« 体験的ボディビル論 | トップページ | 「変化」にこそ生きる証しがある »

2010年2月 6日 (土)

学ぶ順番、学ぶ時期

 小学校、中学校、高校、大学と連続的に学び、そのあとは就職して働き続けるのが一般的な人生の形である。基本的な形はあるにしても、学びたいときに学び、働きたいときに働ける柔軟性を社会が持つことができれば理想的だ。
 いったん社会に出てから、再び大学に入りなおして勉強する人が少数ではあるがいる。とは言っても、MBAを取得するためであったり、医者や弁護士になるという限られた目的のためである場合が多い。それはそれで否定すべきものではないが、もっと広く知的な好奇心、向学心に基づいた学び舎への復帰があってもいいのではなかろうか。
 若い時には、若い時なりの好奇心もあるが、経験の少なさ、視野の狭さがあって学問の面白さを判らずに学校を出てしまうことが多いのではないかと思う。現象の捉え方や解釈の仕方を学んでも、実際の社会に適応してみるという作業は、ケーススタディとしていくらかは経験するが絶対量が不足している。それが、学問的な興味を失わなければ、仕事についてからいろいろなことを経験して理論の正しさあるいは有効性を知ることもあろうし、逆にその間違いや無効性に気がつくこともある。
 だから生き方として、学問→仕事→学問というコースがあってもいいと思うのだ。確かに、結婚し子どもができれば家庭を守らなければならないので学問どころではない。そんなことを言い出したら、あなたは馬鹿ではないかと言われるのが落ちであろう。しかし、社会人の知的好奇心が場合によっては社会に富を生み出す力になることもある。学問は、仕事のように直接利益を生み出さないので評価は難しいが、例えば学問の企画書を研究機関に提出して有益と認められた場合には、政府から研究費全額と生活費の一部が補助として支給されるようにしたらどうだろうか。それが、企業と研究機関とでの人材の循環につながるように思う。

 私は聴講生として特定の講義に出てみたい気はあるものの学生に戻ろうとは思わない。50歳も過ぎるとさすがにきついし、会社での責任も重い。しかし、学問に対する興味は学生時代以上のものがある。それは少しずつでも本を読んできたからであり、社会のいろいろな現象に触れて、現実を理解し、理解するときに学問の成果を少しばかり使ったからである。人生の残りが少なくなった。今更勉強して何になるかと思う人もいるだろうが、今まで分からなかったことが分かるようになって死んでいければ、よりよい人生であったと納得ができる。

« 体験的ボディビル論 | トップページ | 「変化」にこそ生きる証しがある »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 体験的ボディビル論 | トップページ | 「変化」にこそ生きる証しがある »