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2010年7月31日 (土)

『七人の侍』と現代 四方田犬彦

 『七人の侍』という映画が好きなので、この岩波新書を迷わず買ってしまった。この本はいろいろな角度からこの映画に対して検討を加え、改めて黒澤明という監督に対する再評価も行っている。私は単に一映画ファンとしてこの作品を何度も鑑賞し、よく出来た映画として評価してきた。ところが、評論家にかかると不完全な点も明らかにされるし、観る立場によって評価が分かれることやその評価が政治の状況に大きく揺さぶられることも分かる。ここでは特に印象に残った点にのみ触れることにしたい。

 1 農民は武装していた
  舞台は秀吉が天下を統一する前夜である。戦乱が続き農村は荒れ果てていたが、この時代は自衛のために農民も自衛しており映画の農民像と異なっている。また浪人となった武士と野伏せ(集団化し、農村を襲って食料などを略奪する武士)との区別も曖昧であった。 → それは指摘の通りだが、観る側はフィクションとして受け取っており、この設定があるからこそ物語が成り立つのではなかろうか。

 2 この映画を歓迎したのは当時の自民党だった
  当時は極東アジアにおける共産主義の成長を受けてアメリカの対日政策が転換しつつあった。再軍備の動きが強まっており、この映画の野伏せから村を守るという設定が国防と置き代えられて解釈された。逆に進歩的な層からは農民を蔑視しているなどの批判も加えられた。 → 黒澤は自民党のそういう受け方を狙って作ったのではない。敵を何に見立てるかは勢力によって異なるし、時代によって様々変化するのだから固定した解釈はできない。先進国からの抑圧が強かったり、隣国との紛争が絶えない国においてはナショナリズムを鼓舞する内容を高く評価された。また、これを原型にして当地で同じ型の映画が制作された。

 3 戦争の記憶がこの映画をリアルにしている
  大陸からの引揚者や南方からの帰還兵が数多く存在していた。そのなかには正業に就くことができず社会から遊離した人達がいた。そのイメージが野伏せや浪人の姿と重なっている。また、農民が落ち武者狩りで手に入れた刀や槍、鎧などを隠し持っていたことに対し命からがら逃げのびてきた浪人たちがいきり立つ場面では、南方の戦線でゲリラの追討に苦しんだ敗残兵の記憶がオーバーラップするという。 → 大衆に全体としてそういう空気があったことは事実だろうが、一つひとつの事象がどれだけ影響しているかは測りかねる。 

 4 武士と農民との関係は知識人と大衆との関係を表している
  知識人は大衆の利益を守るために大衆を組織して闘争に導くことを自らの使命にしている。大衆もその運動が自分の利益になると確信すれば積極的に戦う。しかし、戦いが終れば知識人は最早疎遠な存在として扱われるのである。そこに知識人の諦念が生れる。生き残った武士にもそのような虚無感が漂っている。これは黒澤自身の持つ感覚かもしれない。

 私は、これまで主に組織論の観点からこの映画を評価してきた。すなわち、リーダーがいかに集団を統率し目的に向けて力を結集させるか。その方法論の問題である。その内容は、今や経営学の本は五万と出版されているからここかしこに記述されているはずだが、映画の動きのなかで観るとより説得力がある。四方田氏の本を読んで、時代背景からのアプローチや黒澤の問題意識(歴史観や大衆観など)からのアプローチなど自分にはない切り口を知り勉強になった。基本的には評論家ではなく映画ファンなのだから、観て楽しめばよいのであるが。

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