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2010年5月15日 (土)

歴史に目的はあるか?

 大そうなテーマである。哲学者であれば自説を明快に(正しいかどうかは別問題だが)述べることが出来ようが、素人には難しい。が、ブログは中身の質がどうであろうとも、なんでも書いてみることに意義があるのだから、気にせず書いてしまう。

 歴史が特定の結末(目的)に向けて進んでいるかどうか。ごく普通に考えれば、そんなことはないだろうと思う。私もそう考える。歴史がどちらに向かっているかは不確定であり、決めつけることはできない。一方で、歴史の目的を認める人達もいる。信仰を持つ人達で、単純に言ってしまえば、彼らは未来において救済されるし、それを導くのは神であるという理屈になるのだと思う。大半の日本人は信仰を持たず、現実的な生活感覚にしたがって生きているのでそういう考えはないだろう。
 繰り返しになるけれども、歴史に決まった終着点はない。ただし、ユートピアを描くことにはそれなりの意味はある。何らかの目的を持って(人やその集団が目的を持って行動すること自体は正しいとか間違っているとかの判断の対象にはならない。動機や意図や行動の仕方において評価されることになるが。)社会を変えようとすれば、理想の世界像を描いて人びとを導くことが企図される。そして、それは場合によっては成功し、一定の成果を残すことになる。もっとも、それでも目指していた理想の社会には至らず、熱した人びともしばらくすれば冷めて元の状態に戻るのであるが、歴史的には何度も繰り返されていることであって、それ自体悪いことではなく、やはり中身の問題であろう。
 歴史に目的がないという事実は、そのことについて信仰や信念を持っている人にとっては希望を失うことになるが、そうでない人びとにとったら何も不都合なことではない。そうでない人びとも世の中をよくしたいと思っているし、自分もできるだけよく生きたいと願っている。そこではどのようにしたいかという意志が大事であり、それを汲み上げてビジョンに組み立てるのは政治家や思想家の仕事である。ここで言うビジョンは、ユートピアなどではなくもっと近い将来に実現すべき社会像である。
 歴史に目的がないということと歴史がどちらに向っているかを考えることとは矛盾しない。過去の歴史および現在の社会の分析によって、社会の変化の大きな傾向性を導くことは可能である。そしてその傾向をもっとも的確につかんだ集団が、もっとも有効な変革の手段を準備することができるだろう。合理性のない活動は社会を変えないであろうし、あまりに小さな集団の小さな力では社会を変えることはできない。もちろん、一単位が小さくても草の根的に広範囲に集団が存在していれば、大きな力になり得ることは言うまでもない。

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