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2010年2月 2日 (火)

「神の手」の不思議

 

 かつて神の手を持つといわれた考古学者がいた。彼の手にかかると、いとも簡単に石器が発見される。私が、こんな奇跡もあるのかと驚き、遠い過去の人々の暮らしに思いを巡らせたのは、同じ石材から切り取った一対の石器が数十キロ離れた別々の場所で発見されたというニュースを聞いたときだ。合わせてみるとぴったり接合したらしい。

 これがのちに、インチキだったことが分かる。比較的新しい石器を古い地層から掘り出したように見せかけたり、古い地層に自分で埋めて人に掘らせたりしていたのである。「あそこら辺りを掘ってみると出るんじゃないかな。」とか言って、実際に出てきたら預言者のようにもてはやされる。掘り当てた人もお手柄だから敢えて疑問を持とうとしない。
 よくよく考えればおかしな話なのだ。数十キロ離れた場所の石器がぴったり合うことなど確率的にありえない。確かに数十キロの範囲は一つの生活圏に入るだろうから、一対のものが離れ離れになり、土中で何万年もの時を過ごすことはありうる。しかし、人の手で、これだけの広い空間のなかで、時を同じくして掘り起こされて、発見され、接合する確率はゼロだと言ってよい。また、そんなことは想起もしないであろうから、それを合わせて見ようなどとは考えないはずだ。この流れを逆に辿れば、実にすっきりする。一対のものを同一人物が、別々の場所に埋めたのだ。明快である。
 こんなインチキがまかり通ってしまったのは、欲があるからだろう。研究者の欲、学会の欲、地域社会の欲、報道関係者の欲・・・。欲に固まった者が大勢集まったことによって、堂々と虚構が構築されたのだ。孤軍奮闘して批判に回った学者もいたようだが、容易に崩れなかった。
 学問は良心の上に築かれなければならない。考古学の世界が、発見された資料を証明するプロセスを定式化できていなかったことにも問題があるが、なかには本人の証言に頼らざるをえない事実もあるだろう。学問をするものは事実に対して謙虚であらねばならず、改ざんほど恥ずかしい行為はないという信念が必要だ。

 インチキ考古学者は、学問を辱めたのみならず、日本の歴史にも傷を残したのである。

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