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2010年7月 4日 (日)

評論家の信頼性

 評論家といってもいろいろな分野があって,、芸能評論家などは信頼性を求める対象にならないだろう。そもそも芸能人のゴシップなどに確実な情報を求める必要がないからである。
 確かな目による確かな評価を必要とするものがある。政治の評論、文学の評論、音楽や美術など芸術の評論がある。私はそれぞれの分野に関心を持っているが、もちろん得手不得手がある。文学はやや弱く、芸術はかなり弱い。自分なりに解釈して、それで良しとする考え方もあるが、はたして自分の評価がよく分かっている人に近いのか、それとも遠いのかを知りたいと思う欲求がある。それは自分のなかにより確かな目を育てたいという願望の表れであろう。
 政治評論家という人種は総じて信頼しがたい。政治そのものが不確かなことにもよるのであろうが、政治をしっかりした評価軸で捉えることよりも政局論に終始しているように思える。政治の評価には党派性が付きまとうが、右翼左翼という区別よりも、ここでは評価軸の明確性と持続性が重要である。保守なら保守で、ぶれない評論をしていれば、その人の見方を一つの基準にすることができるのである。左翼の評論家も同様である。右左にかかわらず、良質の評論家がいれば、質の悪い評論家もいるのが現実だ。
 文学の評論家といってもあまり馴染みがない。小説は読むけれども、文学評論はほとんど読まないからだ。本の巻末に「解説」が必ず付いていて、そこで出会うことができるが、ある意味おまけのような存在であり、どれだけ真剣に読まれているだろうか。評論家も、商品に対する解説を任されているのだから悪いことを書けないという制約があって微妙な立場だが、一つひとつが勝負の場であるに違いない。より広い深い、そしてオリジナルな座標を構築できれば独自の文学評論の世界を構築することができる。それによって古典でもまた新しい解釈が生れるだろう。この世界の優秀、優良な評論家は文学の領域を飛び越えて社会や歴史に対する見方を披露してくれる。自分の評価の妥当性を確認するために必要な存在となるのである。
 最後に芸術の世界だが、一番疎い世界である。絵でも、有名なものになれば素晴らしいと思えるが、それは先入観のなせる業かもしれない。また、未知の作品をまったく白紙の状態で見たときにも自分なりの評価は可能であるが、好き嫌いの範囲を出ていない。それはそれで一つの楽しみ方なので一向に構わないが、一般的な評価はどうなのか気になるものであり、勢い評論家に頼りたくなる。この分野の評論家を多くは知らないが、その世界の重鎮ともなれば、その一言によって大きく評価が変わる場合がある。
 音楽評論家に吉田秀和という人がいて、本もたくさん出している。この人の評論はかなり影響力があったようで、世界有数のピアニストであるホロヴィッツが初来日した時に、「ひび割れた骨董品」と称して彼を落胆させたらしい。ホロヴィッツは汚名返上のため再来日した。ピアニストの場合、有名なコンクールで入賞することがもっとも分かりやすい指標であるが、権威のある評論家に認められることもその地位を固めることに役立つ。かと言って、評論家に媚を売って回るアーティストもいないだろうが、気になる存在であることは間違いない。

 誰を自分の目を肥やすために使うか。自分の感じ方が、その評論家の座標軸で説明がつくかどうかを試すとよい。おおよそ合っていたら、判断を迷った時にその人の評論を見るのである。

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