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2010年3月 7日 (日)

主張の恣意性と客観性

 先日新聞を読んでいたら、ある学者の記事が目にとまった。見出しに、「政府の保護が厚い産業ほど成長率が低い」とある。時間がなかったので中身まで見なかったのだが、会社まで歩いている途中で、あれは本当だろうか、逆に成長が難しい産業に政府が保護を与えているのではなかろうかと考えた。おそらく、一方だけが正しいという議論ではなくて、どちらも言えるがどちらかが主であり、他方が従である関係にあるはずだ。私の推測では(あくまで荒っぽい推測である。私は研究者ではないからデータを持たない。)始まりは、成長は難しいが国民生活に必要な、あるいは他の理由で保護が必要だという判断で予算が付いたのであろう。そして、それが長く続くことにより、成長の機会が失われていった可能性が考えられる。
 中身を読んでいないので軽々には判断できないが、その学者の主張は、政府は経済への介入を極力抑え、産業界の自助努力に任せるべきだという、かつて小泉首相が主張した政策内容に近いのだと思う。学問というものは、客観的なデータに基づき真理を探究するのであるが、学び始めたばかりの学生ならいざ知らず、何年も何十年も研究している者ならすでに一定の結論を得ているだろうし、一々構築した理論の体系をリセットして白紙で研究を繰り返していたのでは死ぬまでに研究を終えることができない。したがって、建て前としては仮説を立てて進めるわけだが、それは次第に信念に近いものになってしまい、信念を補強するためのデータを収集し、ひとつの論理を組み立てていくことになる。
 とはいえ、あまりに恣意的であれば、それは政策とは呼べても、学問とは呼べない。データは一定の基準によって抽出され、条件を明示し、不利なデータを意図的に排除することを禁じなければならない。また、別の見方が可能であることも併記すべき場合があるだろう。主張にはいろいろな立場があってよいし、実際にいろいろある。政治的なものであれば、保守的な内容から革新的な内容まで千差万別だ。しかし、良質のものとそうでないものとの間の違いが重要で、質の悪いものは見るに堪えないというか、読むに堪えない。
 いずれにしても、研究者は短絡を避けるべきだし、読む側も短絡的な読みを避けるべきである。

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