはあくまで国家の問題として取り上げる必要があると思われる。戦争は別にして、通常は国民が国民を殺害し、その刑は国家が国民に対して執行するという図式になる。ここに、死刑論の根本問題があるように思う。

 ばらばらになるが、法律上の問題とは別に倫理上の問題があって、こちらも難しい。罪には当然罰がある。罰には、法律上の処罰があるうえに、社会的制裁というものがあり(これは思っている以上に重たい罰である)、最後にこころのなかの罪意識という罰がある。最後の罰は外部から加えられるものではないが、犯罪の後に精神的な異常をきたしたり、場合によっては自らを死に追いやったりすることから考えると、そこにはすさまじい葛藤が生れることが窺える。また、そこに、刑罰を待たずして自ら死を選ぶのは卑怯だというような議論も生れて、非常に厄介な問題なのだ。

 全然まとまらないが、書いているうちに気の重くなるテーマだ。しかし、こういう問題もたまには考えるべきだろう。

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