« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

2010年4月の投稿

2010年4月30日 (金)

長谷川穂積 敗戦も次へのステップ

 残念ながら、仕事で試合を見ることができなかったが、長谷川穂積選手がタイトル戦に敗れ世界王者から陥落した。報道によれば、一瞬のすきを突かれ、パンチをまとめられてTKO負けとなった。こういう負け方は私としても予想外だったが、ある意味、長谷川が負けるとすればこういう負け方しかないというパターンだったとも言える。致命的な一発をもらうことがなければ長谷川にチャンスが巡ってきたであろうし、判定での負けも考えられない。結果的には、挑戦者のパンチがこれまでの対戦相手とは一段高いレベルにあったということになる。

 さて、勝負だから負けはある。ものは考えようで、こういう負け方は事故に合ったと思えばいいのであって、気持ちの切り替えができる。階級を上げるかどうかどうか迷っていた長谷川にとったら、吹っ切れる。フェザーに上げて(一つ上げて西岡とやるというのも面白いが)世界の有力者とグラブを交えるのがよかろう。これだけのキャリアがあればマッチメイクは可能だ。ぜひ二階級制覇を実現させてほしい。

 負けは必要だ。たまには負けないと、守りに入って攻撃的なスタイルを忘れてしまうのだ。また闘志が湧いてくるに違いない。これからが楽しみである。

「びばるーん」さんの活動について

 「びばるーん」さんは、女性2名男性2名でボランティア活動をしている大阪の音楽グループです。年齢は50代~60代で、2004年から始めたアマチュアバンドです。アフリカの民族楽器やチェロ、オカリナなどを演奏するそうです。病院や学校、老人ホームや障害者施設などで幅広く活動され、演奏回数は延べで200回を超えたそうです。
 このグループはブログで知りました。メンバーのお一人が私と同じくフェリー船の座礁で知られた三重県南部の町の出身だったのです。今でも年に一度はお墓まいりに帰るそうで、同郷と言うことだけで親しみを感じてしまいました。ブログへのコメントにも丁寧にお答えいただきました。5月23日には堺市の大仙公園で1時半、2時半の2回公演があるそうです。行ってみようかと考えているところです。

 ブログではKGセミナーの山尚先生と知り合えましたし、こういう形で今まで関係なく生きていた方々と知り合いになれることはうれしいことです。インターネットには弊害もありますが、こういう出会いを演出する機能は素晴らしいと思いました。

http://www.eonet.ne.jp/~bibaru-n/

2010年4月29日 (木)

人を褒めれば幸せ気分に 

 褒めて育てよと言われる。最近特によく言われる。昔に比べて現在人は忍耐力が乏しくなり打たれ弱くなってしまったからであり、また褒めることの効用が実験等で立証されているからでもある。デール・カーネギーはその著書のなかで、褒めることには百利あって一害もないという趣旨のことを書いている。ただし、これには注釈が必要だろう。一般論として、褒めることの有効性は高く、それをためらう理由はないということであり、叱ってはいけないと言っているのではない。その点さえ押さえてけば素晴らしい教えである。功利主義的に考えれば、褒めることに資金は全く不要であるにも拘わらず、リターンは大きいということだ。

 さてここで言いたいのは、褒める側の問題である.。褒める効用は、褒める側にもあるのである。昨晩、仕事を終えパソコンを落とす前に3人の社員にメールを送った。D課長、N所長、K君である。いずれも褒める内容。D課長は仕事熱心だが、ややせっかちな性格があり、部下が付いて行きにくいタイプだった。それが、最近では自分から歩み寄るようになり部下の意見が聞けるようになった。その点を褒めた。N所長はなかなかのやり手であるが、最近は部下の育成でも成果を上げ出した。その点を褒めた。K君はおとなしい営業マンだったが、一枚殻を破って積極的な姿勢が見えるようになった。その点を褒めた。
 メールを打っているうちに、自分の気持ちが柔らかくなってきて、いい気分になった。褒めるということは、褒める側の人間性にも影響を与えるようだ。もちろんお世辞ではなく、褒める内容に正当な根拠がなければならない。そうでなければお互いの成長はない。また、褒め方というものがあるから注意しなければならない。タイミングを間違えると気の抜けたビールみたいになるだろう。褒めすぎると聞く方が引いてしまう。どの程度が適当かはその場で判断せざるをえない。さりげない、自然な感じがよいだろう。
 これまであまり意識しなかった、褒めることの効用を感じたので今日書いてみた。

2010年4月28日 (水)

ネット社会のルール

 結局仕組みを作った者が勝つというタイトルの本があった。ますます膨張するインターネットという仕組みを作り上げた者は巨万の富を得たに違いない。また、この仕組みを利用してビジネスを始めた者のなかにも大きく成功を収めた者が多くいる。
 このような華々しい世界として存在するネット社会であるが、影響力が大きいだけに怖い面も存在する。このシステムは自ら自動的に動いているのではない。誰かが意図して動かしている部分があるし、ルールも公平に作られているのでもない。けっきょく誰がこの世界を制するのかと言えば、資金力に優れた者であり、高度な情報テクノロジーを保持している者であろう。私なども、情報の発信に努めているが、微々たる影響力しか持たず、逆に受容する圧倒的な量の情報に常時侵されている。
 最近ネットでの選挙運動を合法化しようという動きが強まっている。そうなったらどうなるのだろうか。大政党も小政党も同じ土俵で戦えればよいが、けっきょく大きくて力のある政党に有利に働くのではないだろうか。詳しいことは分からないので断定しがたいが、新しい仕組みが公平に機能したことなどないように思う。ネットは便利なものであるが、ネットでしかコミュニケーションがとれない社会は、機能不全を起こし、傾聴すべき意見が埋もれてしまうことになるのではないか。衆愚政治の時代と言われるが、その使い方には疑問はあるものの、そういう観方もあながち間違いではないようにも思える。ネットを飛び交う子ども染みた発言を目にするにつけそういう思いがこみ上げてくる。

2010年4月27日 (火)

映画音楽を堪能する時

 むかしのよい映画にはよい主題曲が付きものだった。映画音楽と言うジャンルが成立するほど内容が濃かった。今日は時間があったので、聞き覚えのある映画音楽をたっぷりと聞くことにした。なかには映画を観た曲もあれば、ラジオで曲だけを聴き馴染んだものもある。
 聞いていると、大半がヨーロッパの映画であることが分かった。戦後の日本人はヨーロッパの映画が好きだったのだろう。敗戦直後の現実は、一方ではリアリズムを要求したであろうし、他方で敗北感は哀愁を呼び起こしたであろう。その両面ともにヨーロッパの映画が満たしている部分があった。
 今日聞いた曲のなかで三つあげるとしたら、「鉄道員」 「ひまわり」 「太陽がいっぱい」となる。映画そのものは触れずに、曲だけを聞いて感想を述べると、いずれもひどく物悲しい旋律である。私が選んだのも、そこに惹かれるところが大きいからだと思う。それから、改めて考えてみると、三つの映画は皆イタリア映画だった。(「太陽がいっぱい」は、正しくはフランスとイタリアの合作)。これはたまたまかもしれないし、イタリア人の感性と日本人の感性が似ているからかもしれない。気質は違うように思えるが、社会の構造は似ている部分があるので、あながち間違いではなかろう。

 たまには、このような映画音楽を聴いて、感傷に浸るのもいいものだ。

2010年4月26日 (月)

「柿ピー」の中身、どっちが好き?

 ブログネタとして、このような設問が提供されていた。文句言いのおじさんは、思わず突っ込みたくなる。「柿ピーって、両方あるからいいんやろ。両方あるからおいしいのや。」柿の種が好きなら、柿の種だけを買ってきて食べたらよい。ピーナッツが好きなら、それだけ買ってくればよい。理屈から言えば、こうなりますよね。
 そんなこと言っちゃあおしまいよ。他愛もないことで、ブロガーが意見を言い合うところにこのサービスの目的があるんだから野暮言っちゃあいけません。そうですね。謙虚に考えると、そういう話題に入っていけないことが、視野を狭くしているのかもしれません。

 いやー、しかし。やっぱり、どっちでもいいんじゃないの。

2010年4月25日 (日)

低温続く日本列島 今日も寒いよー

 寒い日が続いている。大型連休明けには暖かくなるらしいが、4月も後半になってこれでは行楽気分も失せてしまう。不景気が長引くなかでも、こういう時期には外出して野外を歩きまわり、気分を晴らしたいところだ。
 低温の原因はジェット気流のコースにあるらしい。その内容はともかく、昨日の大阪の最高気温は13.5度で、平年の21.4度と比べると8度も低いのだ。そしてまた今朝はよく冷えた。ベランダ側のガラス窓には真冬並みの結露が発生している。休日は窓を開けておくようにしているが、冷気が流れ込んで足元が冷えてくる。感覚的には冬である。
 温暖化も忘れる寒さだと誰かが言っていたが、気象現象のバラツキの範囲で起こっていることなのだろう。しかし、それにしても先ほどのデータを見ると特異な数字であることは間違いない。もう一度、はーるよこいと歌いたくなる気分だ。

人は変われるという例 N君に続きK君も

 以前に滋賀の工場に勤めるN君について書いたことがあるように思う。彼は十数年前に、大阪の工業高校を卒業して私の勤める会社に就職した。今では大卒か院卒を採用するが、当時はまだ高卒が多数採られていた。その彼が数年前から急成長を遂げた。改善提案では社長の特別表彰を受けるし、風土改革ではMVP表彰も受けている。ビジネス書を中心に読書に励み、その量では私を上回っている。彼の成長には、同じ職場の先輩であるF君の存在が欠かせない。F君の熱心さがN君に乗り移ったと言えなくもない。うまく乗せられたという言い方もできる。いずれにしても素晴らしいことで、第二のN君が出そうな兆候もあり、組織改革がいい方向に循環している状況にある。
 さて、本題はK君である。彼は大阪で採用されたが勤務地は名古屋であり、営業職に就いている。確か採用の時に面接した記憶がある。駅伝で有名な工業高校の出身で、陸上部で長距離を走っていた。5千メートル15分台半ばの記録があるというから標準以上の実力があったわけだ。そういう経歴から言えば体育会系なのだが、非常におとなしくて営業向きではなかった。成績もまだ不十分で、将来を不安視されていた。
 そういうK君だったが、数日前に所長の話を聞くと最近成長が著しいという。自分から手を挙げて積極的に仕事に取り組み始めた。詳細は聞けていないが、あのKが・・・という驚きで捉えられているという。風土改革の取り組みがいい連鎖を示し始めていると言えるし、そういう成果を狙って策を講じているのだが、個々の事例について直接的には何が原因であって、また遠因には何があるのかということについては解明ができていない。
 人の変化、成長にはさまざまな例があり、その原因にも様々な要素が考えられる。身近な事例を見ていて感じることを少しだけ書いてみたい。まず本人の置かれた環境の変化が基本にある。結婚、出産、死別、昇格昇進など。こういう機会は一生に何度もあるのではない。それだけにこのチャンスを活かせるかどうかが大きな意味を持つ。H君は子どもが生れてから張り切りだしたし、S君は父親の死以降しっかりしてきた。
 しかし環境の変化だけでは説明ができない部分も多い。それだけならもっと多くの人に変化が現れるはずだ。次の要素は、周辺にどういう人がいるかだ。よき指導者があれば幸運だ。目標となる先輩や同僚がいれば一層よい。こういう人達から、日頃メッセージを受け続けていると変化の芽が少しずつ育っている。ここに対して環境の大きな変化が生れると、その芽が一気に成長して周辺の目にはっきり分かるほどになるのではないだろうか。
 そうすると、環境の変化は簡単に訪れるものではないのだから、周囲の人間にできるのは、メッセージを送る続けることしかないのではなかろうか。いつか変わってくれるだろうと、ひたすら祈りながら。

2010年4月24日 (土)

岡部まりさん、桂きん枝さんが参院選で民主党から出馬

 タレントの岡部まりさん、落語家の桂きん枝さんに対し言いたいことは何もない。岡部さんは探偵ナイトスクープでお馴染の顔であり、悪いイメージはない。きん枝さんは、少し汚れたイメージはあるが、落語家として活動している分には芸を以って評価すればよいのであって、他の面で云々する必要もない。
 さてお二人は民主党からの勧誘を受け出馬を決めたのだが、その選択についても特に意見はない。強く勧誘されたらその気になるだろうことは想像できる。当選できる可能性も十分あるし、落選しても本業ではないだけにそのダメージは大きくはない。きん枝などは落選したとしても話題を作る効果の方が大きいと思う。
 問題は民主党、小沢一郎の選挙手法である。とにかく、何がなんでも参院選に勝つという執着が表れている。優先するのは、集票である。票の取れる候補者をどれだけ集められるか。その人選のポイントは知名度である。小沢一郎に見栄はない。きん枝の場合は集票には役立っても党のイメージアップには結びつかないのだが、食指を伸ばしたのはあくまで結果重視の哲学があるからである。勝てば官軍という言葉が小沢によく似合う。雲行きは怪しくなってきたが、勝てるだろうか。少なくとも小沢のシナリオ通りには進まないだろうけれども。

「安さ」追求の貧困 安いことはそんなに有難いか

 デフレが長引いている。消費が、すべてではないが、安い商品へと流れていることは事実である。衣料品、食品はその顕著な例であり、そのなかで安さに加えて独自の特長を出して業績を上げている企業もある。衣料のユニクロやしまむら、外食のサイゼリヤや王将などが目立っている。そこでは、安さだけではないにしても、低価格が好まれている。かつては、たまたま安いものに出くわすと幸運を感じて喜んで購入したものだが、昨今は意識して安いものを探し回るという行動が目立つように思う。以前は主婦がスーパーのちらしを見て、少しでも価格差があればAという店へ行き、別の商品はBへ行くという具合に徘徊して回るのだったが、そういう行動があらゆる階層に浸透しているように見える。そういうことに大きなエネルギーを消費しているのだが、安いものを探しまわる苦労も投資と考えるならば、そこで得られるリターンはそれに見合うものになっているのか疑問だ。安いものを得るのはよいとしても、自分自身がくたくたに疲れてしまってはいないだろうか。体の疲れはもちろんのこと、心も貧しくなっている。所得が減っているから仕方ないのだ、それはそうだろう。しかし、強迫観念があって、必要以上に節約してしまっているかもしれない。もう十年も前から、価格破壊という言葉がまかり通っていたが、当時私の勤務先の社長が、自分が扱う商品の価格を自ら崩して何が楽しいのかと怒っていたのを思い出す。いいものだったら少し高くても買って、それを大事に長く使うという考え方が消費者にあってもよい。そういう考え方は、余裕がなくなったのか一部にしか見られなくなった。確かに、ユニクロの5倍以上もするシャツは10年ぐらい着ているがまだ着れるし、飽きも来ない。ユニクロも悪くはないが、選び間違えると1シーズンで着なくなるものがある。
 われわれのこのような行動は、まさに貧困の表れである。良質のものを、最低限購入し、慎ましやかではあるが、余裕のある生活がしたい。そんなことをすると需要がいっそう縮むという意見もでるだろうが、お金が回ればよいのであって、高くてよいものが流通すれば経済は動くのではないか。家のなかにガラクタの様な物がたくさんあることを豊かとは言わない。

2010年4月23日 (金)

「なかったことにしておこう」 隠ぺい体質

 なにか良からぬ事態が発生したときに、そのことを周囲に知られたくないということがある。そういう時に、当事者同士で、この件は「なかったことにしておきましょう。」という密約が成立する。また、知らなかったこと、聞かなかったことという言い方もある。
 要するに、事実を隠ぺいするのであるが、その目的は批判・非難をかわすことである。当事者は周囲が容認しないことを予想しており、場合によっては罪の意識を伴うこともある。場合によってと言ったのは、悪くないけれども知られるとまずいという判断に依ることもあるからである。これは、政治的判断というのだろうか。例の核兵器の持ち込みに関する密約などは、政権担当者は悪いとは思っていないけれども、国民の批判をかわすために建て前を通したのである。ないことにしておきましょう、である。
 政治の問題はさておき、日常生活においてもよくあることだ。こどもが遊んでいて植木鉢を割ってしまい、おじいちゃんに叱られるのが怖くて黙っていようという約束が成立する。しかし、こういうことはすぐにばれてしまう。家族のなかでの出来事だから、内部で処理されて問題にもならないだろう。おじいちゃんを怖いと思うこと自体、今では価値のあることだ。とはいえ、起こったことを受け入れ、事実を認める姿勢を植え付けることが重要だ。怖いという感情があれば、次は注意しようという意識も生れ、一定の行動抑制につながるが、それだけでは再発防止にはならない。どういう状況でその事態が発生したのかを洗いざらい話して、その結果植木鉢を固定するなどの対応も考えられる。
 職場でもいろいろな間違いが起こる。小さなことから大きなことまである。一般的には小さなことは周囲に分かりにくく、大きなことは目につきやすい。大小をその時点での影響力の大きさと考えると、大きなことほど問題として取り上げられるのが当然だ。目につくから事実を認めざるをえないし、再発防止も一定施される。とはいえ、小さいことも放置すると後々影響力を増す場合がある。例えば間違った商品を出荷してしまい、気が付いたがお客さんから何も言ってこないから放置したとする。お客さんは間違ってその商品を使用したことで事故が発生する恐れもある。小さなことでも誤りを認め、都度事実関係を押さえ、対応を取る必要があるのだ。
 「なかったことにしておこう」と考える風潮は、問題を表に出さないことにつながり、個人の成長だけではなく、社会の進歩を阻害する。科学的思考を行う前に、その材料となる事実を認めることが肝要なのだ。

2010年4月22日 (木)

国を富ませるとはどういうことか 

 近年、日本の経済が元気を失くしている。デフレが続き、成長率が落ち、国民も将来への展望をなくしている。総じて「需要」が不足しており、生産の拡大が見られず、労働の成果物としての富は減衰している。
 富の源泉は、材料としての自然とそれを加工する労働という行為である。自然と労働の結びつき方にはいろいろな形がありうる。問題は、自然が有効に活用されているかどうか、人間の生活(生命の再生産)の場としてそれを不可能とするような毀損が行われていないか、労働はその再生産を不可能にするほどの過重な負荷を強いられていないか、労働の一部が活用されず放置されていないかということである。特に、労働の置かれている状況と労働の成果物の行方に重要性がある。
 国を富ませるとは、国民がそれぞれの能力を活かして働ける場を持つことであり、逆にそのことによりそれぞれの能力が高まっていくことでもある。また、そのことは豊かな生産力を生みだし、消費財を通じて生活をゆとりあるものにし、生産財を通じて持続的な発展を実現することであり、生活に必要な国民共有の社会的財を蓄積していくことでもある。しかしながら、その理想と現実とのギャップは大きい。将来ある若者の一部にはまともに職に就けない状況がある。リストラされて、そのまま再就職できない働き盛りの人もいる。逆に、人手が欲しいのに確保できない分野もある。一方、放置された農地や手入れの行き届かない山林があったりする。このようなアンバランスを解消するには経済の原理に一定の修正を加えなければならないだろう。他方で、精神的な病に苦しむ労働者も多数いる。人と人の関係の結び方の変化が何らかの形で脳に障害をもたらしたのだと考えられる。人を育てるのが社会の構造なら、人を毀損するのも社会の構造である。いずれにしても社会が持続的に発展するためには、人間そのものが健康に生き続けられる仕組みが必要なのである。
 

2010年4月21日 (水)

何を優先するか それぞれの価値

 人間は人生において選択を迫られた時に、何を優先して判断を行うだろうか。自己保身か、組織の利益か、正しいと思う理念か。
 どうしても自己保身に走ってしまうことは避けられない傾向だろう。それぞれ個体として独立して生きているのだから自分が生きていくことを基本的に優先する。それは命あるものの本能と言える。しかし、それだけであれば、ただの生物である。そこを超えた論理が生れるところに人間らしさがある。
 組織・集団の利益が生れる。組織に属することによって、全体の利益のために自己を抑制せざるを得ない時が発生する。それに徹することのできる人間を組織人と呼ぶ。一般的に組織での地位が上がるほど、組織人としての自覚が高まる。勤め先で人を評価するときには、彼は自分を組織の上に置いていないかという問いかけを行う。そしてその判断のできるものであれば上に上げても大丈夫だと見るのである。
 しかし、人間の判断の基準はそれだけではない。自分の信じる信念であったり、信仰であったり、神や仏であったりする。組織の判断であっても、それが神の示すところに抵触するものであれば拒否する場合があるだろう。もっとも、最近は企業もCSRを意識するようになったので、業務において道義に反することを実行しなければならない場面は普通はなくなっていると思う。とは言っても、先日新聞で報道されたように田辺三菱製薬の旧ミドリ十字系の子会社でデータ改ざんがあったが、こういうケースで指示を拒否できるかどうかは、最終的に何に価値を置いているかにかかっている。残念ながら日本では長いものに巻かれろ式の自己保身が優先される場合が多いのではないかと思われる。であればこそ、組織のトップが自ら社会正義の遵奉者である必要がある。
 長いものに巻かれると言ったが、昔、特に戦前は個人と組織の間に「家」というものがあった。自分で信じる信念や思想・信仰があっても家からの圧力があると容易にそれが崩れさるケースが見られた。いわゆる「転向」は、単に警察権力の弾圧だけによって生れたのではなく、封建的な家制度が背景にあると言われている。ある評論家に言わせれば、そういった封建的な性格も含めて社会認識が不十分で、同時にそれは自己認識の不足でもあり、そういう人間の「信念」は潰れやすいということだ。
 日本人は確固たる信念を持たず、意見の違いや利害関係を抜群のバランス感覚(最近の言い方では「空気を読む」というのだろうか。)でもって生き抜くことをよしとするタイプが多いように思う。私としては、もっと信念を持つ人が増え、信念に従った判断、生き方を貫いてほしいと思う。職場においては、企業にとっての理念と自分の生き方を統一させて、自己保身よりも企業価値の実現に向けて自分を活かす道を尊びたい。そこでは理念の実現に不熱心な社員との軋轢も考えられるが、安易に譲ってはいけないし、自分の側に大義があることに確信を持つべきである。

2010年4月20日 (火)

ライターの規制について 弱腰の官庁

 使い捨てライターを使った火遊びで小さな子どもが命を落とす事件があった。これを受けて着火しにくいタイプに規格を変更する案が出ている。しかし、消費者から使いにくいという声が多いという理由で実行にブレーキがかかっている。新聞の記事によるとアメリカでは1990年代に規制が始まっている。それとの比較で言えば、対応があまりに遅い。人命にかかわるようなことは、使いやすいかどうかの次元を超えた問題であることを知るべきだ。
 お役所仕事と非難されても仕方あるまい。

2010年4月19日 (月)

この世に無駄なことは何一つない 増谷淳子さん座右の銘

 先日コンサルタントの増谷淳子先生とお話しする機会があったので、前もって先生のプロフィールを調べた。すると座右の銘として二つ上がっていた。一つは「この世に無駄なことは何一つない」であり、もうひとつは「迷ったら、GO」である。
 先生と面談したときにこのことに触れ、自分の考えを伝えた。第一の言葉も第二の言葉も私の好んで使うフレーズとほぼ同じである。「この世に無駄なことは何一つない。ただし、前向きに生きている限りにおいてである。後ろ向きに生きていたら、すべては無駄であるばかりか、すべてが重荷になる。」「するか、しないか、迷ったらする方を選びなさい。」これが私の解釈である。先生には、私の普段考えていることと同じであり、大変感銘を受けたとお伝えした。

 人生が上手く進むかどうかの決め手は、前向きになるかどうかである。どうしたら、前向きのスイッチが入るのだろうか。落雷に打たれたように神の啓示を受けて生き方が変わったというような例は尋常ではない。平凡な生活のなかできっかけをつかんで変わり始めるのが普通である。このチェンジのメカニズムを解明できればすごいことであるが、人それぞれ違う遺伝子を持ち、違う環境で育ち、違う感性と思想を身につけているのだから一般的な定式化は容易ではない。おそらく、考えられるもっとも有効なやり方は、「朱に交われば赤くなる」式である。この諺は、集団のなかで悪い習慣が身に着いてしまう場合によく使われるが、よい性向もまた周囲の感化によってもたらされる場合が多い。チームで互いに励ましあい、影響を与えあう状況を作ることが、ひとつの仕掛けであろうと思う。

2010年4月18日 (日)

森麻季さんの「からたちの花」

 森麻季さんの澄んで伸びやかな歌声で、「からたちの花」を聴く。また、いいものを見つけた。佐藤しのぶさんや鮫島有美子さんもいいのだけれど、森さんは言葉が明瞭で切れ味がいい。それに、・・・・・・やっぱりきれいだからいい。こういうことを言うとお叱りを受けるかもしれないが。魅せる商売だから、見た目は大事ですよね。

  【作詞】北原 白秋
  【作曲】山田 耕筰

 からたちの花が咲いたよ
 白い白い花が咲いたよ

 からたちのとげはいたいよ
 青い青い針のとげだよ

 からたちは畑の垣根よ
 いつもいつもとおる道だよ

 からたちも秋はみのるよ
 まろいまろい金のたまだよ

 からたちのそばで泣いたよ
 みんなみんなやさしかったよ

 からたちの花が咲いたよ
 白い白い花が咲いたよ

日本経済新聞の2大キャンペーン

 長く日本経済新聞を購読し、それなりに重宝している。そこで、世の中で何が起こっているか、どういう変化が起こっているのかを知ることができる。また、経営者、学者、アナリストなどの発言から、多様なものの見方・考え方を学ぶことができる。

 さて、その日本経済新聞であるが、最近徹底してキャンペーンを張っていることがらがある。①郵政民営化の後退を批判する記事と②鳩山首相の米軍基地問題への対応を批判する記事である。連日の激しい批判を見ていると、かなり意図的計画的な2大キャンペーンとの解釈が成り立つのではないかと思われる。
 ①では、郵便貯金の預入限度額を引き上げることは民業圧迫であるとの論調がある。郵貯にお金が流れ込んで地域の金融機関を経営危機に追いやるというのである。一方では、郵貯の資金は国債を買い支えるために使われ、経済成長のための資金として有効活用されないという観点からの批判もある。さらには、根本的に日本のあらゆる地域を網羅する郵政の拠点は非効率であり、維持運営のコストは社会的な無駄を生んでいるという見方がある。郵便物の配送などはすでに物流企業によって賄いうる態勢にあるのだから、それを活用すればよいという見解もある。このような批判は日本経済新聞に固有のものではないが、経済団体や銀行協会の利益をかなり直接的に代弁した論調になっていることは間違いない。私は、金融や保険も含めて国で運営する部分がある方がいいと思っている。しかし、それはあくまで国民の生活を安定化させるための手段であって、特定の集団の既得益を守るためにあるのではない。また集められた資金の運用についても国民の将来も含めた利益に結びつく内容になっていなければならない。
 ②では、アメリカ政府の機関紙ではないかと思われるほど、アメリカ寄りの論調である。鳩山政権を弁護しようという気はさらさらないが、アメリカの言いなりになることが国益にかなっているという基本思想を感じるにつけ、日本の首相には国民の利益を代表して代案を突きつける責務があるという論点において彼を擁護したくなる。これまでそうだったから、これからもそうしなければならないという理屈はない。現在の国際関係から、反米的な政策の選択はありえないという主張が強固であるが、日本の意思・行動によって国際関係が変化していく側面もあるのだから、流動的に考えるべきである。もちろん、不要な軋轢は外交努力によって極力避けるべきであろう。しかし、万策尽きれば、ある程度のことは覚悟しなければならない。アメリカ政府から、あるいはその意を受けた企業からの攻撃を受ける可能性がある。また、アメリカ政府の圧力で日中関係の悪化も考えられるかもしれない。それでも耐えきるには、外国の基地のない日本を実現するぞという国民の強固な総意を形成する必要がある。

2010年4月17日 (土)

中国の「政治と経済」をどう見るか 

 中国は中国共産党が政権を握っており、一党独裁の社会主義国家と言われており、そのことに疑問を持つ人は少ない。また、その政治体制のもとで経済の仕組みとしては市場経済を大がかりに採用しており、そのことが近年の目覚ましい経済発展を推し進める原動力となっている。これは旧来の社会主義の概念からは想定できない社会発展の形態であり、どのように評価すべきなのか、あるいは今後をどう占うべきか興味深いところである。私は、政治家でもなく、学者でもなく、一民間企業に勤める経済人との立場から、限られた範囲ではあるが、その点について考えてみることにしたい。ちなみに勤務先は事業のうえで中国との関わりがあり、中国人との付き合いもある。したがって、悪意をもって見るのではなく、隣国として尊重し、またビジネスのパートナーが帰属する国家として位置づけることを前提に意見を述べることにしたい。

 さて、社会主義国家とはそもそもどういう性格の体制をいうのだろうか。30年近く前の学生時代を中心として読んだ何冊かの書籍からの知識であるが、(このブログを書くのに文献を引っ張り出すことはしない。これはあくまでブログであって論文ではない。)条件として上げられるのは、①社会主義を標榜する勢力(具体的には政党)が政権を握っていること。②その政権の性格は、基本的に労働者階級の利益を明確に優先する性格を持っていること。③生産手段の社会的所有(具体的には国有化、公社化など)を実現しつつあるか、すでにしていること。以上であるように思われる。付け加えるなら①は標榜するだけなら誰でもできるのであるから、一定の理論的な裏付けを必要とする。それは発生する地域や国によって違いうるが、マルクスの理論との近似性を持ったものになるだろう。過去の経済学や歴史哲学などの成果を踏まえたものでなければ、実質は社会主義と似て非なる、蒙昧な思想である可能性が高い。②について言うと、現在の社会主義政権を評価する場合に核心となる大事な点であると思う。遅れた段階で社会主義政権が出来上がると、当然ながら農民の占める割合が多くなるのだが、本質的には労働者階級が主導する権力という定義が与えられるであろう。③も大事な点で、社会主義の考え方によれば、社会主義政権の目的はそもそも生産手段の社会化によって労働者を搾取から解放することであり、また資本主義の内在する恐慌の発生を抑え込むことにあるのだから、これは必須のことであると考える。
 以上が社会主義国家の条件であると考える。では、今の中国はどうなのだろうか。まず①について。中国共産党は、毛沢東によって導かれた党である。中国国家は毛沢東の思想によって推進された革命運動の成果である。現在においても毛沢東主義はマルクス主義と並んで中国共産党の理論的な支柱となっている。この毛沢東主義についての評価についてはここでは触れないことにする。とはいえ、マルクス主義との比較で弱点を指摘されることはあるが、あのような大規模な革命運動を成功させた理論的、思想的な力は、いかに複雑な国際関係と混乱した国内情勢を条件としていたとはいえ、一定の評価を与えざるをえないであろう。②について。革命政権が樹立した時期の政権の性格については知識不足のため意見を保留するが、現在の政権が、労働者階級に準拠したものであるかどうかは疑問を持たざるをえない。経済的な公平性の部分では実際には格差が大きく、無権利状態に置かれている層もあると聞く。また農民出身の農民工と言われる人達は都市の市民に比べて冷遇されているのではないかと思われる。それは革命の途上で発生する過渡的現象だという主張が出そうな気はするが、惨状を見ると即座に肯んじえない解釈である。③について。市場経済の導入とその領域の拡大は、最早後戻りできない段階に達したと言える。そのことで、理念とは逆に、生産手段の私的所有が進んでしまっている。原理的におかしいと思う。ただ、これも言い訳はあり得るだろう。他の資本主義国家から中国国家、中国人民を守るためには、遅れた経済を思い切って拡大することが不可避である。生産手段の国有化による漸進的な発展が好ましいが、ソ連が崩壊し、社会主義勢力が後退している状況ではそれは困難である。市場化およびその急激な進展は一定のひずみを生じるだろうが、それは仕方のないことであって、痛みは緩和しつつもこの道を歩むしかないと。中国共産党がそのような考えを持っているのかどうか知らないが、仮にそうだったとしたら、極端な市場化は資本の論理を強めるばかりであって、多国籍化し強固に育った資本をどうやって中国の労働者階級の手に取り戻すというのだろうか。根本的な、自己矛盾ではないかと思うのである。

 勝手に意見を述べてきたが、中国建国の思想を尊重するにしても、今はそれとは離れた方向に進みつつあり、政治と経済のアンバランスは明らかであり、結果的に経済の領域のエネルギーが勝り、政治的な理念や体制が危うくなっていくことが容易に想像される。しかし、隣国の国民として、中国内にビジネスパートナーを持つ立場の者として、大きな混乱は希望しない。中国共産党が自ら政権を放棄することなど考えられないから、経済成長だけに目を奪われず、特権的なグループの利益は抑え込み、不遇の労働者・農民に対して手厚く遇して社会のバランスを図ってほしい。一旦走り始めた高速機関車は、簡単に止めることができないということかもしれないが、いったい将来何が起こるのか心配な気持ちは消すことができない。

  参考:ウィキペディアより
 社会主義(しゃかいしゅぎ、: socialism)は、生産手段の社会的所有・管理などによって、生産物・富などを民主的に分配し、平等な社会を実現しようとする思想・運動の総称である。

2010年4月16日 (金)

矢沢永吉 時間よ止まれ

 酔っ払うと歌いたくなる歌
 気楽に生きていたら きっと心に滲みることのない歌
 透き通った空に溶け込んでいきたくなる
 自分があまりに重たすぎる日々
 大して重たくもないのに 
 だから しばし リリース 自分 

 曲が流れるときに南の海の画像が出てくる
 白い砂浜に小さく打ち寄せる波
 行き止まりなく広がる空、空、空
 砂浜に寝そべって しばらくリラックスしたい
 しかし こんな所に何日とどまることができるだろうか
 きっと しばらくすると 自分というものが見えなくなり
 意識や意思を喪失してしまうに違いない

 緊張のなかでしか 自分を確かめられない
 それが人間なのだ

碧く燃える海
どうやら俺の負けだぜ
まぶた閉じよう
夏の日の恋なんて
幻と笑いながら
このひとに賭ける

汗をかいたグラスの
冷えたジンより
光る肌の香りが
俺を酔わせる
幻でかまわない
時間よ 止まれ
生命のめまいの中で

幻でかまわない
時間よ 止まれ
生命のめまいの中で

罪なやつさ Ah PACIFIC
都会の匂いを
忘れかけたこの俺
ただの男さ
思い出になる恋と
西風が笑うけれど
このひとに賭ける
Mm Stop the world
Mm Stop the world
(Repeat & Fade Out)

2010年4月15日 (木)

牛丼戦争に思う

 吉野家、松屋、すき屋、なか卯が4大牛丼チェーンらしい。わたしの馴染みは、東京にいたためか吉野家と松屋である。牛丼と言えば、圧倒的に吉野家のイメージがある。文字通り、早い・安い・旨いのサービスで、学生のころはお世話になった。あまり辛くない味付けで、飽きがこなかったのだと思う。松屋は高田馬場の芳林堂という書店が入っているビルの地下に店があって、たまに食べた。味は吉野家の様に洗練されていなかったがそれなりで、決しておししくはないが味噌汁がつき、ありがたかった。値段は今と変わらなかったように思う。もっとも安い食事は生協のカレーで120円。続いて生協の一番安い定食で200円だった。牛丼はそれよりも100円ほど高かった。だから、学生にとっては少し贅沢なごちそうだったのである。

 さて、松屋、すき屋が値下げし、吉野家も期間限定で対抗するなど牛丼チェーンの値下げ合戦が続いている。これに対し消費者からは、値下げはありがたいものの、いつまでも続くとは思っていないし、味やその他のサービスの低下を予想する声も聞かれている。私も同感である。消費低迷が続くなかにあっても増収を追いかけるのが企業の生態であり、牛丼のように単品であればなおのこと客の目が価格に奪われがちなので、競争が激化することは必然なのかもしれない。しかし、コストの削減にも限度があるのであって、つけは仕入先から従業員の待遇・報酬に至り、最後は消費者にも回ってくる。肉や米の質の低下があるかもしれないし、欠けたどんぶりで食べさせられたりするかもしれない。
 われわれは餌を食べに行くのではなく、食事をしにいくのであるから、あまり高いのはこまるが、味とサービスに見合った価格なら受け入れる。一円でも安いものを買いたいという欲求は生活の条件が生みだすのだから否定はできないが、「節約疲れ」という言葉も生まれたように、それもまた精神の貧困を生むのである。節約はエコ社会においては美徳であるが、それはまだ使えるものを廃棄したり、エネルギーの過剰な消費を戒めたものであって、物の値段の高い安いを問題にしているのではない。

2010年4月14日 (水)

プロボクサー 川口裕と橋口俊

 最近しばらく足が遠のいているが、ボクシングの試合を見るのが好きだ。タイトルマッチはチケットの値が張るので行かない。主にノンタイトルのローカルな試合である。特別好きな選手はいないが応援している選手がいる。
 一人は、グリーンツダジム所属の川口裕選手。私が育った町のお隣の熊野市の出身である。登録はスーパーフライ級で、11勝4敗4KOの戦績。うち2試合を生で観戦している。素人の私から見ると、センスはかなりいいものを持っている。しかしスタミナと力強さに欠けている。この点はトレーニングで十分克服できるだろう。過去にはジェロッピ・メルカドと僅差の判定に持ち込んだこともあり、攻撃力を身に着ければランカーともいい勝負ができる素材である。
 つぎに正拳ジム所属の橋口俊選手。川口同様まだ若い選手で、なかなかのイケメンである。したがって熱狂的な女性ファンが多い。戦績は7勝11敗2KOである。実力からいえば、川口に大きな差をつけられてしまった。相手に打ちこまれることが多く、攻め込まれるとファンの女性の悲鳴が聞こえる。それが逆に対戦相手の闘志に火を着けることになる。彼のいい所は、打たれ強さにある。打たれてもなかなか倒れない。相手も打ち疲れてしまう。しかし、パンチがないから耐えても逆転ができない。見ていて感動はするが、勝てないのだ。それでも、特徴があるからカードは組んでもらえる。ぜひ練習で強打を身につけて勝てる選手になってほしい。

2010年4月13日 (火)

失われた10年 ロスジェネを生みだした背景

 バブル崩壊後の出来事を振り返ってみると、いろいろな思いに駆られる。言いたいことを並べてみよう。

 ・不動産バブルの発生と崩壊は、明らかに失政によってもたらされた。
 ・1994年の景気回復宣言は、大ウソだった。税金をつぎ込んで、見かけの回復を演出した。翌年の財政危機宣言は何だ。
 ・オウムの信者拡大とテロ行為は社会不安の反映である
 ・1997年の不景気のなかでの消費税増税は、マイナスの作用しかもたらさなかった。
 ・1998年の自殺者3万人超えは、時代を象徴する出来事だ。社会が人を活かす機能を衰弱させていることを証明している。
 ・1998年~2002年 大がかりなリストラが進行する。人材派遣の自由化も後押しして、非正規労働者が大量に生みだされる。
 ・デフレが社会全般に重くのしかかる。ローンを抱えた勤労者はますます苦しくなる。日銀のゼロ金利、量的緩和政策は効果なし。体力の消耗と先行き不安で、資金の需要なし。そんななかで、体力のある投機筋が円キャリートレードで利益を得る。それがまた金融危機、経済危機を引き起こす原因になっていく。壮大な悪循環。壮大な失政。 

1992年 不動産バブル崩壊、政府株式市場に税金を投入
1994年 政府景気回復を宣言、オウム真理教による松本サリン事件
1995年 住宅ローンの焦げ付き急増、住専処理案閣議決定、蔵相財政危機宣言、地下鉄サリン事件
1997年 消費税増税実施(3%から5%に)、拓銀、山一証券倒産
1998年 自殺者3万人超え、長銀、日債銀を一時国有化、ホワイトカラーもリストラ対象に
1999年 景気対策で住宅ローン減税開始、製造業大型リストラ、日銀ゼロ金利政策、人材派遣原則自由化、大手銀行に公的資金(税金)を強制注入、政府景気対策開始(99.9兆円)、景気対策で定率減税
2000年 デフレ経済進行、30代の負債が初めて貯蓄を上回、住宅金融公庫返済期間を35年に延長、そごう倒産、千代田生命破綻
2001年  刑務所定員オーバー、量的金融緩和政策の開始(2006年7月まで)
2002年 リストラ全業種に拡大、米ムーディーズ日本国債を格下げ

2010年4月12日 (月)

銀座クラブコンサルタント ホステスの心得

 この記事の発端は、友近のネタにある。たまにホステスさんの会話やしぐさをネタに使っているが、ママがお店の子に向かって「○○ちゃん、日経新聞読んどいて。」というセリフを発する。高級なお店になると客はそれなりの企業の経営者や幹部がやってくるので、そういう類の人達と会話しようと思えば、経済的な知識も必要になるという背景を踏まえてのものだ。昔は、銀座のホステスさんは日経新聞を読んでから出勤すると言われていた。今は不況が長引き、また経営層の遊び方も変わってきたので銀座のクラブも繁盛しなくなっており、女性の質も落ちてきたと言われている。そんな状況下でクラブの経営者はホステスのレベルアップに相当腐心しているのではないかと想像される。不況ということは、それだけ成金的な顧客が減少しているということでもあり、安定した企業の落ち着いた経営者が顧客の中心になるということだ。あまりにも浅薄な知識では応対できないことになる。

 そういう興味をもってネット検索をしているとホステスさんの斡旋業をしている会社のホームページに行き当たり、内容を見ていると非常に面白かった。そこにはホステス志願者向けのQ&Aがあり、興味深い。そのまま記載するわけにはいかないので、そのなかの一例を要旨にまとめると、「お客様と長く付き合うためには、話の引き出しが多く持つことだ。昔の銀座のホステスは日経新聞を読むこと、ゴルフができること、株式の知識があることが条件だった。最近は経済の知識等が乏しくなっている。今日でも、さまざまな知識を身につけ、お客様にあった話を提供できるようにしておきたい。ホステスの側に話題が乏しいと、お客様の方が退屈してしまい、勢い口説いたり下ネタに走ってしまうことになる。どんなお客様にも趣味や興味の一つはあるもので、どういう時に盛り上がったのかを観察しておけば適切な対応ができるようになっていく。要は、お客様を飽きさせないことである。」
 お金を稼ごうと思ったら、並大抵の努力ではいかないのだ。天性の素質でホステスが務まるのではない。容姿も重要な条件であると書かれていたが、それはお化粧や服装によってカバーできるし、環境によって大きく変わる場合があるとあった。その部分も努力次第であるわけだ。
 次に、関連して別のサイトで、ホステスさんの給与システムについて紹介されていた。基本的に日給制で、稼ぐ人では月300~400万円になるそうだが、経費もかかる。着るもの、毎日の美容室代から名刺に至るまで自己負担だ。またノルマを達成しなかった場合、あるいは規則を守らなかった場合の罰金もある。同伴で出勤しなければならない日数が決められていて、守らなければ日給が100%カットになるそうだ。すなわちその日はタダ働きということだろう。遅刻・早退は10分単位で日給の15%カット。これも厳しい。1時間遅刻したらこれもタダ働きになってしまう。それではいっそ休んだ方がいいとなるが、欠勤は最大200%カットがあるのだそうで、それに比べれば出た方がましという判断になる。もう一つホステスさんの大きな負担として売掛金がある。自分に着いた客の「つけ」が焦げ付いた場合はホステスさんが補償することになる。その負債を抱えたまま店を移籍することもよくあるらしい。
 そのサイトによれば、銀座の規則が一番厳しく、六本木は少し甘いらしい。これが、レベルを落とさないための銀座の掟なのだろう。ハイリターンにはハイリスクが付きまとうのである。これだけのお金を稼ぐのだから、並みのサラリーマンの知識や知恵を上回るものを会得していて当たり前だろう。そこに女性ならではの容姿やお色気が付加価値として付いてくるから高く売れるわけだ。
 

2010年4月11日 (日)

政治と経済との関係 

 経済(経済活動、経済社会)にどの程度政治が関与すべきか。その程度によって、政治的な立場の違いが現れる。市場の自律性を認める者は政治の介入を嫌うし、市場が不完全だと考えるものは政治(政府)の役割を重視する。

 理想は、経済活動・経済社会が文字通りに自律していて、何ら政治的な介入を必要とせず、矛盾なく発展する状態である。歴史上にこの様な社会があったかというと、極めて例外的に限られた時代の限られた地域で見られるだけである。この逆は、政治が経済を丸のみする体制で、社会主義国家による計画経済があるし、戦時の統制経済もこの例にあたるだろう。いずれにしても国家権力が絶大であり、その権力の性格も考慮にいれる必要はあるけれども、そのままでは理想とは正反対の状態だと言わねばならない。ちなみに、マルクス主義の理論では真に自由で自律した社会への過渡的な段階として社会主義国家が規定されており、その意味において正統性が与えられている。

 自律した純粋に経済的な社会が理想だとはいうものの、現実の世界には政治という現象が現れざるをえない。自由放任という言葉があるけれども、どんなに自由な経済活動と言えども、一定のルールに従わなければ成り立ちえないのであるが、それが普遍的なルールになるためには政治的な正統性を付与される必要がある。ルールの設定は、市場の弱点を補正するための技術的な問題のようにも見えるが、実はその線の引き方自体に政治性を帯びている。制度の設計の仕方によって特定の階層あるいは階級を利することになるからである。よりラディカルな見方をすれば、そもそも、階層(階級)が存在していることが政治の根源であると言えるだろう。そのような社会においては、経済的ルールの設定が公平に行われることが不可能である。

 真に自由で自律した社会とは、政治のない社会であり、階層や階級に分化しない社会である。そこでは、生産のための手段が市民に広く共有され、共通の利益のために活用される社会である。しかし、原理的にそういう社会を想定することはた易いが、手段の共有とはどういう状態を指すのか、共通の利益とは何を指すのか、具体的なイメージとして想定するのは容易なことではない。現実には、そういう要素を実験的に順次社会に取り入れながら、個々人は、経済運営に参加できる主体として成長し成熟することしかないと考える。これをもっと分かりやすく言うならば、労働者が経営に参加することで組織を運営する能力を身につけることであり、経営の側も労働者の積極的な役割を認めて積極的な経営参加を促すことなのである。

2010年4月10日 (土)

ジュンク堂大阪本店の研修生の対応について

 休日の過ごし方として書店での本探しがある。大抵は梅田の本屋まで出かける。曽根崎の旭屋か堂島アバンザのジュンク堂である。
 今日はジュンク堂へ行ってきた。地下鉄梅田駅から歩いて少しかかる。お決まりのように、まず3階へ上がる。哲学関係の本を手にとってパラパラめくる。もちろん難しいが、自分の手に負えない分野、領域があることを知るのも大事なことである。とはいえ、懲りずに少しずつでも読んでいけば幾らかは分かるようになるものである。次に新書コーナーへ。今日はNHKブックスの棚で足が止まる。タイトルだけ見ていてもいろいろなジャンルのものがあって楽しいし、手にとって目次を見ていると内容が想像できて面白い。時々、それに騙されることもあるのだが。結局2冊購入する。園田茂人著「中国人の心理と行動」と松原隆一郎著「分断される経済」である。
 さて、ここからが本題である。レジへ先の2冊を持って行ったついでに図書カードを購入しようとして声をかけた。すると研修中という札を胸に付けた女性が、「図書カードはこの階で扱っておりません。」という。「それでは、どこで扱っているのですか。」と問うと、「2階です。」という。そうですかと答えて、エスカレーターに向かったが、なんとなく気分がすっきりしない。やっぱり答え方がよろしくない。最初から、「図書カードは2階で扱っております。」と言うべきである。できれば、「恐れ入りますが、そちらへ行っていただけますでしょうか。」と付け加えてほしい。長年お客様に接してきた私としては、そう希望したい。無理な要望とは思わないのだが、ジュンク堂に皆さんはどうお感じになるだろうか。

エクスキューズ症候群

 約束を守れなかったら謝るしかないが、相手が強くとがめなければ反省の気持ちも薄れてしまう。約束にもいろいろあって、人の人生を左右するような個人と個人の大事な約束もあれば、組織と組織の契約という種類の約束もあるし、業務上決まっている会社内のルールの様なものもある。最後のケースだと、たとえば書類の提出納期がある。
 この例を、勤め先の現状で考えてみると、守る人はほぼ完ぺきに間に合わせるし、遅れる人は頻繁に遅れている。提出先が顧客であれば、さすがに遅れると自分に火の粉が飛んでくるので納期は守るだろうが(それでも遅れて不信を買う社員もいないではない)、社内であれば御免なさいで済むことが多い。受け取る側も、全社の業務日程に支障をきたす重要書類であれば許しはしないが、いったん事務局が受け取るような報告書などは多少の遅れは目をつむってしまうことが多い。ところが、このことは本人にもよくないし、会社にとっても問題発生の要因になっていくのである。
 納期に遅れても、次第に謝れば済むと思うようになっていく。最初はまずいと思うのであるが、何度もやっていると罪の意識が薄れていく。そして遂には、納期遅れを指摘すると、「厳しい」と言いだすのだ。決まった日に出すことは皆で決めたルールであり、当たり前のことである。これが、当たり前でない、すなわち例外になってしまう。これは御免なさいの常態化であり、エクスキューズ症候群と呼びたい。謝罪するのは本来屈辱的なことであり、二度と頭を下げるかという悔恨と決意を生じさせるものなのに、プライドなどどっかへ吹っ飛んでしまっている。こういう人は、間違いなく、すべてのことに無責任になりがちである。だから、いい仕事はできない。上司も自分に弱みがあれば、部下に厳しくなれなくなるのは世の常だから、経営はまず部下を持つものに規律を要求すべきなのである。それは仕事ができるできない以前の組織の基本にかかわることである。

2010年4月 9日 (金)

祭りの思い出 少年時代の記憶

 私の生れた町にも祭りがあった。まず2月には稲荷神社の祭りがあった。還暦の人が、神社の下にある広場に向かって餅やお金をまく行事があったのだが、たくさんの餅が入った俵が投ぜられた時には大人たちが奪いあいを演じ、その時が一番盛り上がった。小学生は、部落ごとに神輿を担いで神社まで歩く。神輿と言っても、飾りのない質素なものであったが、こどもには重量感があって、担いでしばらく経つと肩が痛くなってくる。「千両、万両」と声を上げるのだが、神社までの道があぜ道に毛が生えたような狭い農道だったので、それを聞く人はおらず、けっきょく大半の行程は沈黙のまま行進するのであった。神社に着いたらお参りして、出店でなにか買って食べる程度で、先ほどの餅まきぐらいしかイベントがなかったので地味な祭りだったと思う。それを楽しみにしている子供たちも多かったと思うが、私には興味をそそるものではなかった。
 ほかに七夕祭りがあった。これも部落単位で集合して、役に当たった家で食事をしたり遊んだりする。先ほどの神社近くの竹林まで行って、背の高い青竹を切って持ち帰り、そこに短冊などを飾り付けて立てる。この竹が子どもには結構重たく、運搬するのに骨が折れた。大人の助けを借りずにやるところに、ある意味教育的機能があったのだ。食事は決まってカレーライスだった。体を動かして腹をすかせていたからおいしかったが、家庭によって味は少しずつ違っていた。やはり、食べ慣れた自分の家のカレーが一番おいしいのだった。
 祭りといえば、この程度だった。足を運べば、新宮のお燈祭りがあったし、尾鷲のヤーヤ祭りもあったのだが、離れた町の祭りを観に行く習慣はなかったし、まして子どもには思い付かぬことだった。

2010年4月 8日 (木)

水原弘 黒い花びら

 昭和34年発表、永六輔作詞・中村八大作曲の、日本レコード大賞第1回受賞作品である。水原弘は好きな歌手の一人であるが、その人となりについてはほとんど何も知らない。ただ、遊び人という印象を持っているだけである。歌手とは歌を歌う人であり、その点で歌を歌っている瞬間の輝きがあればそれでよいのである。その人の生き方が歌に影響を与えることも事実であろうが、そこをのぞき見る必要は全くないと私は思っている。唯一、例外的に関心があるのは美空ひばりの残した足跡である。

 水原弘は歌の上手い人だった。声はきれいではないが、なんと言えばいいのだろう、さびの部分の張りあげるところに色気がある。黒い花びらで言えば、「だから だから もう恋なんかしたくない したくないのさ」と歌い上げるところである。この曲がヒットしたのは昭和34年だから私が生れた翌年であり、当時の様子は当然記憶にない。はっきり覚えているのは、昭和42年発売、川内康範作詞・猪俣公章作曲の「君こそわが命」である。こどもながらに歌を覚えてしまい、よく口ずさんでいた。他にもいい歌がある。
  黄昏のビギン  永六輔作詞・中村八大作曲
  お嫁に行くんだね  林保明作詞作曲
 おもしろいところでは
  へんな女  浜口庫之助作詞作曲 がある。

2010年4月 7日 (水)

大阪を感じさせる漫才

 東京から大阪本社に単身赴任で転勤をしてきた社員がいる。関西に住むのは初めての人で、大阪の文化に親しみたいと言う。
 こういう場合に何を勧めたらよいのかを考えた。とりあえず足を運ぶなら天王寺あたりだろうか。今はどうか知らないが、天王寺動物園の周りではカラオケを歌う人達がいて、ああいうのは他の土地では見ない。通天閣周辺では朝から串カツで一杯やれる店があり、これも雰囲気がある。大阪城は風景としては確かに大阪的だが、集まっている人は地方や海外から訪れた人が多く、空気は大阪的ではない。
 文化で言えば、漫才が面白いと思う。大阪の人は口達者であるが、日頃から漫才という話芸に親しんでいる影響もあろう。一般人でもぼけるし、突っ込む。大阪らしい漫才コンビとして勧めるとしたら、小づえ・みどりがよい。やかましいぐらいに賑やかで、厚かましく見えるところが特徴だ。特に小づえのキャラクターが好きだった。残念ながら急逝したが。
 その他では、古いところから中田ダイマル・ラケット、その弟子の中田カウス・ボタン、いとし・こいし、やすし・きよし、阪神・巨人などが主な顔触れになる。なかでも夢路いとし・喜味こいしは下品さがなく、全盛期は間といいテンポといい絶妙であった。YouTubeで観ることのできる「女の一生」という漫才は傑作の一つであると思う。ときどき見て、その間を盗めないか研究している。

2010年4月 6日 (火)

ブログ公開のスキル向上

 ブログを書き始めて3年あまり経つ。当初は、兎に角書くことが目標だった。記事の中身にはこだわらず、毎日1件ずつ書くことにしていた。しかし、それはいつまでも続かない。会社勤めをしていると残業で遅くなる日もあるし、飲み会もあれば出張もある。続いて休日にまとめて書くようになる。それでも1週間分は書けないから、土曜に2件、日曜に2件程度の配分になっていった。
 数から言えば、そのように変化してきたが、質的には随分進歩したように思う。継続は力なりという表現が適切であろう。話題はできるだけ重複しないようにしているが、それでも表題が違っていても同じテーマで書いていることがある。そんなケースでは、前回より肉付けされ同時に贅肉は削り取られてまとまりも良くなっている。
 さて、最近ではブログの書き方や公開の仕方で新しいスキルを身に付けた。それは機能として元々備わっていたものだが、これまでは特に必要としなかった。まずは下書き機能。一つずつ仕上げて、即公開するやり方一辺倒だったが、思い付いた時に途中まで書き、「下書き」として保存しておく。そして時間ができた時に仕上げるのだ。場合によってはタイトルだけ保存する場合もある。
 次は公開日時の指定だ。これを使えば、土日に書きだめしておいて、毎日1件ずつ自動的に公開することができるのだ。そうすると受け取る側は、文字通り日記として毎日こまめに書いているように見える。もちろん、即刻オープンにしないと値打ちのない記事もあるのだが、一般的な内容ならいつ出してもOKだ。最近では、このような機能を使って記事を先の日付までプールすることができるようになったのである。

2010年4月 5日 (月)

売り手と買い手のかけあい 行商の記憶

 子供のころの記憶である。当時はまだ「行商」という商いのスタイルがあった。定期的にやってくる雑貨商のおばさんがいたし、不定期にやってくる商売人もいた。
 「とぎ屋」というのだろうか。ある日の午後、包丁を研いだり、のこぎりの目立てをするおじさんがやってきた。休日だったのでおやじが対応した。当家には特にやってもらう仕事はなかったので、おやじはやんわりお断りしながらも「困っている人もいるだろうから、こうやって回っていると喜ばれるでしょう。いい商売ですね。」と褒める。それに対し行商は「ご主人は大変立派なことをおっしゃる。学校の先生ですか。」と持ち上げる。おやじは、いいや違うよと言いつつ照れる。こういう掛け合いがあった。
 今も訪問販売はあるが、こういう会話のやりとりはないだろう。間に合っていますと、話を聞かずに追い返してしまうのが大半ではなかろうか。昔の生活には、ある意味精神的な余裕があったし、人を尊重する空気もあった。ある晴れた休日の午後、時間はゆっくり流れていた。

2010年4月 4日 (日)

行楽日和 やっと春らしい気候になりました

 地球温暖化を忘れさせるほど冷え冷えする日が続いていたが、やっと春らしい陽気になった。今日はガラス窓に結露ができる寒い朝だったが、予報の通り昼間は気温が上がり、上着なしですごせる暖かさになった。
 当家も世間並みに花見にでかけた。万博公園まで足を運んだが、例年どおりの人出で、モノレールは満員、中央ゲートへ続く陸橋は通行の制限がかかっていた。中へ入ると桜の木の下にはシートが並び、飲んだり食ったりしてくつろぐ人達で賑やかだった。それでも公園は広いので少し外れると空いている場所はたくさんある。目立つのは小さな子供が多いこと。ここだけ見ると少子化が嘘のようだ。幼児はかわいい。しかし、お父さんお母さんは子供を遊ばせたり、抱っこしたりで忙しいし、疲れることだろう。その点こちらはスーパーで買った弁当を食べて寝そべっていればいいだけだから気楽である。
 3時間ほどいて、帰路に就いたが、桜を眺めたのは一瞬だけだった。花見とは言っても、じっと見つめるようなものではない。ほかに、大陶器市というのをやっていて、値引きの札がついていたが、普段より安いとは思えなかった。陶器の値段など滅多に買わない人間には分からないのだ。けっきょく、シートのうえで、しばらく横になってうとうとしたのが一番の安らぎであった。

監視する人、される人 新しい分化の危機

 ルールを守る人と守らない人がいる。順法精神の旺盛な人とそうでない人との違いはどこから生まれるのかということも関心事であるが、社会に秩序ある人々を求める人とそうでない人との違いにも興味がある。
 今現在、この社会において一定の利益を享受している人間は秩序の維持を歓迎するに違いない。逆に不利益を被っている人間は、今の秩序に拘泥しないであろう。これが存在を正しく反映した意識である。しかしながら必ずしもそうとは言えない現実もある。貧しいけれども保守的な人は多い。それは過去の親からのものも含めた教育に因るものか、宗教的な感化に因るものか、政治的な宣伝によるものか、いくつかの要因が考えられる。このようなねじれはあるものの、前者の利益を享受している層が秩序を重んじる傾向については大きなズレはないに違いない。 

 近年所得格差が広がっているという。またその格差がより固定化しつつあるという。それは生活面でかなり厳しい状況に追い込まれている人間の増加を意味しているが、幸か不幸か今のところ社会に大きな混乱は生じていない。これは日本人の文化に因るものかもしれない。普通であれば、治安の悪化が心配されるが、確かに変化は見られるものの、外国人は日本はまだ安全な国家であると評価している。しかし、この先は予断を許さない。
 私は混乱を期待しているのではなく、按じているのである。利益を享受している人々が、秩序の不安定化を恐れ、秩序のかく乱者予備軍に対し警戒意識を過剰に持ち出すのではないかと思われる。それは例えば、町中に監視カメラの設置が進むことであり、警備会社の繁盛であり、もっと進めば、高所得の人々が集中して居住するエリアの増加であり、逆の貧民街の増加である。これまで、高度成長期に登場した多くの中間層がどのエリアにおいても中心的存在だったから、特定の層が隔離されるようなことはなかった。しかし、これからは、アメリカで顕著であるといわれるような居住地の分離が進むかもしれない。

 このような事態は決して歓迎されるべきではないと思う。アメリカの自由主義の考え方がよいという人もいる。平等よりも自由を重んじる社会がある。機会の平等は重視されるが、その結果は自己の責任において受けとめるべきという考えだ。その結果に政治が関与すべきでない。救済は慈善団体がすべきであるという発想だ。しかし、機会の均等は怪しい。人間は同じスタート位置に立てるわけではない。だれもが知っている事実であろう。
 前から言っているように、中間層の厚い社会が安定感のある社会であり好ましいというのが私の持論である。それは社会の活力を削ぐという批判を受けるかもしれない。しかし考え方によっては、真に活力ある社会は中間層を創造するという考えも成り立つ。今、格差が広がっているのは社会に成長性が乏しいからだ。格差の広がりがさらに活力を奪っていると見ることができないか。先進国においては、ジニ係数の小さい国ほど成長率が高いという研究発表を見たことがある。学術的に上手く説明はできないけれども、兎に角、私としては監視したりされたりする社会は真っ平ごめんだということだけは言っておきたい。

2010年4月 3日 (土)

与謝野馨氏が自民党を離党 瓦解する組織

 政治井戸端会議

A 「与謝野さんが離党するのは時間の問題だと思っていたが、なぜこのタイミングだったのかね。鳩山邦夫さんが先陣を切ったが、追いかけずに、しばらくは我慢の時期だと思ったんだが。」
B 「賭けだね。与謝野さんは鳩山と違って慎重な人だから軽はずみではないよ。考えて考えて、生き残るには今しかないと答えを出した。」
A 「その、今が問題なんだよ。」
B 「焦点はやっぱり参院選だね。民主党にここを乗り切られると、しばらく復活のチャンスはなくなる。与謝野さんも若くはないから、ラストチャンスと考えたんだろうよ。」
A 「では、どうやって民主党を追い込むのか。」
B 「追い込むというより、民主に自滅の目が出てきたということだね。小沢さんにとったら、彼の政治の最終仕上げは参院選なんだよ。ここが彼の終着駅さ。だから、すさまじい執念で選挙準備をやっている。違法献金の問題で相当責められたが、耐えきったね。ここはとにかく辛抱して、選挙まで耐えきれば、後はなんとでもなるという読みがあるんだ。」
A 「しかし、自滅の目が明らかになったと言いましたな。」
B 「いろいろ矛盾が噴き出しているが、沖縄の基地問題が命取りになるね。5月までに鳩山さんは解決できない。これは基本的に外交問題だから、じっとしていて解決できる問題じゃないんだ。アメリカの意向に従うなら国内の合意は得られない。支持率は一気にゼロに近づくだろう。」
A 「鳩山の後は、岡田かね。菅か。」
B 「それは分からんが、いずれにしても小沢の意向次第だ。どちらが、その時点で選挙を戦えるかということ。」
A 「単独過半数はとれないと見るのですね。」
B 「党自体の支持率は下降しているから基本的には難しい。ところが、与謝野さんが出て自民自体の崩壊は加速されるわけだよ。そうすると、保守の再編がどう進むかだ。与謝野さんがリーダーシップを発揮できなかったら、小党・小グループが乱立して民主を勝たせることになるんだよ。」
A 「それでも与謝野さんは今しかないと考えたんだな。」
B 「待っていたら、徐々に衰弱して死期を待つしかないんだ。100%勝てる状況ではないが、出なかったら100%負けが確定するからね。だから最初に賭けだと言ったんだ。」
A 「あなたは与謝野さんを支持するのかい。」
B 「いや、新しいパラダイムとか言っているが、そんなものはないよ。小泉さんが進めた路線か社民的な路線か、基本は二者択一になる。鳩山さんも社会民主主義的な路線を明確にして、一定現実的な政策も取り入れて、これしかありませんと国民にはっきり示せばよかったんだ。とは言っても、もう手遅れだが。」
A 「本当にもうだめですかね。」
B 「国民の支持が後退し、マスコミがそれに乗じて攻撃し始めた。そうなったら元には戻らないね。」
A 「政界の再編はどう進むのか。」
B 「しばらくは中道が力を維持するだろうが、保守の揺り戻しはあると思う。ただし、それは自民党じゃない。本質は変わらないが、見た目は一新された保守連合だろうね。その中核に座るのが与謝野さんの野望だよ。」
A 「社民党や共産党が伸びる可能性は。」
B 「条件的にはありうるとは思うが。しかし、政界再編に国民の目が行って、ここには支持が集まらない。多少は議席を持った方が牽制が利いてバランスがとれるんだが。そういうバランス感覚がなくなってきたね。個人的には社会民主主義のアジア的モデルを作ってもらいたいと思っているのだが。」 

人間は怠惰か勤勉か

 人間の本性は善か悪かという議論があるが、私は人間に本性というものはないと思う。怠惰か勤勉かという議論も同様である。基本的には、人間は環境によっていかようにも変わりうるのだと考えている。また、善悪というのは価値判断であって時代や社会によってその尺度が変化するものだから、そういう意味からも曖昧な議論になってしまうのであり、生産性がない。
 ただ、少し見方を変えてみると,勤勉さに似た要素を発見することができる。人間は猿に近い状態から今日に至るまで進化を続けたのだから、環境への順応性に優れていたと言えるわけであり、その性質を敢えて二者択一すれば怠惰よりは勤勉であるという解釈もありうる。環境に対し高度の順応性を示すためには、為すすべもなく立ち尽くすのではなく、積極的に自分を変えていこうとする意思を持たねばならない。そして、その意思の源泉になるものは欲望であったと考えられる。
 欲望とは言っても、いくつかの段階がある。人間に進化する以前から持っている自然の生理的欲望の次元があるし、人よりも優れていたいという競争的欲望があるし、人の役に立ちたいとか良い社会を作りたいとかいう道徳的、宗教的欲望もあるだろう。ここでとリ上げるべきは第一の欲望である。それは言い換えれば「生」への渇望である。それが、他の生物よりも強かったということなのだ。「生」への強い欲求が人間を進化させたし、社会の発展の原動力でさえ、個々人の生の再生産への欲求であると考えられる。
 以上のことから、「勤勉」という言葉は当たらないけれども、受身ではなく環境に対して自ら働きかける要素を人間の特長として見出すことができるだろう。

2010年4月 2日 (金)

生活感を感じさせる女性は嫌いだって・・・

 かつて私の知人が語ったことがある。職場で事務職のパートを採用することになり、面接を行った。そこでいくつか質問をするのだが、「お父さんが」どうのこうのとか「子どもが」どうのこうのとか言う女性が多いという。彼は、それが嫌いらしい。生活の匂いがする女性は、特に職場には入れたくないという気持らしい。
 確かに、仕事中にそんな話をされるのはやる気を削がれるかもしれないが、それも程度問題で、主婦なのだから多少は仕方あるまい。確かに、家庭のことは一切持ち込まない毅然とした態度の女性もいるにはいるが、パート社員には厳しい要求だと思う。これを聞いていて、知人は勘違いをしているのではないかと思った。あたかも、バーやクラブのホステスさんへの要求を聞いているようだ。そういう場所での生活臭はよくない。生活を忘れたいからそこへ行っているのだから、主人や子供の話題を持ち出すのはプロのやることではない。
 とか言っているが、私の数少ない経験においては、子どもの自慢話を聞かされたことがある。へえーとか、わざと感心して聞いていたのだが、聞いてやったらいくらかでもこちらに気持がなびいてくるかもしれないという下心がなかったとは言い切れない。しかし、基本的には面白くないのである。今振り返ってみると、比較的口数の少ない私に退屈して話し出したのかもしれないし、私が好みでなかったので嫌がらせで話した可能性がある。そういえば、シャツにわざと口紅を付けられたこともあった。家内に少しばかり疑われて困ったが、これも連れて行ってもらった先輩に言わせると嫌がらせだという。私は水商売の女性には好かれないタイプに違いない。

2010年4月 1日 (木)

苛立つ人びと 生活不安と関係ある?

 最近、自動車のドライバー同士が路上で怒鳴りあっていたり、ドライバーが自転車に乗った子どもに怒鳴っていたり、駅のホームでわめいてゴミ箱を蹴ったりしているおじさんを見かけたり、立て続けに苛立っている人びとを目撃した。
 こういう光景は昔からあるもので、特別取り上げることもないように思えるのだが、短期間に集中すると考えさせられてしまう。長く続く不況のなかで、「仕事が減る → 収入が減る → 支払いができない → 借金にも限度がある → 策が尽きる」といった形で精神的に追い込まれるケースが増えているのではないか。景気がよくて、その恩恵が幅広い層にもたらされていれば、いくらか気持にもゆとりが出て、カッときても「まあいいか」とやり過ごす場合も出てくるだろう。逆にイライラしていたら抑えが利かなくなるのも当然だ。私が目撃した数少ない事例で経済情勢と国民の心理状態を結びつけることには無理があるけれども、不況がいろいろな側面に影を落としていることは多くの人が認めるところであろう。
 じゃあどうしたらよいのかと問われると、ありきたりの答えしか用意できない。政府は、需要創造に対して効き目が大きくまとまりのある政策を実行すべきだし、産業構造の変化に対しては職業・職場の移動が個々の労働者に過度の負荷をもたらさないような制度的支援を行うべきだし、仕事がないと嘆く個人経営者や企業には自助努力も促さなくてはならない。とは言っても、どうしようもないと諦めているわけにはいかないし、事実皆努力しているのだから、社会を動かす「大きな力」の部分がどう変わるかが問題の焦点になるのである。

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »