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2010年5月31日 (月)

「国家論」(田原総一朗、姜尚中、中島岳志)

 昨日今日でこの本を読んだ。日頃から関心のある内容であるし、討論形式ということもあって読みやすかったが、新たな発見は少なかった。またいくつか同意できない主張もあった。新書なので、ごく普通の読者を想定しているためであろうかあまり深みを感じない討論だったように思う。思い違いだろうか。
 私の理解力が足りないせいか、田原総一朗は何を考えているのか分からない。姜尚中には共感できる部分はあるが、主張が中途半端な気がする。中島岳志はそもそもよく知らないが、この本のなかで自分を保守と規定しているにもかかわらず、どこが「保守」的であるのか不明瞭だ。ただし、小林よしのりとの論争に触れていたところが興味を惹いたので、読んでみたいとは思った。全体としては、「国家論」というタイトルは付けているが、本人たちも冒頭で触れているように原理的な議論は少なく、日本は君主制を維持するのがよいという点だけは三人の意見は明確に一致していた。

 それから参考になった点が一つあって、それは「よろん」に関する説明の部分。「よろん」には二つあって、「輿論」と「世論」。英語で表すと分かりやすい。「輿論」はパブリックオピニオンで、「世論」はポピュラーセンチメント。公的な意見と大衆的な気分である。
 言われてみればそうだったと思う理屈だが、最近はあまりこの二つを分けて考えることがなかったように思うので、役に立った。「世論」の方は、内閣や政党に対する支持率の世論調査で多くの人に意識されている。あのアンケート調査は確かにポピュラーセンチメントを表しているのだが、短期的に変わる気分で政権の行方までを強力に左右してしまうのはどうかと思う。それに大衆の気分がマスコミに強い影響を受けてしまうことは周知の事実で、それが公平さを欠いてしまうことに現代の民主主義の大きな問題点があることもまた事実である。
 一方のパブリックオピニオンについては最近あまり考えなかった。それはポピュラーセンチメントを動かす大きな要素であるべきなのだが、それが見えなかったのである。パブリックオピニオンはどのように形成されるか、あるいは形成されるべきかについてのはっきりしたコンセンサスはあるのだろうか。私は、本来その時代を代表する知識人の発言が大衆の思想をリードすべきだと思うのだが、まずそういう人物が乏しいように思う。私の最も大事にしていた加藤周一もいなくなってしまった。かつての丸山真男のような影響力のある学者もいない。また、時代の良心を代表するような人と大衆をつなぐ媒体もなくなったのではないか。そのように思われる。いや、私が怠慢で聞こうとしていないだけかもしれない。

 これまで、今が時代の曲がり角だという主張を何度となく聞いてきたが、現在の状況は正味そういう時期なのかなと思っている。とはいえ、私個人にできることは、ないとは言えないが、たくさんあるとは思えない。こうやってブログを書いていることも、その少ない行為のうちの一つではある。

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