« 亡き会長から教えられたこと その4 | トップページ | 何がしたいのか分からない若者へ 親の世代から贈る言葉 »

2010年6月13日 (日)

J・S・ミルの著作から 快楽の大小を物差しにしてよいか

 ジョン・スチュアート・ミルの著作のなかに次の一節がある。

 「さらに反論する者は、若いときに高貴なものに熱中した人の多くが、年をとるにつれて無精になり、利己主義に陥ってゆくのはどういうわけかと聞くであろう。しかし、このごくありふれた変化をたどる人々が、自分から進んで高級な快楽を捨て、低級な快楽を選んだとは、とうてい考えられない。私の信ずるところでは、低級な快楽に身をゆだねる前に、彼らはすでに高級な快楽が感じられなくなっているのだ。高貴な感情を受容する能力は元来か弱い草木同然で、風雨にさらされたときはもちろんのこと、すこし養分が不足するだけですぐ枯れしぼんでしまう。だから、大多数の青年にとって、社会的地位にもとづいてついた職業や、その地位によって投げ込まれた社会が、この高級な受容能力を発揮しつづけるのに不向きならば、たちまち消滅してしまうのである。」 (太字は私がつけた)

 功利主義者なので、すべては快楽を基準にして書いているのだが、いまでもよく見られる世俗的な事柄に触れていて面白い。若いときには、崇高な理想を持ち、それに従って行為するが、次第に理想を捨て保身的になる傾向がある。たとえば、学生の時代は偉大な思想家の著作に触れ、感化され、こうあるべしという論を主張したり、場合によっては行動に打って出たりするが、就職する段になるとそんなことがまるっきりなかったかのように変身し、普通の社会人になってしまう。加藤周一は、この変貌は学生のころに身に付けた知識と行った行動がいかに付け焼き刃であったかを示しているにすぎないと言った。ミルの文章を読むと、古今東西同じようなことが現象として見られることが分かる。
 ミルの主張によれば、崇高なる理念の放棄ではなく、理念に基く行為によって得られる快楽が時間とともに減少することが原因だという。これは、人間は快楽を生まないものには関心を示さない。言いかえれば、人間は快楽を最大化しようと行動するという思想が大前提になっている。前述の現象の説明としては、一つの説として成り立つと思うが、はたして正しいだろうか。学生のころに、社会はこうあるべきだという意見を主張すると、「それは、君の好みであって、そう考えることによって自分が満足するから言っているだけなのだ。社会は変わるかもしれないが、結局のところ、最後の目的は君の自己満足なのだ。」と反論する人がいた。血気盛んな若者にとって、これほど腹立たしい反論はない。しかも年長者にそう言われるなら多少は聞きもするが、年端もいかぬ若僧にそんなことを言われると、おまえは何なのだと言いたくなった。これは個人的な快楽だけが人生の目的かのように考える立場からの発言だが、同じ功利主義的な立場からものを言うなら、私の考える社会と自分の考える社会(それがないなら、今ある社会)とのどちらがより多くの快楽あるいは幸福を生みだすかについて論じるべきであったろう。

« 亡き会長から教えられたこと その4 | トップページ | 何がしたいのか分からない若者へ 親の世代から贈る言葉 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 亡き会長から教えられたこと その4 | トップページ | 何がしたいのか分からない若者へ 親の世代から贈る言葉 »