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2010年6月29日 (火)

喜んで捨てる

 北原ミレイの歌に「捨てるものがあるうちはいい」というのがあった。すごいタイトルだ。捨てるものがなくなったら、どこへ行くのだろうか。

 「捨てる」ことは難しい。欲が邪魔をするからである。見返りを求めて何かを手放すことを「捨てる」とは言わない。あくまで無償の行為でなければならない。
 「喜捨」という言葉がある。辞書を引くと、「進んで寺社、僧や貧者に金品を寄付すること。」とある。狭い意味で使われるようだが、広く解釈すれば「見返りを求めず、進んで捨てること」という意味に理解できる。この喜捨の精神が、今後の社会にとって欠かすことのできない精神になると思うのである。
 もう十年以上も前になるが、勤めている会社のお得意先招待会で、黄檗宗総本山の萬福寺まで足を運び、オーナーの方々とお寺で説法を聞いた。高僧の講話の中身はほとんど忘れてしまったが、ポイントは「捨てる」ことの勧めだった。商売を生業としている人達に、金を儲けることばかり考えずにたまには捨てないといけませんよという話だった。とはいえ、説教臭い言い方ではなく、面白おかしく話すので大笑いしながら聞いたのを覚えている。この宗派に限らず、日本の仏教は古くから欲を捨てることを説き、それが一定大衆のなかに浸透していたのではないかと思われる。
 昔は、生活の場として共同体が存在していた。そこでは生きるために互助の行為が必須であった。否応なくそうせざるをえない面が強かったのだが、それを精神面で支えたのが喜捨の考え方ではなかったか。これに対し現在はどうか。より多くのものを手に入れることが重要と考え、他人よりもまず自分優先になっていないだろうか。もちろん、一人ひとりが生活のために多く稼ごうと自助努力することは大事だし、社会としても経済の発展を望むのは自然なことである。しかし、それが唯一の価値であり、目標であったならば、返って日本の国はもたないし、世界の存続もあやしくなるのではないか。私はそう思う。
 最近はお寺さんとの付き合いもなくなり、説教を聞く機会がなくなった。もっとも、僧侶の方も仕事がビジネス化して説教をしなくなったという事情もあるだろう。(とはいえ、なかには真面目に活動している人も知っているので、全く期待できないわけではない。)学校では、特に公立の学校では、喜捨の精神を語ってくれる教育は施されない。道徳教育をやれとは言わない。いや、やらない方がいいだろう。では、どこでその精神は普及させられるのだろうか。そう思っている人がやるしかない。

 喜捨は無償の行為だと言った。それが大前提である。しかし、結果的に言えば、捨てる行為にはお返しがあるものだ。捨てる行為は、「贈与」という言葉に近い。「贈与」があって初めて、それに対する「返礼」がある。売買、交換とは違った人間同士の関係の仕方が、社会の土台・原理として成長していくことがわれわれの存続の条件に間違いなくなっていくであろうというのが、私の主張である。

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