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2010年6月14日 (月)

何がしたいのか分からない若者へ 親の世代から贈る言葉

  何をしてよいのか分からない。どんな仕事に就きたいのか分からない。そういう若者が増えているらしい。なぜだろうか。ここでは大学進学者を対象にして考えてみたい。

1 大学に入るまではレールが敷かれている 
 大学に入るまでは、今の教育システムが進むコースをかなり機械的に選んでくれる。模擬試験によってはじき出される偏差値に従い合格可能な大学と学部を選択するシステムが出来上がっており、それに従えばさほど悩まなくても道が付くようになっている。もちろん、なかには教師になりたいとか、音楽の道に進みたいとか具体的な進路を想定して進学先を選ぶ生徒もいるだろう。医者や上級公務員になりたいという子もいるが、これは偏差値が名前を変えただけの目標だとの解釈も可能だ。大半の生徒は将来の進路を絞らずに大学に入っている。私の学生時代のことを思い出してみると、その辺の事情は基本的に変わらないように思う。念のために教職課程を履修しておこうという友人がいたが極めて例外で、受験勉強を終えて好きなことを伸び伸びとやろうという意欲だけに燃えた仲間が多かった。なかには志望校に合格して目標を失い虚脱感を抱いていた学生もいたのだろうが、それにしても次は大企業への就職が目標になることは分かっていたからそれまでの一服状態と考えれば説明がついたのである。全体を見ると、昔も大学に入った時から将来を見据えて戦略的に生きていた者は少なかったわけで、その後の問題が大きいのではないかと思われる。

2 学生生活が窮屈になったのではないか
 このようにして大学までは進む。恐らく、ここからの生き方に質的な違いがあるではないかと考えている。まず違いを感じるのは、クラブ活動やサークル活動などを通じた学生同士のつながりの強さである。息子たちの行動を見ていると今でもサークル活動はあるようだが、かつて私が所属していた研究サークルが消滅したように、社会の在り方や互いの生き方を問うような集団が身近に存在しなくなったのが大きいと思う。入ったばかりは何も考えずに登校したとしても、先輩に引っ張られて何かに夢中になれる条件があったのである。改めて考えてみると、大学の地下を占拠していたサークルが揃って衰退し、力を失ったが故に追い出されて消滅した過程に、学生の知的創造性が減退する原因を探ることができるように思う。
 なぜ消滅したか。一つは生活条件の変化がある。学費および生活費の上昇に親の所得の伸び悩みが加わって学生生活に余裕がなくなった。昔もアルバイトをする学生は多かったが、それはあくまで補助的なものだった。学生が集まって、情報交換をし、互いに刺激し合う時間的な余裕はたっぷりあった。それに対し現在は、そういう余裕がなくなりつつあるのではないだろうか。
 二つ目は、知的伝統の切断である。かつては、アカデミズムが社会を論じたり、人生を考えたりする視点、思想を供給していたのであるが、学園紛争があって以降それが衰退し、代わってサークルが細々と伝統を継いでいたのである。しかし、メンバーが順次入れ替わってしまう弱点があって、いよいよ生き延びることができなくなった。大変残念だが、これが現実であろう。
 さて、知的創造性を育む機会を十分に手にできないまま時間が経過する。そうこうしているうちに就職活動の時期が始まってしまう。就職活動のスタートが早くなった。3年生になればもう就職を考えなくてはならない。かつては4年生の春ぐらいが始まりではなかったか。また、求職自体も減っているので競争が激しい。昔はせいぜい数十社回れば決められたし、希望の業種にもたどり着けた。しかし今は内定をもらうまでの苦労は並大抵でないという。ハードルが高くなれば、希望など言っていられなくなる状況も理解できる。とにかく正社員として入り込むことが焦眉の問題で、なんとかフリーターへの転落を免れなくてはならない。私の勤務先の人事担当者に聞くと、面接に対する答え方にはマニュアルに書いてあるような無難な内容が多く、答えを予め用意しているので、質問とずれた返答になることもあるらしい。聞きなおしても、相変わらず同じ答えを執拗に繰り返す例もあるという。要は状況に応じて自分を変えることができないのだ。とはいえ、振るい落とされないための最低限の準備なのかもしれない。選ぶ側からすれば、もっと戦略を練ってくればアピールできる要素はあると思うのだが。
 というわけで、何のしがらみもなく白紙で社会や人生について議論し考える時間がないまま就職戦線に投げ込まれるので、何をしてよいのか分からないまま生きていくことになる。

 
3 では、そのような制約の多い生活のなかで何ができるだろうか
 ① まずは、自分が生きている社会を知ろう
  直接自分の目に触れる範囲であっても、目を向けていれば何か新しい発見はあるものだ。しかし、社会を大局的に理解しようと思うと、「ものの見方」が必要になる。社会の成り立ちに対する基本認識を得るとか、現象の捉え方を訓練するとかの実践である。いきなり難しい本に手を伸ばすとやる気がなくなってしまうだろうから、若者向けに書かれた入門書とか岩波のジュニア新書などから選ぶとよいだろう。池上彰のそうだったのかシリーズもありだ。読むことに自信のある人は、岩波新書の社会科学系統を選ぶとよい。欲をいえば、近くにその分野に詳しい人がいればありがたい。
 ② 人間を知ろう
  これも周りを見ればいろいろな人がいるので観察することで分かることがある。しかし、広く知ろうと思うと文学に触れなければならない。現代の日本人を中心にしながらも嘗ての日本人の生き方・考え方を学ぶことは発想を豊かにしてくれる。また海外文学も異文化に触れる意味で重要だ。あまり読まない人は、まず読むことから始めよう。恩田陸でもいいし石田衣良でもいいし、東野圭吾だっていいだろう。小説好きの友人がいれば、読んだ本に対する自分なりの解釈や意見を聞いてもらうとよい。あるいはブログに感想を書き綴ってもよい。読みと書きとが同時に訓練できて効果的だ。
 ③ そして自分を知る
  自分なんか分かっていると言うかもしれない。しかし、何をしてよいのか分からない人は自分のことが十分に分かっていない人だ。日常的に感じている自分、おそらく恋人や友人からこう思われているだろうという自分と広く社会のなかで位置づけられた自分とは全然違うのだ。社会を知り、人間を知ることで自分が見えてくるので、そこからこうあるべきだとかこうしたいという欲求が生れることになる。

 でも、ほとんど何も分からないところから勉強を始めるのは苦痛だと言うかもしれない。たしかにそうだ。好奇心に乏しいから勉強せよと言うが、好奇心がないから勉強しないのである。だから矛盾している。おっしゃる通り。騙されたつもりで本を読んでみたらでは説得力に欠けるね。本を読む前に、なにか拠り所となる意志が欲しい。だったら、最近何か腹立たしく思っていることはありませんか。バイトで忙しく働いても時給が安いとか、正社員と同じように働いているのに待遇が違うとか、親からの仕送りが減ったとか、大学の教授の講義が面白くないとか、首相が能天気なことばかり言っているとか、天下りでびっくりするほど高額の退職金をもらっている人がいるとか。なにかあるでしょう。あるのであれば、その憤りの由来について解明しようじゃないか。あるべきでないことが起こっているのだから、それは氷山の一角で世のなかでたくさん起こっているのだから、そんな社会に自分は生きているのだから、なにか言いたいこと、したいことがあってもいいのじゃないか。そこを生き方の拠点にしようじゃないか。

 勉強していると、自分が無知で、無力であることが分かる。元気がなくなってしまいそうだが、実はこの認識がパワーを生むのだ。無知を知るということは、知るべき対象が無限に存在していることを知ることである。自分が知っている、分かっている人だと思うと勉強なんかしない。勉強すればするほど、分からないことが増殖する。同時に知りたい欲求が増大する。
 無力であれば自分ひとりで大そうなことをやろうと思わないだろう。人と関係を結んで、多くの人に動いてもらわなければ何かを成し遂げることはできない。
 無力であればこそ、自分のために生きることをやめ、社会のために生きることを考えよう。自分のために生きていたら、無力であり続けなければならない。一人はどれだけ大きくなっても一人なのである。社会のために生きることで自分は微々たる存在から抜け出し、つながりのなかで無力から解放されるのだ。

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コメント

 akkiさん

 コメントは記事として書きます。トップページを見てください。

はじめてコメントさせてもらいます。私立高校に通う1年生です。
私は将来についていろいろと悩んでいます・・・
どの仕事だって楽なものはないと分かっているので、せっかくなら自分がやりたいこと、
または向いていることを仕事に出来たらなと考えています。
しかし就職率の悪い現状が続いていることから、資格の取れる職業(歯科衛生士や介護福祉士など・・・)も目にいれています。
さっそく、歯科衛生学科のある大学のOCに行ってみたのですが、
正直「この仕事で一生働くのはきついかな・・」と感じてしまいました・・
かといってやってみたい仕事というのもまだはっきりとはなくて・・・
・・・・・今、自分がわらなくなってます
なにがしたいのかもさっぱりデス。。。

そんなときにこちらのサイトを偶然拝見しました。
自分にあてはまることが多かったです。
そして何かアドバイスを頂けたらなと思いコメントさせてもらいました。
ぜひよろしくお願いします!

 大変恐縮です。私の文章が役に立つのなら、いくらでも使ってください。
 この記事は実を言うと息子に向かって書いたのです。何をしてよいのか分からないと言います。たまに私のブログを見ているらしいので、伝えたいことを書きました。同時に若者たちへのメッセージでもあります。
 ブログは、息子たちへの遺言状です。父親が何を考えて生きていたか、これを読めばすべて分かります。長生きしたいですが。

ご無沙汰しています。若者に贈る言葉を読ませていただき、日頃から私が感じおていたことと共通点も多く、ぜひと思って、金曜日に予備校生全員に配りました。明日の、現役生の保護者会でも、配る予定にしています。事後承諾でごめんなさい。和歌山は、明日が組み合わせ抽選会です。

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