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2010年7月 3日 (土)

“「偉くなりたくない」人生観”に疑問

 6月28日付の日本経済新聞に、日本青少年研究所理事長の千石保さんの原稿が載っている。“現代日本 若者の人生観 「偉くなりたくない」顕著”というタイトルである。何気なく読んでいるとなるほどと無意識に思ってしまうのだが、本当にそうかと疑ってかかると別の見方が見えてくる。

 偉くなりたいかの質問に対し、米中韓の若者に比較して日本の若者はそう思わないという回答の比率が目立って高いという。そこから単純に、偉くなりたいという意欲が弱まっていると述べている。同様に、一流大学に入りたいという意欲も米中韓との比較から弱いと結論付けている。
 現象に即して単純に考えるとそういう解釈になるのだが、もう一歩突っ込むと、本当に「偉くなりたくない」のか疑問に思う。ここで言う「偉い」には、地位の高さと収入の多さという二つの意味を含んでいるが、責任を負うことを忌避して偉くなることも望まないのだという説明は肯んじがたい。誰だって偉くなれるものならなりたいのではないか。実は、「偉くなれない」ことを覚ってしまったために、諦めを「偉くなりたくない」という感情に置き換えているだけなのではないか。これが私の見解である。
 これまでも触れてきたようにバブル崩壊後に日本経済の弱さが露呈し、経済停滞のなかで中間層が解体、いわゆる二極化が進んだ。そういう状況で育ってきた世代は、山田昌弘が言ったように、希望を持てる層と持てない層とに分化していく。この持てない層が、偉い人として上昇するイメージを失ったのである。これが、生の現実であり、上昇を諦めた若者は「諦念」を「偉くなりたくない」という意思に転化しているのである。
 
  若者(主として高校生を想定している)が勉強しなくなった理由として、①大学全入時代に入ったことと②一流大学へ入って一流企業に勤めたからといって終身雇用制の揺らぎと経営の不安定化で身分の保障が危うくなったことを上げている。この分析にも疑問がある。①について言うと、一部の層については当てはまっていると考えられる。ほとんど無試験で入れてくれる学校があるのだから、大学と名のつくところであれば良しとする人に勉強を強いる条件がなくなったのである。②については、疑問である。確かに一流企業に勤めることにもリスクを伴うようになったが、二流企業の方がさらにリスクが大きい。比較の問題で言えば実態は変わっていない。採用を絞っていることも加わって、就活における一流企業の倍率は著しく高い。一流企業の採用に当たっては、出身大学による選別も依然として根強くあり、そのことを背景に一流大学を目指す層の競争はなお激しく行われている。ただし、偏差値による序列化が徹底して行われている日本においては、早くから一流大学への進学を諦める傾向がある。希望を失った人に意欲は生まれない。

 実態をよく見なければならない。意識だけ独立して変化することはない。意欲がなくなったからといっても若者に罪はない。万人が満足する社会は困難だが、せめて希望ぐらい持てる社会にしたいものだ。

  

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