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2010年9月15日 (水)

徒然草を読む

 兼好法師の「徒然草」を久しぶりに読む。こういう機会は、子どもが古典を学ぶ時期に訪れる。
 三男が、感想文を書くための読みやすい古典の本が欲しいと言う。週末には必ずと言ってよいほど書店に出かける私は、ついでに買ってきてやると約束して家を出た。いつもの大きな書店の参考書売り場へ足を運ぶ。読みやすいのは「徒然草」か「枕草子」だと決めつけていたので、そのなかから選ぶことにした。とは言っても、何種類もある。少し迷ったが、徒然草と方丈記からいくつかの文章を抜粋し、朗読のCDが付いたものを買った。1200円だった。そのついでに古文の参考書を見てみたが、そこには懐かしい小西甚一さんの「古文研究法」と「国文法ちかみち」があった。それほどたくさんの時間を費やして勉強した方ではないが、それでも懐かしく思うのはお世話になった記憶があるからだろう。参考書にも名著と言われるものがある。

 さて、徒然草のいくつかの段を読んだが、有名な段が抜粋されているので、いくつかは覚えているものがある。「高名の木登り」は非常に有名。「仁和寺にある法師」は、そういう早合点はよくあることだと思わせる話だ。「丹波に出雲という所あり」は、背を向けた狛犬を有難がっている上人とそれを子どものいたずらだと言ってさっさと片付けた神官との落差が面白い。
 そういうわけで、非常に面白い随筆(今の区分で言えば、このジャンルに入るのだろう)なのだが、中世の文学を代表する作品かというと、それは評価のしすぎではなかろうか。教訓になる話はあるが、今でいえば養老孟司先生のエッセイみたいなもので、ものすごく意地悪な言い方をすれば、生活に困らぬ坊主が暇にまかせて書いた文章だと言えなくもない。同じく坊主が書いた中世の文学でも、「正法眼蔵」などはこれとは到底比較できないほど高尚で深みのある本だろう。長い修行の過程で追求された真理と兼好法師の気楽に書き綴った文章とのギャップは大きいと言わざるを得ない。古文のテキストとしては手ごろなものに違いないが。

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