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2010年9月12日 (日)

「死」について考える

 50歳を過ぎ、明らかに老化しているのだから、死は確実に近づいている。しかし、それを感じつつあっても、まともに考えることはなかった。これからも同じかもしれないが、ブログの記事を書くことを通じて少し考えてみようかと思った。

 「死」について考えるとき、どのようにして死ぬかという問題と、その死に至るまでの人生をどう生きるかとい問題がある。当然、後者の方が重要である。
 死期およびその要因については主体的に選ぶことができない。自らを死に追いやることも可能だが、ここではその問題は扱わないことにしよう。死因については、病死か事故死か、いずれかになるだろう。実際は病死の確率が高い。それは、遺伝的要素と生活のなかでの心身への負荷のかかり方によって、決まってくる。いずれかの器官あるいは周辺との複合的な関係において不具合が生じ、最終的には機能不全を起こして死んでいくのである。
 どういう死を迎えるか予測はできない。心づもりとしては、父方に脳梗塞の発症例が多いので自分にも当てはまる恐れが高いと思っている。母方は長生きの血筋だが、いくつかの要素から自分は父方の遺伝子を受け継いでいると思い込んでいるので、長生きは出来ないと想定している。もちろん、その時期は特定できないので、いつ来てもおかしくないという設定のもとに注意深く生活するしかないのである。
 死後の世界(「あの世」と言えばよいのか)を信じる人がいるが、私はそれは考えない。死期が近づいたときにも考えないとは言い切れないが、いずれにしても「死」はこの世の終わりであることには変わりがなく、自己の消滅であると同時に自分にとっての社会的関係の消滅である。それ以降は、家族や自分が関係していた小社会がどうなっていくのかを見ることができないし、ましてやそこに影響力を与えることができない。少なくとも、見ることさえできたら死はずいぶん楽なものになるだろうに。死んだ後の自分の葬式だけでも見てみたいものである。しかし、見ない方がいいかもしれない。誰も死を悼んでくれなかったらどうしたらよいのだろうか。

 さて、そのような「死」を意識しつつどう生きるかという問題が残されている。そんなことはすっかり忘れて気楽に生きる方法もある。案外、自分はそうしているのかもしれない。残りの人生の計画をしっかり持っているわけでもなく、近い未来だけを視野に入れて生きているのが実態である。かと言って、計画を立てたところでいつ死ぬか分からないのだから無意味だと考えているのでもない。いつ来るか分からない死に怯えながら生きるのは愚かであり、確証はなくとも死を一定期間先のことだと想定して、出来れば、定年まで、定年延長期、その後(いわゆる老後)の三期ぐらいに分けて計画が立てられたらよい。今のところは、何も出来ていない状態であるのだが。
 どう生きるかは、どう生きたいかという問題である。どう生きたいかという問題は、自分がなにを一番価値あるもの、あるいは価値あることと考えているかという問題である。しかし、意外にも明確に答えられる人は少ないのではないか。もちろん、何かあるには違いない。違いないが、はっきりと価値観として、信条として表明するのは難しいのではないか。それはかなり漠然としていて、はっきり死を視覚に捉えた時に、何だったのかを考えだすのではなかろうか。
 では、自分自身はどうか。私は、平均的な成年男子に比べると、自分の価値観をしっかり持っている方だと思う。他の人と同じように、家族を大事にし、家族と楽しく暮らしたいと思っており、そこをベースに社会的な価値を追求したいと考えている。家族を犠牲にしてまでもそれを追いかけるべき価値は想定していない。
 それが何かは、これまで私のブログを読んでいただいた方には説明が要らないだろう。長くなるので、ここでは改めて言わないでおきたい。大事なことは、そのこととの関係で、生きることを考えざるをえないし、「死」もそのこととの関係で考えざるをえないということだ。

 一日でも長生きしたいと誰しも思うに違いない。それは動物の本能として正しい。しかし、加えて、人間だからその意味を問わざるをえない。簡単に答えが出るものでもない。ましてや、一つのブログで考えつくせるものではない。繰り返し考え、少しずつ前進する類のテーマである。

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