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2010年9月の投稿

2010年9月30日 (木)

たばこが大幅値上げ やめられますか

 10月1日からタバコが大幅に値上がりする。もともと吸わない者にとっては何の影響もないが、喫煙者にとってはこれを機にやめるかどうかの判断を迫られることになった。私の上司であるKさんは長年愛煙家であったが、奥さんにも勧められてやめる決断をし、皆の前でも宣言した。これは、値上げで小遣いを圧迫するということもあるが、健康維持が優先する目的である。

 すでにやめているかつて部下だったT君の話によると、やめる前に比べると仕事の効率が上がり、定時の40分前に終わるようになったそうだ。喫煙によって40分のロスが生まれていたことになる。人によって差はあるだろうが、多かれ少なかれ効率は落ちるのであって、健康への害と合わせて一利もないということだ。あえて言えば、納税への貢献はあったわけだが、国民の健康悪化は民力の低下につながるのであって、それと引き換えの税では理由付けが困難だ。

 値上げで、やめはしないが本数を減らすという人もいるだろうか。一日10本以内に抑える。ああいうものは吸い始めるとどんどんエスカレートするものだから、一定のところできっちり我慢するのは至難の業ではなかろうか。それをやり遂げる強靭な精神があるならば、やめてしまえるはずである。

 いずれ一箱千円の時代がやってくる。そこまで行くと外国から持ち込まれたりして闇のタバコが出回ったりするのだろうか。

2010年9月29日 (水)

脳にやさしくなる

 健康には気をつけなければならない。医療費の増大が保険制度を危うくすると言われて久しいが、直接には保険料負担と窓口での負担が増加して、気軽に病院へも行けなくなってしまった。アメリカはさらにひどい状況で、医療費がべらぼうに高いから病気になれない。各自で健康の維持・増進に努めなければならない。

 日本でも、歩いたり走ったりしている人を頻繁に見るようになった。マラソン大会への出場者は年々増えているようだ。流行りという要素もあるのかもしれない。また、運動に加えて食物への関心も高い。一時的なものかもしれないが、食材へのこだわりが生まれたり、健康食品に手を出したりしている。それがどれだけ有効かは分からないが、継続することで効果が生まれる場合もあるに違いない。
 さて、最近では肉体だけではなく、精神の健康にも注意が及ぶようになった。単に病気にならないためというのではなく、いかに脳を活性化させて前向きに生きるかという問題意識も生まれている。テレビには脳科学の先生が出演していろいろなことを言っているし、出版物も多い。しかし、まだまだ聞いているだけで、ランニングなどのように生活のなかに取り込まれることはない。

 詳しく勉強していないので分からないが、長時間テレビを見続けていることは明らかに脳に悪いだろう。テレビゲームも同じではないか。同じテレビを見るのでも、自分の関心の高い分野を選んで見るのなら逆に脳への刺激があってよいと思うが、ただ習慣として受動的に見続けると脳が麻痺し始める。素人考えかもしれないが、大事なのは変化であり、それも外から否応なく持ち込まれる変化ではなく、自ら主体的に仕掛けた変化がよいのである。

 なぜこんなことを書くかというと、自分の生活は決して脳にやさしくないと思うからだ。体の傷にはすぐ気がつくが、脳の傷はなかなか自覚しづらい。知らぬ間に腐り始めているかもしれないのである。脳にも栄養が必要だ。物理的に言えばブドウ糖なのかもしれないが、普段見ない自然を見せてやったり、芸術に触れさせてやったり、本を読んで普段使わない部分を機能させてやったりすることが栄養になるのだ。そういうことをしていると、ストレスで付いた傷も癒されて消えていく。

 脳にやさしい生活を。

2010年9月28日 (火)

カツカレー

 カレーライスは日本人にとって、なかでもわれわれの年代にとって特別な食べ物のように思える。誕生日の夕食には必ずといってよいほどカレーライスが食卓にのぼった。肉はあまり入っていなくても、御馳走だったのだ。ケーキはない。プレゼントはもちろんない。しかしカレーがあればそれで納得したのだった。

 外食する場合に、カレーライスを選ぶ場合がある。チェーン店も数チェーンあるので、食べようと思えばいつでも食べられる。昔、予備校の近くにカレー屋があって、そこでよく食べた。生協のカレーと並んで、ここほど美味しくないカレーはなかったが、量はたっぷりあり空腹を満たすことができた。あれはカレーとは呼ばない方がいいのかもしれない。黄色い汁をかけたジャガイモご飯とでも呼ぼう。

 カレーライスにいつからトンカツがのるようになったのか知らないが、ちょっと贅沢だ。注文するときに少し背伸びをしている。とはいえ、あのカツはとんかつ定食のカツより薄い。あくまで主役はカレーで、カツは添え物なのである。あまり大きくて厚いと邪魔になる。

 何事にも、主があり、従がある。

2010年9月27日 (月)

ヤサシイキモチ

 理容ワシントンで散髪をしていると、テレビから競馬の中継が聞こえてきた。そのレースに出走した馬のなかに「ヤサシイキモチ」という名の馬が走っていた。この馬は3着に終わったが、名前が記憶に残った。

 人間の場合、名は体を表すというが、馬の場合はそうではなかろう。やさしい気持ちの馬では競走に向かない。
 馬は血統で走るのであって名前で走るのではない。しかし、強い馬にはいい名前が付いていうるように思える。期待の大きい馬には立派な名前を付けるのだろうか。それとも強いから立派な名前に聞こえるのだろうか。どちらの要素もあるように思う。

 記憶にある強い馬の名前を並べてみよう。シンザン、スピードシンボリ、トウショウボーイ、テンポイント、シンボリルドルフ、トウカイテイオー、タイキシャトル、エルコンドルパサー、ディープインパクトなどなど。どれも立派な名前だ。年代が違うし、距離適性も違うのでどれが最強馬かの判断は難しいが、シンボリルドルフを推す声が強いように思う。しかし、それぞれにそれぞれの強さがあった。早熟のトウショウボーイに先を越されていたが、形勢を逆転し有馬記念で競り勝ったテンポイントは感動的だった。トウカイテイオーの復活劇もよかったし、馬力ではなんといってもタイキシャトル。エルコンドルパサーのスピードは並はずれていたし、ディープインパクトは次元の違う走りをした。

 これらと比べるとヤサシイキモチは平凡な馬だ。血統は悪くないのに30戦して2勝。名が体を表してしまったのかもしれない。

2010年9月26日 (日)

My Funny Valentine

 ジャズは詳しくないけれども、ポピュラーな曲だと耳にすることがある。たとえば、マイファニー・バレンタインという曲などは団信也がものまねに使っているのを聞き、いい曲だなと思って記憶に納まった。ちなみに、フランク・シナトラ、ディーン・マーチン、ナット・キング・コール、サッチモ、ジェリー・ルイスを歌い分け、おまけに東八郎、橋幸夫まで出てくる。いい曲だと思ったのは団の歌が上手かったからだろう。歌真似は歌唱力がなければ形にならない。

 この曲は、いろいろなアーティストが歌い、奏でている。どれがいいかは好みの問題である。ボーカルではサラ・ボーン、エラ・フィッツジェラルドがいいと思ったし、チャカ・カーンは別の世界で歌っている感じがして聴かせる。概して女性が歌っている方がよい。変わったところでは、トム・ジョーンズやシャーリー・バッシーも歌っていて、イメージと違うところだが、シャーリー・バッシーは意外にいいと思った。
 演奏では、マイルス・デービスが文句なしによい。

 おなじ曲でも、人によって全く違う曲かの様に聞こえてしまうのは、ジャズだからだろう。

 

2010年9月25日 (土)

領土問題

 尖閣列島の領有権問題を背景に、漁船船長の身柄を拘束した事件が政治問題化し、釈放した後もしばらく尾を引きそうな気配がする。

 仕事を通じて中国に多数の友人を持つ身としては、この問題について多くを語りたくない。事件後もわざわざ友好を保ちましょうとメールをくれた人もいる。民間レベルではお互いに必要としており、政治問題は邪魔になる。

 ひとつ言えることは、日本は、あるいは日本の企業はと言った方がいいかもしれないが、中国の市場なしに成長できないということだ。建前は相互依存だが、日本の立場は弱い。

 尖閣列島問題は、政治問題ではあるが、背景に厳然とあるのは経済問題である。

2010年9月24日 (金)

「ザ・ロード」 コーマック・マッカーシー

 核兵器による世界全面戦争後の世界であろうか。人間が作り上げた世界は自然とともに焼け崩れ、大気には黒い埃が舞い散る。太陽の光は薄く地上に届くだけで、気温が下がり、凍えた世界になってしまった。

 そんななかを凍てつく寒さを逃れるために父と子が徒歩で南下の旅に出る。持ち物は、スーパーのショッピングカートに乗せたわずかの衣類や食糧などである。災厄に見舞われた後に生き残った人々はいたが、限られた物資をめぐって掠奪や殺戮が繰り返され数を減らしていた。また、暴徒によって奴隷化された人々もおり、身の安全を守ることは不可能な状況に追い込まれてたのだった。
 秋が深まるにつれ、寒さが二人を追いかけてくる。季節の進行は二人の足取りよりもはるかに速い。冷たい雨が降り、そして雪に変わる。変わらないのは、絶望的な状況にあっても生きることをあきらめない父子の姿である。灰に覆われ、埃の舞い散る風景が延々と描かれる。そして、そこに浮き上がる親子の会話。男の子の、人の「善」に希望を抱く素朴な心。その心を大事にしながらも、生き延びるために現実的に行動する父。そこには理想と現実の相克がある。
 この二人以外に登場する人間は少ない。人を喰う暴徒。奴隷を従えた武装集団。彼らと同じように南に移動する男女のグループ。視力を失い、衰弱しつつある老人。孤立し、父子の荷物を盗む無力な男。悪い奴らは集団化し、武装している。孤立し、武器を持たぬ者は悪人になることすらできない。悪い奴らからは逃げ延び、無力な人には同情を示しつつも分け与える余裕はなく、放置してひたすら南へ向かうのだった。
 物語のなかには、首を切り取られ内臓を抜きとられた赤ん坊が串焼きにされている場面などがあり、刺激の強い表現も見られた。この話にどこまで必要なのか。読者の興奮をあおるための仕掛けにすぎないのか。こういうものは今やあちらこちらで目にするので慣らされてしまっているが、少しこだわって考えてみるべきかもしれない。

 南部の海岸線までたどり着いてしばらくのち、父は寒さと疲労のために肺を患い体力を消耗して死んでしまう。これで少年も終わりかと思われたのだが、運よく親子のグループにめぐりあう。その後どうなるかは分からないが、小さな希望は生き延びた。絶望のまま幕を下ろすのであれば、重苦しさに耐えて読み続けたあの時間から意味が失われてしまう。

2010年9月23日 (木)

差別について少々

 私は「ココログ」でブログを書いているが、そこの利用者向けサービスにココログ広場というものがある。そのなかにはさらに「つぶやき広場」というコーナーがあって、さまざまなテーマを出し合って意見を交換している。
 今日開いてみると、差別は常にあるのではないかというお題があった。いろいろ意見があり、人それぞれのとらえ方があっていいと思うが、制度としての差別と差別意識とをひとまず分けて考える方が分かりやすい。

 あまり話を広げると分かりにくいので、就職差別に絞って考えてみる。大手の企業はみな同じだろうが、新卒にしても中途採用にしても事務系・営業系は大卒が条件で、技術系では最近院卒まで求めるようになっている。私の勤める会社は小規模だが、同じような基準になっている。企業が欲しいのは、建前でなく、正味有能な人材である。仕事のできる人なら学歴に関係なく欲しい。では、なぜ学歴で線を引くのだろうか。それは学歴差別には違いない。
 できる・できないの見極めが非常に難しい。できないと思って採用したが実はできたという例はあまりないが、できると思って採ったができなかったという例は多い。採用の判断には不確実性が存在し、リスクが大きい。本来はあらゆる人に門戸を開放すべきだが、他の企業にならって安全策を選ぶことになる。試験を受けさせれば、学歴の高いものほど点数が若くなる傾向はあるだろう。入試という関所を通った人間に困難を突破する力を見るのも根拠のない話ではない。そういう要素を根拠にして、最初から障壁を設けるのである。
 とはいえ、私の勤める会社の社員が全員大卒以上だというのでもない。昔は高卒や高専卒も採用したから、そういう人がいる。また、同じ大卒でも有名大学もあればそうでない大学もある。しかし、そういうことには関係なく入ったら仕事の中身次第である。ほぼそういう基準で動いている。派閥もない。しかし、意識のなかには差別的な要素が入り込む場合があるのではないかと思う。人物本意ではなく、高卒だからどうだとか、○○大学卒だからどうだとかいう判断の仕方が混じりこむ。実際には本人の資質の問題であったり、努力の不足によるものだったりするのだが、評価する側の公平性の欠如や業務の怠慢からそんな論理が持ち込まれるわけだ。

 人間の人間に対する評価は、外的な要素で行われることが多い。内面を見るのは難しいし、人の行動を細かく見るのは管理者の役割ではあるのだが、それは意外とできないものなのだ。責任の不履行ではあるが、多くの人に共通する弱さであることも知っておく必要がある。

2010年9月22日 (水)

為替相場について

 日本銀行のホームページにはこう書いてある

Q:為替相場とは何ですか?

A.:為替相場(為替レート)は、インターバンク市場における円やドルなどの各国通貨の取引の相場です。インターバンク市場では、金融機関が通常、百万通貨単位を最低取引単位とする取引を、電話やコンピューター端末を使って行っています。

 「本日の東京外為市場の円相場は、1ドル=○○○円××銭と、前日に比べて△△銭の円高ドル安でした。」など、ニュースなどで最も頻繁に目にするのは円・ドル相場ですが、その他の様々な通貨の組み合わせに関するレートも存在します。

 また、個人が銀行などで小口の両替や外貨預金をする際のレートは、いわば小売り段階のレートですので、インターバンク市場の相場とは異なります。

 変動相場制下における為替相場は、誰かが一方的、恣意的に決めているわけではありません。市場における需要と供給のバランスによって決まるのです。これは、物やサービスの価格が決まるのと同じ原理です。

 ドルに対して円が高くなったらどうなるか。逆に安くなったらどうなるかについては、池上彰が解説する程度のことは分かっているが、それ以上突っ込んで考えると難しい。為替に関する本も買ってきたが、開かないままになっている。
 通貨が売買され、その需給関係で交換の比率が変化することは分かるが、そもそも通貨の価値とはなにかとか、その変動は単に売買行為だけで決まるのかについては分かっていない。おそらくほとんどの人は分かっていないし、専門家だって正確に答えることができないだろう。

 通貨の価値とは・・・。それは国の力を表すものだろう。国家の存在が前提になる。国家がなければ通貨は一つでいいはずだ。国の力といってもどんな力か。基本は経済力だろう。インフラが整備されて、労働者の教育水準が高く、製品やサービスをたくさん、あるいは高品質に生み出す力が蓄積されているかどうかで決まるのではないか。
 そこに加えて、政治の力がある。軍事力や外交の力もそこに含まれる。そして総体として国の力として現れる。

 しかし、その力は長い時間をかけてじっくり築かれたものだ。そういうものが刻一刻変化するのはおかしいじゃないか。売買で動くからだ。それも然り。売買の主体は、いろんな国に属する個人や団体だ。おそらく個人の存在は微々たるもので、本当の主体は組織あるいは機関なのだ。そういうところが、いろいろな思惑をもって、すなわち投機的に通貨を動かすから変動するのだろう。

 より大事なのは、先を読むだけではなく、意図的に操作をすることだ。そこに国家が加わると、大変なことになる。今起こっている円高にはそういう要素があるのではないか。政治的な結果をもって日銀が市場介入を始めたが、なんとも見え見えの判断であって、外国からは冷ややかに見られているらしい。内需の細った欧米は輸出に活路を見出したいから、ドル安ユーロ安は歓迎なのだ。ユーロはギリシャショックで急落したが、おかげてドイツ企業の業績は回復した。

 意図的な操作があると、国民が努力して身につけた国力や財産が一気に価値を暴落させる。これがもっとも怖いことであるが、実はもっとも本質的なことではないのだろうか。

2010年9月21日 (火)

映画「悪人」を観る

 今日は珍しく劇場での映画鑑賞。梅田のTOHOシネマズへ家内と出かけ、吉田修一原作の「悪人」を観た。原作の文庫本上下を買ったのだが、それを読む前に映画の方を観てしまった。

 感想だが、途中で飽きが来なかったので良かったのではないか。この飽きが来る来ないが私にとっての評価の一つの基準となっている。全体の構成については特にないが、これは必要ないのになぜ入れたんだろうと思った場面が一つあった。しかし、その後の展開にくぎ付けになっているうちに映像の内容を忘れてしまった。映画というものはあまり説明口調になってしまってはいけない。

 断片的な感想を。主演の二人について。妻夫木聡はせりふはあまりうまいとは思わないが、人気があるから仕方ないか。深津絵里は上手。地方の紳士服チェーン店に行けばいそうな感じを出している。しかし、こんな女に惚れられてみたいと男は思う。岡田将生(後で調べて名を知った)は、地でやっているのではないかと思わせるほど生意気な学生を好演している。柄本明は面白い役者だが、今回の役は良かった。娘の死体を確認するところと、そのあとその場所から足早に立ち去るシーンが父親の心情と体面をよく表している。宮崎美子はそこそこか。相変わらず胸が大きくて役柄と不釣り合いである。われわれの世代にとってはアイドルであり、嫌いではないのだが。
 樹木希林は老けてからの老婆役がよい。もっと老ければもっと味が出るように思う。詐欺師にだまされ、高い漢方薬を売りつけられる場面があり、その後でお金を取り戻しに行くのだが、あのシーンも無くていいのではないかと思った、賛否両論あるだろうが。井川比佐志はいつも通りのわき役だが、あの役は井川でなくてもよい。もったいない。井川という役者は大衆のエネルギーの象徴のような人なので、病人は似合わない。

 勝手なことを書きならべたが、よい映画だった。お薦めしたい。

2010年9月20日 (月)

アメリカの文学など 

 今、「ザ・ロード」という小説を読んでいる。ピューリッツァー賞を受賞し、映画化もされた有名な小説だ。
 読んでいると重苦しい気分になる。休日にわざわざそんなものを読まなくてもいいのに。楽しくなるようなものを読めば・・・。もっとも、楽しい小説もないことはないが、なかなかその手の本には行き当たらない。気軽に読めるサスペンスだって事件が発生するのだからハッピーではない。文学とは、概ね深刻なものである。

 コーマック・マッカーシーはアメリカの作家である。そもそも海外の文学には明るくないが、アメリカの作家というとさらに知識は少なく、また印象としては国の歴史が浅いせいか深みに欠けるという先入観を持ってしまう。一般的な評価はどうなのだろうか。
 知っている(読んだという意味ではない)作家の名を上げると、ヘミングウェイ、パール・バック、それからサリンジャーぐらいか。このあたりがポピュラーである。
 もっとも親しみのある作家はマーク・トウェインだろう。私も、「トム・ソーヤーの冒険」と「ハックルベリィー・フィンの冒険」を読んだ覚えがある。日本においてはどれほどか分からないが、アメリカの若者に与えた影響を決して小さくないだろう。読んでいて楽しい小説の典型である。
 他には、ウィリアム・フォークナーがいる。ヘミングウェイと並んでノーベル文学賞を得た作家だが、日本の小説家への影響力も大きい。その筆頭は中上健次だろう。中身まで触れると浅薄な知識が露呈するのでやめておくが、中上の研究には切っても切れない題材には違いない。

 日本ほど海外の文学を読む知識人の多い国はないと何かに書いていた。それは関心の的が外国に向いているからであろうし、それに合わせて翻訳も多くなっているからであろう。逆に日本の作品が外国語に翻訳されることは少ないという。いくらかスケールの小ささはあっても、決して日本の文学が劣っているとは思わないが、日本語のままでは評価はされないのは当然で、翻訳次第だ。そんななかでも、村上春樹は読まれているし、よしもとばななも翻訳が多い。彼女はイタリアでいくつかの文学賞を受賞しており、日本より評価されていると思う。
 世界的に評価されるのには、翻訳の質と量がカギになる。

カラオケ 歌詞と映像のアンマッチ

 たまに行くカラオケであるが、曲は十二分に揃っていて歌いたい歌がないということはまずない。しかし、一つ一つのソフトのつくりがかなり手抜きである。昔はソフトの数は少なかったが、もっと凝っていたような気がする。それだけ一本のソフトの価値が小さくなったのだろう。

 何年生まれだと聞かれそうだが、青木光一の「柿の木坂の家」を選曲すると漁港の映像が出てきた。歌の中身を知らないでくっ付けたのか、それとも地方の映像を流しておけばとりあえず郷愁を誘えると判断したのか、いずれにしても安易である。次に「城ケ島の雨」を選曲した。これをカラオケで歌うのは無謀だった。歌に合わせてピアノを弾いてもらわないと形にならない。それはさておき、映像だが、なんと原っぱが映っている。城ケ島でなくてよいから、海の画はなかったのか。最低限、晴れていない海がよい。風景だけでよいのである。船頭さんはなくてよい。原っぱじゃ情感は湧かない。
 ほかの曲を歌っていると、緩やかな丘陵地帯に広がる水田の映像があった。柿の木坂のバス停は山道の途中にあるのだろうからこの場所とは違っているが、漁港よりははるかにフィットしている。これを付ければよかったのだ。それぐらいの融通は利かないのだろうか。

 仕事の条件からして、そういう選択肢はないのだろうか。そもそもそういうことがわからない人が仕事をしているのだろうか。それほど厳しい要求でもないように思うのだが。

2010年9月19日 (日)

体育祭の時期

 昨日、息子の学校の体育祭を見に行ってきた。ずいぶん早い時期に行われる。これまでの常識では9月末から10月の初めだった。今年は猛暑が続き、この日も平年を3℃以上上回って30℃を超えた。まだ季節は夏である。

 息子はまだ中学生だが、中高一貫の私学なので、高校と一緒に行われる。大学入試を前にして行事を早めに済ませようとの判断だろう。また、土曜日に行うのは父兄を呼べることと代休をとらなくて済むからであろう。
 中高合同だと中学生は付録みたいなもので目立たない。中学1年生などは高校生と比べるとうんと小さく、可愛く見える。逆に、数年間でこんなにも成長するのかと驚くのである。高校3年生にとってはこれが最後の体育祭。応援合戦でも中心に座り、張り切っている。この舞台は彼らのためにあるといってもいいほどだ。

 これを書きながら昔の自分を振り返ったが、あれだけ一日中大声を出したり、体を動かしたりしたのはあれ以来ないのではないかと思う。大学で体育会系のクラブ活動に熱中した人は別にして、多くの人に共通したことかもしれない。社会人になっても町会の運動会などがあるが、あれはほどほどに頑張るのものであって、あまり頑張って怪我をしないでくださいと注意を受けるほどである。

 大人になると何かにつけブレーキを踏みたくなるものである。

2010年9月18日 (土)

浜矩子氏の発言から

 遅い夕食をとりながら報道ステーションを見ていると、学生の就職難について話し合っていた。ゲストの一人に浜矩子氏がいた。最近では著書が多く、知名度も上がっている人である。

 番組では就活に忙しい大学生にインタビューし、なかなか内定が出ない状況を報じていた。浜氏はコメントのなかで、「企業も学生もこの問題を打開するために一緒に考えなければならない。」と語ったのだが、難癖をつけるつもりはないが疑問を感じてしまった。なんとなく聞こえの良い表現だが、一緒に考えるのは無理だろうと思うのだ。
 学生は学生で、企業が求めている人材の質や働く目的について考えるだろう。企業は企業で、継続的な発展のために新しい人材の採り方について考えるだろう。「一緒に」が、同時にという意味でならすでに考えているのだが、浜氏の言葉の意味は「協力して」という意味だろう。であれば、それは難しい。会社は組織だが、学生は個人だ。組合があるわけでもない。企業はしばらく新卒を採用しなくても、さしあたって経営に窮することはない。学生はこの瞬間が勝負である。これだけ立場の違う二者が対等に協力して考えることはできないのだ。

 一学年で10万人ほどが新卒採用からあぶれるらしい。それだけ企業も余裕がないのだが、雇用も社会的責任の一つとして考えてみるべきだし、事業の成長や新規事業への挑戦で人材を活かす道を拓くべきである。

2010年9月17日 (金)

経済学知らずの経済論 序

 経済学をまともに学んだことがない。経済現象については新聞を毎日読んでいるし、興味も覚えるが、それを知識として得ているだけで原理的に把握しているのではない。経済学者やアナリストは原理的な理解が出来、正確ではなくともおおよその予測もできるに違いないが、人によっては正反対のことを言っていたり、予測の数値も大きくかけ離れている現実を見ると、かなりいい加減なものだなと思う。あるいは、対象自体があまりに不安定、不確実なものだから、そういう結果を招くのかもしれない。

 大学の時に、サムエルソンの経済原論を使った講義に出たが、面白くなかったので数回出席したあと放棄してしまった。その後、原論のレベルで近代経済学の分野に立ち入ったことがない。今は、書店へ行くと経済原論のテキストにサムエルソンの名はない。その代わりにマンキューとやらの本が並んでいる。一般的に言えば、いつまでも同じ学者のテキストが使われるということは学問が進歩していないと考えられるから、変わるのはよいことである。しかし逆に考えると、社会科学とは言うけれど、経済現象を科学的に捉えることは至難の業であって、その根本概念、根本原理さえ確定せず動揺しており、実際には狭い範囲で恣意的な解釈が繰り返されていることを意味しないだろうか。そうなるのは、経済現象があまりに肥大化していて、それを総体として説明できるような学者あるいは理論が出現しえないからだろう。

 さて、これから少しずつでも、経済という営みについて探究したいと思う。しかし、極力経済学のテキストには手を伸ばさず、これまでに得たいくつかの概念だけを使って自分の解釈を試みたい。非常に効率の悪い作業だが、細かい議論に入り込んでしまうと、現在の経済システムの根本問題に行きつかないからである。根本的な問題があるなら、根本的な治療が必要になるだろう。当たり前に思っていることが当たり前でないことが分かったら、その事実は伝えなければならないだろう。

 それほど大そうなことではないが、世界の成り立ちや、変化のメカニズムについては大いに知りたいと思っている。お金とはなんだろか。価値とは。交換とは。平等・公平を装っているが、実は知らないうちに富は移転していっているのではないか。労働の成果は、自分の手の届かないところに遠ざかっているのではないだろうか。などなど。

2010年9月16日 (木)

首藤瓜於 「脳男」

 第46回江戸川乱歩賞受賞作。気楽に読めばいい作品なので、あまりとやかく言わない。読めば面白い作品である。

 脳や心理に関する科学の知見が盛り込まれている。それが正しいのかどうか、虚構も含まれているのかどうか判断はつかない。サスペンスとは言え、ストーリーは虚構であっても、それを組み立てるための、あるいは基礎づけるための科学的情報に嘘があってはいけない。まだ証明できないような要素は、そう書き添えるべきだろう。よく知らないが、そういう約束事は存在するのだろうか。
 とはいえ、SFなどの領域になると、ほとんどすべてが説明不能の世界のように見える。何億光年も離れた星に異星人がおり、地球人と交流したり戦争を起こしたりする。どういうエネルギーを使い、どういう装置で移動できるのか。私はその方面に疎いので、よく分からないが、アイザック・アシモフなどは科学に精通した人であるし、他の大家も深い知見を持った人達だろうから、いい加減なものではないだろう。それにしても、文字通りフィクションなので、読む方もそれを承知で選んでいるに違いない。

 続編の脳男2は上下2巻で、同じく講談社から出版されている。

2010年9月15日 (水)

徒然草を読む

 兼好法師の「徒然草」を久しぶりに読む。こういう機会は、子どもが古典を学ぶ時期に訪れる。
 三男が、感想文を書くための読みやすい古典の本が欲しいと言う。週末には必ずと言ってよいほど書店に出かける私は、ついでに買ってきてやると約束して家を出た。いつもの大きな書店の参考書売り場へ足を運ぶ。読みやすいのは「徒然草」か「枕草子」だと決めつけていたので、そのなかから選ぶことにした。とは言っても、何種類もある。少し迷ったが、徒然草と方丈記からいくつかの文章を抜粋し、朗読のCDが付いたものを買った。1200円だった。そのついでに古文の参考書を見てみたが、そこには懐かしい小西甚一さんの「古文研究法」と「国文法ちかみち」があった。それほどたくさんの時間を費やして勉強した方ではないが、それでも懐かしく思うのはお世話になった記憶があるからだろう。参考書にも名著と言われるものがある。

 さて、徒然草のいくつかの段を読んだが、有名な段が抜粋されているので、いくつかは覚えているものがある。「高名の木登り」は非常に有名。「仁和寺にある法師」は、そういう早合点はよくあることだと思わせる話だ。「丹波に出雲という所あり」は、背を向けた狛犬を有難がっている上人とそれを子どものいたずらだと言ってさっさと片付けた神官との落差が面白い。
 そういうわけで、非常に面白い随筆(今の区分で言えば、このジャンルに入るのだろう)なのだが、中世の文学を代表する作品かというと、それは評価のしすぎではなかろうか。教訓になる話はあるが、今でいえば養老孟司先生のエッセイみたいなもので、ものすごく意地悪な言い方をすれば、生活に困らぬ坊主が暇にまかせて書いた文章だと言えなくもない。同じく坊主が書いた中世の文学でも、「正法眼蔵」などはこれとは到底比較できないほど高尚で深みのある本だろう。長い修行の過程で追求された真理と兼好法師の気楽に書き綴った文章とのギャップは大きいと言わざるを得ない。古文のテキストとしては手ごろなものに違いないが。

2010年9月14日 (火)

嗜好の違い 特に味覚の民族性

 外国に行って一番困るのは言葉が通じないことであるが、次に辛いのが食べ物の違いである。

 外国といっても、中国の話である。上海で仕事をしていると基本的には中国料理を食べることになる。そして2日もたつと食べたくなくなる。福建省へ行くと、上海よりは日本の味に近くずっとましであるが、それでも飽きが来る。日本料理店を探して定食を食べたり、パン屋であんパンを買ったり、マクドナルドに行ったりするようになる。古北路の「魚ざんまい」という日本料理店で食べたサバの塩焼き定食はこの上なく美味しかった。しかし、日本料理だからと言って、どこでもおいしいのではない。浦東空港で食べた北海道ラーメンは、味噌ラーメンのつもりだろうが、実際は味噌汁ラーメンだった。吉野家は牛丼でも少し味がからかった。
 古北路の店の場合は、食べに来る客が日本人中心だから日本の味そのままだが、チェーン店化した店は中国人の口に合わせた日本風の料理になっている。

 素材に大きな違いはないのに、この味付けの違いはなんだろうか。昔からそういう味に慣れ親しんでいるから、それがおいしく感じるという理屈だろうが、それでは始まりはどうだったのか。調味料は、塩は別にしても身近で手に入る材料に由来するものに違いない。調理方法は、気温が高ければ火を通さざるをえないというような気候条件に左右される面もあろう。そのような地理的条件に制約を受けながら、時には民族の移動・交流によって文化的な影響も受けつつ変化していったのだろう。
 それにしても日本食はおいしい。中国の人に聞いてもおいしいと言うから、正味おいしいのだ。さきほど述べた、地理的な側面においても、文化的な側面においても日本は好条件にあるからに他ならない。ああ日本人でよかったなどど改めて思わないが、恵まれた条件にあるとは思う。

2010年9月13日 (月)

中国の金持ち

 中国に住む金持ちは、本当の金持ちだ。日本の金持ちよりもずっとお金を持っている。

 中国の金持ちは、私の見てきた範囲でいうと固まって住んでいる。先日、上海の古北路地区を歩き回ってきたが、超高層の高級マンションが並んで建っている。ここには当然のことながら貧乏人は住んでいない。マンションに囲まれた広場にはステージがあって、催しに使われているらしい。噴水があって幼い子どもたちが遊んでいる。あるいは、おもちゃの電気自動車を自分で運転している幼児もいる。そのまわりには母親やおじいちゃん、おばあちゃんが見守っている。と、思ったのだが、あとで聞くと彼らの大半は子守りのために雇われた使用人らしいのだ。こういうことは日本に皆無ではないけれども、これだけ固まって存在するのは珍しいと思う。
 そこからしばらく足を運ぶと、マンションの一階に「Kids Art」と書かれた看板があった。扉の内側には幼児が描いたと思われる絵が貼りついている。ここは、子どもが対象の絵画教室だろう。中国の金持ちは・・・、金持ちだけではなく中産階級も教育にはお金をつぎ込む。それなりの年齢になったら、次は留学させるのである。私の部下として働いている中国人女性もそういう一例である。
 これに対して、まずしい層は極端に貧しい。先月のブログで書いたと思うが、冷房のない家に住んでいる人達が地下鉄の通路に座り込んでいたり、ショッピングセンターの通路にシートを敷いて子どもを寝かせていたりするのである。また福祉政策が遅れているので身障者が物乞いをしている様子も見られる。

 進んだものと遅れたもの、豊かなものと貧しいものが混在する社会である。

 

2010年9月12日 (日)

「死」について考える

 50歳を過ぎ、明らかに老化しているのだから、死は確実に近づいている。しかし、それを感じつつあっても、まともに考えることはなかった。これからも同じかもしれないが、ブログの記事を書くことを通じて少し考えてみようかと思った。

 「死」について考えるとき、どのようにして死ぬかという問題と、その死に至るまでの人生をどう生きるかとい問題がある。当然、後者の方が重要である。
 死期およびその要因については主体的に選ぶことができない。自らを死に追いやることも可能だが、ここではその問題は扱わないことにしよう。死因については、病死か事故死か、いずれかになるだろう。実際は病死の確率が高い。それは、遺伝的要素と生活のなかでの心身への負荷のかかり方によって、決まってくる。いずれかの器官あるいは周辺との複合的な関係において不具合が生じ、最終的には機能不全を起こして死んでいくのである。
 どういう死を迎えるか予測はできない。心づもりとしては、父方に脳梗塞の発症例が多いので自分にも当てはまる恐れが高いと思っている。母方は長生きの血筋だが、いくつかの要素から自分は父方の遺伝子を受け継いでいると思い込んでいるので、長生きは出来ないと想定している。もちろん、その時期は特定できないので、いつ来てもおかしくないという設定のもとに注意深く生活するしかないのである。
 死後の世界(「あの世」と言えばよいのか)を信じる人がいるが、私はそれは考えない。死期が近づいたときにも考えないとは言い切れないが、いずれにしても「死」はこの世の終わりであることには変わりがなく、自己の消滅であると同時に自分にとっての社会的関係の消滅である。それ以降は、家族や自分が関係していた小社会がどうなっていくのかを見ることができないし、ましてやそこに影響力を与えることができない。少なくとも、見ることさえできたら死はずいぶん楽なものになるだろうに。死んだ後の自分の葬式だけでも見てみたいものである。しかし、見ない方がいいかもしれない。誰も死を悼んでくれなかったらどうしたらよいのだろうか。

 さて、そのような「死」を意識しつつどう生きるかという問題が残されている。そんなことはすっかり忘れて気楽に生きる方法もある。案外、自分はそうしているのかもしれない。残りの人生の計画をしっかり持っているわけでもなく、近い未来だけを視野に入れて生きているのが実態である。かと言って、計画を立てたところでいつ死ぬか分からないのだから無意味だと考えているのでもない。いつ来るか分からない死に怯えながら生きるのは愚かであり、確証はなくとも死を一定期間先のことだと想定して、出来れば、定年まで、定年延長期、その後(いわゆる老後)の三期ぐらいに分けて計画が立てられたらよい。今のところは、何も出来ていない状態であるのだが。
 どう生きるかは、どう生きたいかという問題である。どう生きたいかという問題は、自分がなにを一番価値あるもの、あるいは価値あることと考えているかという問題である。しかし、意外にも明確に答えられる人は少ないのではないか。もちろん、何かあるには違いない。違いないが、はっきりと価値観として、信条として表明するのは難しいのではないか。それはかなり漠然としていて、はっきり死を視覚に捉えた時に、何だったのかを考えだすのではなかろうか。
 では、自分自身はどうか。私は、平均的な成年男子に比べると、自分の価値観をしっかり持っている方だと思う。他の人と同じように、家族を大事にし、家族と楽しく暮らしたいと思っており、そこをベースに社会的な価値を追求したいと考えている。家族を犠牲にしてまでもそれを追いかけるべき価値は想定していない。
 それが何かは、これまで私のブログを読んでいただいた方には説明が要らないだろう。長くなるので、ここでは改めて言わないでおきたい。大事なことは、そのこととの関係で、生きることを考えざるをえないし、「死」もそのこととの関係で考えざるをえないということだ。

 一日でも長生きしたいと誰しも思うに違いない。それは動物の本能として正しい。しかし、加えて、人間だからその意味を問わざるをえない。簡単に答えが出るものでもない。ましてや、一つのブログで考えつくせるものではない。繰り返し考え、少しずつ前進する類のテーマである。

2010年9月11日 (土)

阿鼻叫喚 9・11から9年目

 上海のホテルでテレビを見ていたら、あの9・11の映像を繰り返し流していた。今日からちょうど9年前の事件である。テロリスト13人を含めて2,993人が亡くなった。

 ボーイング機がワールドトレードセンタービルに激突するさまは衝撃的だが、現場で音や振動や臭いや熱を感じていないので、現実感には乏しい。それよりも、ビル周辺で立ちすくみうろたえている人びとの表情に事件のリアリティーを感じる。茫然とするひと、泣き叫ぶひと、震えるひと・・・様々だ。眼前で起こったことがあまりにも大きくて、自分の認識・理解の範囲を超えてしまい、ただただ、情動的に反応するしかないのだろう。

 他に、人間が経験した惨事はたくさんあるが、戦争を除いて記憶につよく焼き付いている事件をふり返ってみると、やはり身近な日本での事件に絞られてしまう。

 1995年3月20日の午前8時ごろ、地下鉄サリン事件が発生した。オウム真理教のテロリストたちによって地下鉄車両内で猛毒のサリンが散布され、結果的に13人の死者を出した。一般市民を巻き込んだ前例のない化学兵器によるテロの発生は日本国民に大きな衝撃を与えた。そしてまた、世界にも驚きを持って受け取られると同時に、日本は安全と言う神話が崩れ去った。連日マスコミによって報道され、日常の生活でも話題にならない日はなかった。

 2005年4月25日の午前9時18分ごろ、JR福知山線で脱線事故が発生した。事件後、会社の後輩からすごい事故があったらしいですよと告げられたが、これほどの惨事とは思いもしなかった。107人が死亡し、JRの安全に対する姿勢が問われた。サリンテロのように故意に引き起こした事件ではないが、結果的にそれをはるかに上回る死者を出したのであり、乗客を安全に運ぶという旅客事業の責任から考えれば、一つの犯罪として扱うのが妥当だと思われる。

 現場は阿鼻叫喚の状況であったろうが、その場に居合わせていなければ想像の域を出ない。それでも過去から教訓を得るためには、阪神大震災などの自然災害も含め、記憶を風化させぬよう、繰り返し報道すべきである。

 もうこれで終わりにしようは、なしにしよう。 

2010年9月10日 (金)

紅白歌合戦Ⅱ

 YouTubeで、往年の紅白歌合戦の映像を見ることができる。国民の半数以上が見ていた番組で、9時から「往く年来る年」が始まる11時45分まで国民の目が釘づけになった。その時間帯はある意味、国民が一体化する時間であり、一テレビ番組でありながら大きな社会的役割を担っていたのではないかと思う。高度成長期には、経済発展を追い求めて国民の労働力が総動員されたのだが、この番組が一年間の疲れた心を癒したと言えば、言いすぎになるだろうか。
 歌い手は若々しく、力がみなぎっている。私が繰り返し見ている数人の歌手がいる。まずは三波春夫である。顔がふっくらしており、声もよく出ている。大利根無情は歌ばかりでなく、せりふがいい。あれだけ派手に盛り上げられる人は他にはいない。次にアイ・ジョージである。ククル・クク・パロマは少し硬いが、独特の歌い方で聴かせる。歌謡曲と演歌が大半のなかで、欠かせないポジションにいた。人によって好みが分かれるのは当然だが、、この二人は最もインパクトの強い歌手であったことに違いはなかろう。他にも坂本九など思い出に残る歌手が大勢いる。

 国民の一人ひとりに、それぞれ思い出があるだろう。思い起こせば、あのころの生活の記憶と供に、お気に入りだった歌手の歌声がよみがえる。

2010年9月 9日 (木)

鈴木一朗

 イチローについては多くの人が語り、この私も何度か書いてきた。これだけの実績を残せば文句のつけようがないし、プレーに対する姿勢においても最も厳しい人だから評価せざるをえないのだ。

 あれだけ自分の職業に集中できる人はいない。そこは真似のできないところだ。プロの選手でも試合が終わってから飲みに行ったり、オフにはゴルフ三昧だったり小遣い稼ぎのイベント参加だったり、本業以外でかなり時間を使っている。イチローの場合は、普段できないトレーニングを行うなどやはり野球に時間を使っている。こういうところにプロとしての質の差が出てしまっている。素質の違いに加えて、能力の上積みに差が出たら勝負にならない。

 イチローにはいろいろなエピソードがある。そのほとんどは普通の選手でないことを表したものだ。用具に関するものも多い。イチローのグラブは決まった職人さんが作っているが、長く担当していた人が引退し、そのお弟子さんに引きつがれた。その年にプレーを終えたイチローは、グラブの評価を聞かれた時に、このグローブに変わってゴールドグラブ賞が取れなかったら作った方が自分を責めることになるだろう。だから、そうならないように守備でも頑張ったと答えている。イチローらしい答えだと思うが、実際にそういう思いで毎試合プレーしていたのかどうかは疑わしい面もある。いちいちそんなことは考えないだろう。それでもイチローの言葉が嘘にならないのは、いつもベストプレーを心がけているからである。「○○のことを考えて、いいプレーに心がけました。」後半部分に間違いがないので、○○の部分に何が入っても通るのである。
 文句の付けようがない理由がここにある。

2010年9月 8日 (水)

最高の演奏が聴ける条件

 何度も書いているが、クラシック音楽など素人中の素人だ。だけれども、最近CDやネットを通じてピアノの演奏を聴くようになった。最初はYouTubeで、何人かのピアニストの演奏を聴いているうちに、ホロヴィッツの演奏が好きになった。ホロヴィッツのなかでも特に気に入ったのは数曲である。次に、CDを買い求めた。のべ3枚購入した。そのなかにはお気に入りの曲も入っている。ところが、YouTubeで聴くよりも、なにかもの足りないのだ。
 同じ曲であっても、音が違う。演奏家の実力+その日の出来+録音のレベル+再生機器のレベルによって随分と違ってしまう。加えて、楽器や演奏するホールによっても違いがでるのではないかと思う。
 ホロヴィッツでも、やはり脂の乗り切った時期と言うのがあるはずで、私の耳にも晩年の演奏はよくはない。私の勝手な感触だが、カーネギーホールでテレビ番組向けに収録された演奏が非常に出来がいいように聞こえる。ホロヴィッツ自身も非常に自信を持って弾いているようだ。

 最高の演奏家で、最高のコンディションで、最高のホールで聴けたら最高だろう。しかし、過去の奏者はもう聴くことができないし、現役の人でも滅多に聴けないだろう。チケットも高いに違いない。現在の私には手の届かない次元である。せめて、録音でいい演奏を聴きたいというのが今の欲求である。

 安っぽいCDプレーヤーで聴いていると、インターネット経由で聴くパソコンの音色が非常にきれいなのに気が着く。ネットの威力はすごいものだ。

2010年9月 7日 (火)

ラマダーンから考える

 ラマダーンとは、イスラム教徒の間で行われる断食を主な内容とする行事である。夏場に一カ月弱の期間、日の出から日没まで飲食を断つ。過去に宗教上の理由で遠隔地への移住を余儀なくされたイスラム教徒の苦難を追体験するのが目的だそうだ。
 昼間は活動する時間帯なので厳しい試練である。特に水分が摂れないのは苦しい。今年の夏はイスラム教の国も猛暑であったらしく、工事現場などでは体の不調を訴える人が例年を上回ってあり、政府も関係者に休憩を多く取らせるなどの措置を要請したようだ。また医療関係者も、重労働にあたる作業者にはあまり無理をさせないでほしいとのコメントを出していた。

 自分の生活をふり返ると、飲みたいときに飲み、食べたい時に食べている。もっとも、イスラム教徒とて信仰上の理由でその行為を選択しているのであって、飲み食いできないのではない。しかし、飲みたいときに飲めない、食べたい時に食べられない人は世の中にごまんといる。世界の人口の7人に1人が飢餓状態にあるらしい。

 われわれは普段そういう人の存在を全く考えずに生きている。たまには思い出してもよさそうだ。ラマダーンに入る人達は、目的は違うけれども、飢餓状態にある人びとを思い出す機会を得ていると言えるだろう。日本人にそのようなチャンスはない。せいぜい、健康診断のまえに飲食を控える程度だ。それは飢えた子どもたちを思い出すことにはなるまい。彼らの写真を目に見えるところに貼るとか、休日に2日間断食してみるとか、そういうことをやってみたらどうだろうか。

 後者の試みを一度やってみようかと思う。とはいえ、今の暑さでは、ちょっと弱気になってしまう。

2010年9月 6日 (月)

上海での仕事

 昨日上海に移動して、今日明日と当地で仕事。水曜日には戻らなければならないので、実質2日間の短期出張だ。宿はいつもの二つ星ホテル。ビジネスならこれで十分だ。浴槽はなく、シャワーのみ。ベッドはダブルで広い。
 今日は依頼を受けて、代理店に入った新人営業マンたちに話をしなければならない。仕事に対する心構えやマナーなど、基本なことである。仕事に対する考え方については、本社では、世のため人のためと説いているが、中国の若者には同じ話をしても届きにくいだろう。代理店の場合は基本給が低く歩合制を導入しており、扱う商品も新しいものだけに、ハングリーに稼げと言う方が動機付けになりやすい。「衣食足りて礼節を知る」と言われるように、余裕が出来てこそ周りのことが考えられるようになる場合が多い。
 マナーや身だしなみについて言うと、面接である程度選抜した結果であろうが、中国の青年は明るくて素直だ。ただし、学歴の高くない人達なので知識面では大きく不足している。立ち上げたばかりの小さな企業だから仕方あるまい。中国では、営業マンであってもスーツを着てネクタイを締めてというスタイルではない。子会社の社員でもそうだから、代理店ともなれば当然中国スタイル。とにかく、質素で清潔にしていればよい。

 中国はまだまだ経済発展が続くだろう。市場が広がり企業が発展するチャンスは大きい。そのなかで、新しいルールや倫理が育っていかなければならない。単に儲けたらいいのだという考えでは、最終的には市場および社会全体が混沌とするに違いない。

2010年9月 5日 (日)

千葉法相が処刑場の写真を公開 「死刑」考

 新聞記事で処刑場の写真を見た。踏み板はよく見えたが、絞縄は吊り下がっていなかった。千葉法相が死刑に対する議論を喚起するために公開したという。写真を見ても想像力が働かなければ何の影響も受けないだろう。このこと自体の国民への影響力はさほど大きくないように思う。こんなこととは関係なく、「死刑」とは厳粛な問題である。

 死刑については存続派と廃止派があり、かなり活発に議論されてきたという認識がある。しかし、私はそこに深く立ち入ったことがない。双方の主張やその論拠についても調べたことがない。新聞や雑誌でのコメントを少しばかり目にした程度である。
 したがって、ここで過去の議論を踏まえた整然とした意見を述べることはできない。ゼロベースに近い、まとまりのない考えを羅列するにとどまるだろう。それもまたよし、である。

 現在、世界の国々のうち約7割が死刑を法律上もしくは事実上廃止している。日本は残り3割の存続国グループに属しているわけだ。廃止している国でも過去は執行していたはずだ。それが廃止に至ったには、歴史的ないきさつがあるに違いない。それは研究するに値する重要なテーマである。それぞれの国に「理由」があるはずだから、日本が、あるいは日本人が明確に存続の意思決定をするのであれば、その「理由」に相反するであろう別の正当な理由を確立しなければならない。

 死刑とは、国家が犯罪者を処刑することである。現在の日本では、殺人を犯した者に限られているようだ。(かつては、今年でちょうど100年目にあたる大逆事件など政治的・思想的犯罪に対しても執行された。)それは、被害者に代わって刑を下すのでもなければ、残された親族に代わって執行するのでもない。国家独自の問題であるはずだ。付随して、親族の溜飲が下がったり、殺されたものが浮かばれるという心情を周囲に引き起こしたりするなど感情という複雑な問題が生じ、それはそれで扱わなければならない問題だが、死刑を論ずるにはあくまで国家の問題として取り上げる必要があると思われる。戦争は別にして、通常は国民が国民を殺害し、その刑は国家が国民に対して執行するという図式になる。ここに、死刑論の根本問題があるように思う。

 ばらばらになるが、法律上の問題とは別に倫理上の問題があって、こちらも難しい。罪には当然罰がある。罰には、法律上の処罰があるうえに、社会的制裁というものがあり(これは思っている以上に重たい罰である)、最後にこころのなかの罪意識という罰がある。最後の罰は外部から加えられるものではないが、犯罪の後に精神的な異常をきたしたり、場合によっては自らを死に追いやったりすることから考えると、そこにはすさまじい葛藤が生れることが窺える。また、そこに、刑罰を待たずして自ら死を選ぶのは卑怯だというような議論も生れて、非常に厄介な問題なのだ。

 全然まとまらないが、書いているうちに気の重くなるテーマだ。しかし、こういう問題もたまには考えるべきだろう。

2010年9月 4日 (土)

木田元さんが「私の履歴書」に登場

 今月の「私の履歴書」は哲学者の木田元さんだ。木田さんの本は2冊読んでいるので、履歴書に書かれている内容はそれとかなりオーバーラップしているが、改めて面白い人生を歩いているなと感じる。生まれた境遇、本人の能力や志向、時代の流れや運などによって人生の中身が決まっていくのだろうが、何をとっても人並みではない。そういう要素の連続だから木田さんの生きてきた軌跡は小説よりもうんと面白いのである。

 哲学者というと青い顔をした秀才を思い浮かべるが、木田さんは腕っ節が強く喧嘩で負けたことがない。戦後の混乱時は闇屋のような仕事をして生き抜いたのだ。すこぶる豪快な方である。そういう点で、木田さんの右に出る者はいない。もっとも、哲学者には少し変わった人が多いようで、木田さんの「闇屋になりそこねた哲学者」のなかにも意地悪な先輩が登場する。あの三木清も性格が悪かったそうで、周りから嫌われていたらしい。常識から離れたところで思索するわけだから、ありきたりの人間には難しいのだろう。

 哲学者として業績を上がられた方だが、別の道に進んでも成功したのではないかと思う。政治家などやってみたらどうだったか?

2010年9月 3日 (金)

生活倫理と職業倫理

 先日、仕事の考え方について書いた。いわゆる職業倫理についてふれたのである。そこでは養老孟司さんの文章を引用した。ただし、養老さんに独特な考えではなく、これは日本に古くからあるものである。それが注目されるのは、現代においてほとんど失われた思想だからである。
 再度引用する。
「仕事は自分のため」ではない
 もちろんある程度の能力が評価されるのは当然です。しかし、その評価方法(注:能力主義、業績主義)があまりに幅を利かせると、偉くなった人は「俺は能力があるから偉くなったんだ」と考えるようになります。そうすると、仕事が世間のために存在していて、あくまでも自分はそのお手伝いをしているのだという考えが消えてしまいます。本当はそれが肝心なことのはずなのです。
 
 近江商人に「三方よし」という考え方がある。売り手よし、買い手よし、世間よしだが、考え方から言えば、買い手、世間、売り手の順になる。自分は、お客様、世間様のあとに来る。お役に立つのが自分の使命であり、お役にたってこそ自分の存在証明としての利益が巡ってくるのである。

 大きな企業はこぞってお客様のために仕事をしているのだとPRする。しかし、社員に幅広くこの考え方を浸透させるのは容易ではない。何しろ世間全体に職業倫理なるものは失われているのだし、構造変化によって働く者にとっての環境は悪化の一途をたどっていて、生き残るのに汲々としているからである。とはいえ、逆に生き残るためにこそ、公的な価値を前に出した倫理の確立が求められる。過度の競争によって全体が疲弊することを避けなければならないのだ。

 職業倫理が社会の観念的な土台を築くと考える。加えて、より広く考えると生活の倫理に及ぶ。これも以前書いたが、これからは「喜捨」の精神がキーポイントになる。自分が得ることよりも、自分のものをいかに喜んで捨てるかである。それは必ずしも物やお金である必要はない。「働き」でもよい。ボランティアもここに含まれる。自分を高く「売る」ことが喧伝される世の中では、このような精神が育ちにくいことは事実だが、それなしには未来像は描けないのではないかと考えている。

2010年9月 2日 (木)

大河ドラマについて

 大河ドラマは毎年話題を呼んでいるが、昔ほど見なくなった。そもそもテレビを見なくなったという理由が大きいが、一年もかけて見る悠長さに耐えられないのかもしれない。
 何十年と続いているが、一年間じっくり見た作品が少ない。記憶も薄れているが、「春日局」と「八代将軍吉宗」はよく覚えている。前者は、今は亡き大原麗子と江口洋介、後者は西田敏行と中村梅雀の組み合わせがよかった。ちなみに、前者は橋田寿賀子脚本で、後者がジェームス三木だったことも覚えている。吉宗では、ジェームス三木の息子の山下規介が出演していた。

 扱われる時代としては、戦国時代と幕末が多い。日本史のなかでももっとも変化の激しい時期なのでドラマに仕立てやすいからである。たまたま私の好きだった二つのドラマが江戸時代の安定期を描いているのは、時代のダイナミックな変化よりも体制のなかでの身分関係を背景とする人間関係に面白さを感じたからかもしれない。
 今放映されている「竜馬伝」も幕末が舞台だ。食事のときにしばらく画面を目にすることがあるが、カメラの位置が動き過ぎて落ち着かない。また、映像が暗めで、映画を思わせるような色だが、これもテレビドラマの撮り方でないので違和感を覚える。新しい試みは反対ではないが、これが一年続くのでは見ている者が疲れる。実験は単発のドラマか、映画にした方が良いと思う。

民主党代表選のドタバタ

 結局代表戦が行われることになったが、国民の目は冷ややかなようだ。天野祐吉のコメントが日経新聞に載っており、「国民の声は届かない。もう勝手にしたらという感じだ。」とあった。
 彼らはもともと勝手にやっているのである。彼らにもポリシーはあるのだろうが、その中身は想像するに、しっかりした国家と社会の構想および政治哲学を土台として持たない、断片的な政策の継ぎはぎではないだろうか。(二人ともに著作を持っているが、私は読んだことがない。)そういう次元で論争しているから何が違うのかはっきり見えないし、見えなくて当然なのである。結局は、代表の座に就くことが目的となり、権力闘争という範疇から抜け出せない。本人がそれを望んでいるかどうかは別にして、そういう論理から抜け出せないのが日本の政治実態である。

 民主党に期待し、二人のうちのどちらかに期待を寄せている国民もまだ一定の割合いる。世論調査でも数字が出ている。私は、勝手にやっている彼らに期待は出来ない。彼らは期待をする対象ではなく、もはや政治の世界から排斥する対象である。(イエローカード?)政治そのものに絶望はしていないが、差す光は薄い。

2010年9月 1日 (水)

ペンネームとブログタイトルを再度変更

 二度目の変更で混乱させますが、書き始めて3年半経ち、アクセス数が2万件を超えたところでリニューアルを思い立ちました。大佐古賢治の「春遠からじ」は取りやめ、再度変更いたします。

【ペンネーム】 候補の一つにしていた「アントニオ天谷」に変えます。「大佐古賢治」も悪くはないと思いましたが、どうも「しっくり」きません。アントニオはラテン系の名前で、日本人がなぜと疑問を抱かせますが、結構気に入っています。アントニオ・アマヤは中米出身の優秀なプロボクサーで、日本人の世界チャンピオンと何度も対戦しました。テレビ観戦したのは子供のころですが、アマヤという名前が特徴的で、かつ「ア・ン・ト・ニ・オ・ア・マ・ヤ」という「音」の響きが良いので、今までずっと覚えていました。いい名前なので拝借します。アマヤを日本人姓の「天谷」として使います。なお「大佐古賢治」も予備として大事にとっておきます。

【ブログタイトル】 「私はイエロー」のイエローですが、色のイメージを持ちたいと思い、考えた結果イエローにしました。基本的には陽気で、積極的な姿勢をイメージしています。同時に、信号では黄色は「注意」を表す色です。肉体的に弱り始める時期ですので注意。その割りに、気持ちは若いので主張が暴走しないように注意です。もう一つ、黄色人種であることの自覚としてイエローです。黄色人種なのに、アントニオはおかしいですね・・・。

夏の甲子園2010

 今年は応援していた高校が地方予選の決勝で敗れたために、甲子園の全国大会への興味が薄かった。この暑さもあって甲子園へ足を運ぼうという気が起こらず、球場での観戦はなかった。またテレビで見たのも数試合で、過去を振り返っても最低の試合数だったと思う。
 大会前に注目していたのは、興南、中京大中京、早実の3チームだった。あまり情報収集しなかったので、過去の実績に囚われた結果だが、結局は興南の優勝に終わり、そこは順当な予想だったわけだ。投打ともに底力があり、相手に流れがあっても力ずくで自分の方に持ってきた感がある。中京と早実は、ともに予選で力を見せていたので買ったが、中京は力を出しきれず、早実は東海大相模、関東一高、成田などの同じ関東のチームを上回ることができなかった。
 
 大変な暑さで体力が消耗し、大量点が入る試合も多かった。体力だけではなく、集中力を保つことが難しかったのだと思う。中京と早実の試合も大量点を奪う攻撃が2度あり、早実のワンサイドになったが、中京が差の開いた後も前進守備を敷き失点を重ねたことは、合点がいかなかった。監督もすでに切れていたのかもしれない。高校生らしい積極的で清々しいプレーを見ることができる甲子園だが、大観衆の前で精神的な弱さを見せてしまうことも至極高校生らしい一面である。

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