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2010年1月の投稿

2010年1月30日 (土)

加藤周一氏の講演(東京大学にて)

 加藤氏は生前、九条の会で、改憲への動きを抑えるために活動しておられた。東京大学での講演もその活動の一環であったろう。憲法の精神と意義、改憲に向けた一連の動きとその危険性などを語っている。面白いのは、講演の演題にもなっている、学生と老人の連帯の主張である。日本人は概して集団への志向の強い国民であり、その言動が集団から強い拘束を受けているが、大学生はまだ企業や役所に入る手前にあり老人は定年で集団からの拘束を脱している。比較的自由に思考し、行動できる世代なので、ここが連帯すれば大きな勢力になりうるのではないかという提案であった。可能性はあると思う。しかし、条件があるとしても、改憲阻止に動くとは限らない。地道に連帯の場、ネットワークを作っていかなければならないだろう。

 ぜひ、講演の中身を聴いていただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=y_h1SI5x3VM&feature=related

プロ論

 プロとは、特別な能力や技術を身につけており、そのことでお金を稼げる人のことを言う。加えて、その能力や技術に自負を持っており、お金をもらう仕事に対しては決して手を抜かないのがプロの特長である。
 美空ひばりは文字通りプロの歌い手だった。歌の技量が飛びぬけて高いことがその最大の根拠であるが、お客様に質の高い芸を披露することにかける意思と意欲の強さは他の追随を許さなかった。残念ながら生で歌を聴くことができなかったが、生前はテレビで、逝ってからは残された映像でその素晴らしい歌唱を聴くことができた。晩年は肝炎等の病気に苦しんだが、点滴を受けながらでも舞台ではシャンとして歌い切り、楽屋に戻ってまた倒れたという逸話が残されている。お客様の前では無様な姿を見せられないのがプロなのである。
 他の分野でプロの中のプロと言える人物がいるだろうか。野球では王貞治とイチローを上げたい。ともにプレーに対するひたむきさが半端ではない。自分の限られた才能と時間を野球以外のことにはほとんど使わず、ひとつの道に打ちこんでいる姿が凛々しい。自分にはできないことだけに尊敬の念を抱く。
 そのほか、伝統芸能や工芸の世界にも素晴らしいプロがいると思うし、実業の世界にもいる。それぞれに、才能があり、個性があり、信念がある。人間というものは極めれば凄いことができるのだと感心することがあるが、プロは皆そういう道を選んでいる。それは、選択と引き換えに、大きな犠牲をも選んだことになるのだ。

 何かを手に入れることのできる人間は、何かを捨てることのできた人間である。

2010年1月26日 (火)

人間を大きくするもの

 自分のためだけに生きることよりも、人のため社会のために生きることはずっと難しい。

 生存競争が厳しいという理由で自分の利益を優先すると、かえって人生の前途をふさぐことになる。視野の狭い人間は人から学ぶ機会を喪失し、人に育てられるというこの上ない幸運を逃すことになる。
 人のため、社会のために生きようと努める人間(それでも決して思ったとおりにはならないのだが)は、ものを見るときにより広く捉えようとするだろう。何かを言葉で表現するときにより多くの人を考慮に入れようとするだろう。そして行動するときには、その結果が社会へおよぼす影響を考えるようになるだろう。そうやって、一歩一歩前進し、成長を遂げることができる。
 きれいごとではなく、本気で人のため社会のために生きることは、易いことではない。しかし、その道は人間を大きくし、人から賞賛を受け、最も大きな喜びを受けることのできる黄金の道である。

アラファイ世代の逆襲

 30歳前後をアラサーと呼び、40歳前後をアラフォーと呼ぶ。50歳前後をアラファイと呼び、60歳前後をアラカンと呼ぶ。アラサーとアラフォーはよく使われる言葉だが、アラファイはアラカンよりも聞かない言葉である。語呂が悪いという理由意外にも、なにか訳がありそうである。この私自身がアラファイなので気にかかるのである。
 私の世代にも元気な人はおり、各界で活躍しているが、全体で見たら先を行くアラカン世代に比べても元気がないのではなかろうか。それはなぜか。アラファイ世代は、経済の高度成長期とともに育ってきた。非常に恵まれた時期に生きたと言える。夢を見ることができたし、遊ぶこともできたのである。それは良い面だが、やさしさだけが目立ち、逆にいい意味でのしたたかさは身に付かなかった。そしてこの世代を待ち受けていたのはバブル経済の崩壊だった。ちょうどそのころ子育ての時期にあたり、家族の暖かさを知っているがゆえにマイホームへの憧れの強かったわれわれはこぞって家を買い求めた。ところが、だ。
 高い買い物をして、大きな借金を抱え込んだ。所得は伸び悩んだ。不動産価格が下落したために売って負債をなくし、やり直すこともできない。いわば、がんじがらめの状態になり、ひたすら借金を返すために働き続けるのである。ここに、未来に対する希望を見出すことができるだろうか。元気がなくなるのもうなずけるのである。
 しかし、岡林信康ではないけれど、私たちの望むものは、生きる喜びなのである。負債は返さなければならないが、その先に残りの人生を安心して暮らせる世の中を見出したい。われわれこそ最も世の中を変えたい動機を持つ世代であって、変革の原動力となりうる世代なのである。

2010年1月24日 (日)

生活を豊かにする知恵

 日本人は生活を豊かにする知恵に長けた民族であったように思う。おせち料理を作り、初詣でをして正月を祝うことから始まり、季節の節目や人生の節目にお祝い事を設け、血縁者、地縁者で楽しむ。お花見があったり、祭りがあったり、地域で共同作業を行えばそのあとに酒宴を設けて労をねぎらう。そういう形で、生活の中に楽しみを作り出してきた。
 それができたのは、地理的条件から気候に恵まれ、自然の変化が鮮明であり、食物にも比較的恵まれていたという背景があるからだろう。また稲作を中心とする農耕民族であったために地域の共同性を保持するための工夫であったのかもしれない。しかし、それだけではすべてを説明することはできないだろう。そこには、日本人ならではの知恵があったのではないかと思う。それが、生活の豊かさを醸成する力にもなっていたのである。
 産業が急速に発達し、地域社会が変貌し、欧米の文化が浸透した。生活の形が変わり、先ほど触れた生活の楽しみ方も姿を消しつつある。おせち料理も徐々に作らなくなり、できたものを買ってくるようになった。暮れに忙しく働く母親の姿から、家族を守る役目と愛情を感じ取る機会が生れたかもしれない。そんなことを通じて家族の紐帯は育まれていたのではないか。それに対し、最近では楽しみが個人的なものになってしまった。それぞれが趣味を持ち、ゴルフに出かけたり、映画を見に行ったりして、集団的な行動をとらなくなった。当人にとっては、それはそれで楽しいのだろうが、豊かさという意味では進歩ではなく、退歩なのではないかという疑問が差し挟む。豊かさとは、単に物がたくさんあるという状態ではないだろう。気温・湿度の点で快適な住宅に住むことを意味するのでもないだろう。豊かさには、生活の楽しみを、より多くの人と共有するという意味が含まれているのではないだろうか。そう考えると、現在人は生活を豊かにする知恵を急速に失いつつあると言わざるをえない。

「高級魚離れ」から考える

 最近、新聞で「~離れ」という表現を時々見かける。最近では、「高級魚離れ」という言葉を目にした。また、「百貨店離れ」というのもあった。これは国民大衆の行動変化を言い表わしたもので、なかでも消費行動の変化について言われることが多い。ちなみに、高級魚離れについては、例年暮れにはまぐろへの需要が大きくなり値上がりするのだが、仕入れを増やした割には売れ行きが悪くて値下がりしているとの報道があった。百貨店離れはここ数年続いている百貨店の売上減少を指している。
 この「~離れ」について考えてみると、環境とくに経済環境の変化によって否応なしにそうなっているものと、意識的意図的に製品やサービスの供給者が動かしているものがあるように思う。また前者においても短期的変化と長期的な変化とがある。バブル経済の崩壊によって経済活動が一気に縮小し、所得は伸び悩みあるいは減少、消費が低迷し、長期的なデフレ状態になった。このプロセスで起こっている変化が長期的な変化である。そして、サブプライムローン問題およびリーマンショック以降の追い打ちをかけるような景気悪化に伴うものが短期的変化である。明確に線を引きづらいところはあるが、近年特に強く傾向が出ている現象は後者に当たるだろう。質も気にはかけつつも、とにかく安いものを求める傾向は顕著で、安いスーツが飛ぶように売れたり、ユニクロが驚異的な伸びを示したり、食品スーパーが安いPB商品の品ぞろえを強化したりする動きは、これまでの常識的な感覚からすれば少々やりすぎではないかと思われるほどだ。
 さてもとに戻り、はっきり供給側が動かしている変化としては、家電や自動車の事例がある。ブラウン管テレビから薄型テレビへの変化は、技術革新を力に製品開発が進み、一気に入れ替わって行った。(我が家はまだブラウン管テレビである。)また各社のシェアに大きな変化があったことも承知のことであろう。自動車の業界も同じで、エコカーへの流れが加速し、ここでもシェアの劇的な変化が起こる可能性が大だ。パソコンの小型化と低価格化も同様である。
 こう見てくると、意図しようがしまいが、大きな流れとしては所得減少とデフレの流れがあって、将来の所得も増えないだろうという悲観(思い込みと言うより、かなり確かな予想)が追い打ちをかけてその流れを強化している。基本的には企業が活況を呈さない限り経済のよい循環は生まれないので、環境への長期的視点も含めてイノベーションを進め、医療や介護などの分野での産業育成を行い、雇用を増やし、全体の国民所得を増大させるビジョンが必要になる。誰もが言っている、当たり前のことだが、学問的成果も取り入れて整合性のとれた、国際関係も踏まえた戦略的ビジョンを持つべきだと思う。

2010年1月23日 (土)

速読は何のため

 新聞にときどき速読法の広告が載っている。そこにはトレーニングを経験した人の喜びの声が紹介されており、それによると、始める前の何倍も何十倍も速くなっているそうだ。それは嘘ではないのだろう。しかし、それがどれほどの意味をもつのだろうか。
 わたしは、読むのは速い方ではない。また、速く読みたいとも思わない。わたしの職業がたくさんの情報を頭に入れる必要のあるものだったら事情が違うのかもしれないが、特別焦って知識を着けたいと思う理由はないのである。それよりも私は深く読みたい。深く読む必要のある本を選んでいると言った方がよいかもしれない。
 哲学の本などは、その意味を理解するのが容易ではない。そもそもスラスラ読むような本ではないのである。速く読もうとしたら、返って意味を失う。文学の場合は、推理小説などの読み物は速く読めればよいかもしれないが、純文学はじっくり読みたい。歴史や社会に関する本は、個々の断片的な知識よりも現象をトータルに理解することが重要であり、そういう見方を身につけるためには、個々の事象のつながりを深く考える時間が要る。
 一週間に10冊の本を読んでしまうことよりも、1冊でいいから、新しいものの見方を会得するとか、仕事に役立つ手法を身につけるとかの、確実な成果がほしい。求めるものは、繰り返すが、速さではなく理解の深さなのであり、速さが深さを阻害する場合もあることを知るべきだ。

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文化が作り出した「悪魔」

 テレビで、悪魔に取り付かれた欧州の少女の話をしていた。もともと癲癇をもっていたのだが、あるときからそれが極度にひどくなり、薬では抑えきれなくなった。医者は、病気だと診断していたが、実は悪魔に取り付かれており、悪魔払いのできる神父を呼んで対処した。すると6人の悪魔が少女を通じて現れ、祈祷の結果追い払われたというのだ。そのなかにはアドルフ・ヒットラーが含まれていた。
 ビデオはあたかもそれが事実の様に描かれていたが、番組に出演していた人達は意外に冷静で、魔女を信じる因習がいかに危険かを指摘していた。異常な言動をとる人がいると、その人が口走った言葉が当人ではなく悪魔から発せられたものとして受け取られる。そしてそのなかに、近くに住む実在の人物がいると、それが悪魔だと思われ、ひどい場合には処刑されることになる。魔女狩りと呼ばれる集団行動を招くことになるのである。科学的知見の遅れがそういう事態を招くのだが、そういうことは徐々に克服されつつあるという見解だった。

 悪魔という観念は、キリスト教文化のなかで作り出されたものであって、その文化圏に住む人々に共有された幻想である。だからアジアに住む人達にはこの観念は共有されていない。そこにはまた、そこの文化に根差した迷信なり幻想なりが作り出されており、それはそれでまた克服されるべき因習として残っているものがある。こういうものについて研究したわけではないので深くは知らないが、テレビを見ていて不思議に思ったのは、悪魔として出てくるのが過去の人間であり、しかもすべてが同じ言語をしゃべる西欧人であり、しかもすべての人が歴史上名を知られた人物だったことだ。なぜ、そういう人だけが悪魔になるのか。いかにも人間が作り上げた話ではないか。客観的な、自然的な現象ではない。おそらく、狂った少女を起点として発生した集団催眠のような現象ではないだろうか。たしかに、そういう現象は起こりうるので、そういう意味において怖さを感じる。

「つんどく」の効用

 本は、平均的な社会人に比べてたくさん買い、たくさん読んでいるだろう。出版物の市場は9千億円程度らしいので、大人一人当たりの年間購入高は1万円ほどになる。私の場合は、月に5千円ぐらい買うから、年に5~6万円というところだ。
 今、身の回りの本棚に並べてあるだけでも300冊前後あるだろう。そのほか、段ボール箱に入れて保管してあるもの、田舎の蔵に押し込んでいる分も合わせると倍以上になる。なかには全集もあったりして、随分金を使ったものだと思う。しかし、大抵の人がそうだと思うが、すべて読了済みとはいうわけにはいかない。勉強しようと思い立って買ってきたはいいが、やる気が続かずとん挫するものもあるし、興味は湧いたがしばらく寝かせておくうちに冷めてしまうものもある。そうこうして、「つんどく」だけの本が増えていくのだが、それがすべて無駄かと言えばそうではないのである。
 休日などに時間ができると本棚に目が行く。背表紙のタイトルを見ると、そこからいろいろは発想が浮かぶ。読んだ本であれば、どういう内容だったか思い出す場合もあるし、すっかり忘れている場合もある。未読のものであれば、どういう時にどういう目的で買ったのか、その時の興味はなんだったかと思いを馳せることもある。ビジネス関係の書であれば、これも勉強しておくべきかと改めて考えさせられる。
 このように考えるきっかけを与えられたり、啓発を受けたりする。何もなければ漫然と過ごす時間に、いくらかでも中身が加えられるのだ。それだけでも価値があるというものだ。
 哲学書を手元におけば、一瞬でも哲学者になれる。

本人を超える

 「カバー」と言って、流行歌を、ヒットした歌手とは別の歌い手がシングルで売り出したり、アルバムに入れることがある。たまに元の曲に並ぶぐらいに売れることもあるが、大抵はアルバムのなかでじっくりと聴かれることになる。
 上手い歌手にかかると元の歌手より上手に歌ってしまう場合がある。曲の善し悪しは、上手さだけでは決まらないが、本人を上回る作品になる例が時々見られる。たとえば、上手い歌手の代表例として森昌子を取り上げてみると、彼女もこれまでのヒット曲をコンサートで歌ったり、アルバムに入れたりしている。曲の範囲は演歌、歌謡曲、フォークソング、唱歌など非常に幅広い。そしてそれぞれを巧みに歌いこなしている。最近聴いた曲では、西島三重子の「池上線」が元歌を超えている。たしかに、元歌もヒット曲だからできはいいのだが、池上線は森昌子の繊細な歌声が曲によく合っているし、歌唱そのもののレベルが高い。
 逆に、いくら上手くても本人には及ばない場合がある。森昌子の歌う美空ひばりは文句の付けようがないほど素晴らしいが、美空を超えることはできない。美空が大きすぎるからだ。それは上手さだけではない、存在感の大きさだろう。美空が、森の上手さに一目を置いていたという事実があるにしても、その関係は崩しようがないのである。他では、大川栄策の「さざんかの宿」は、森昌子よりも本人の歌が勝っている。大川が上手いということもあるが、歌詞が女の立場で書かれているものの、かなり艶めかしい内容なので、女性が歌うと生々しく聞こえるのだ。だから男性がつやっぽく歌うことで、ちょうどよい具合に聴けるのである。

 森昌子は「歌真似」でも怖いほどの才能を発揮した。歌が上手いということは大きな武器である。たとえ真似の部分が目立たなくても、歌の部分で聴かせてしまうからである。

2010年1月17日 (日)

DVDソフトの価格

 先週の週末、梅田に出かけた。もっとも多く立ち寄るところは書店で、曽根崎の旭屋か堂島のジュンク堂に行く。紀伊国屋は混雑するから好きではない。書店以外では、家電の量販店か雑貨品の量販店だ。買うことが目的の場合もあるが、どういう商品が売られているか、売れているかを見るのも楽しい。
 ところで、先週はロフトへ行った帰りに阪急三番街を通ると、中古CDフェアというのをやっていた。好みのものがあったら買ってみようと思い、そのコーナーに向かったが、ワゴンにたくさん並べてあって結構な量だった。ジャズやクラシックのワゴンのなかを一枚ずつチェックして、ジャズのCDを一枚選んだ。それから、別のワゴンへ進むとDVDが並べてある。それは中古ではなく、韓国からの逆輸入DVDだった。黒沢明の作品も含まれており、そこに興味を持った。肝心なのは値段であるが、980円の値札が付いている。これまでに購入した黒沢映画のDVDは定価で3,980円であり、値引きがあっても3千円は下らない。それに比べると随分安い。ハングルの字幕が付いているのは少々難があるが、日本語でしゃべっているのだから気にしなければ何ということはない。「野良犬」と「隠し砦の三悪人」の2枚を購入した。
 それにしてもどうしてこの値段で販売できるのだろうか。ソフトの製造コストなどしれたものだから、価格の大半は著作権に対する対価なのだろう。そうすると、この逆輸入ソフトが非合法の海賊版でないとすれば、海外では自ら著作権の安売りをしていることになる。なぜ、国内とこんな大きな差があるのだろうか。
 韓国における消費者の購買力に係る要素があるにしても、おそらく、黒沢の価値が違うのであろう。価値が小さければ需要も弱くなるわけだ。本来ならば、物には原価というものがあって、投げ売りに至らぬ限り、それを割って販売することはない。ところが、こういうソフトは原価が小さいものだから、いくらでも下がってしまうのではないかと思われる。

2010年1月15日 (金)

職場は人生の礎

 先日テレビで、「直葬」という死者の葬り方が増えてきたと報じていた。葬式をしないで直接火葬だけを行うのである。その背景にはいくつかの社会的な背景がある。その中のひとつは、人間同士の紐帯の喪失である。
 ある男性は57歳で孤独死し、辛うじて友人に発見され直葬で送られた。景気のよい時期は建設現場での仕事もたくさんあり、生活に十分な稼ぎもあったが、景気の悪化で働く場を失った。亡くなった時には、所持金は数百円だったそうだ。職場を失うということは、人との付きあいをなくすことである。友人があれば、あるいは仕事を通じて会話を交わす相手がいれば、困ったときに助けてもらえる可能性はある。
 最近つくづく思うのは、人間どういう職業を選び、どういう職場に勤めるかによって人生を左右されるということだ。私はたまたま良い職場に恵まれ、ギスギスした人間関係や待遇の悪さに忍従するという苦痛を味わうことなく生活を送れている。これはありがたい話だ。おかげて、こういった問題について考える余裕も残せるのである。恵まれた環境に感謝すると共に、それも今のような変化の激しい社会ではいつ無くなってしまうかもしれない危うさを知り、職場の維持発展に努めなければならない。また、同じ努めるのであれば、自分の仕事が社会の役に立つことを信じていたいものである。
 朝礼で、二十名ほどを前に、上記と同じ内容の話をしたが、どれだけ共感してもらえただろうか。

2010年1月11日 (月)

逆は必ずしも真ならず

 新聞にある本の広告が載っていて、その宣伝の文句に、「よくできる人は、かならず机の上が片付いている」とあった。確か、整理整頓の仕方を説いた本だったと思う。仕事のできることと書類の整理整頓ができていることにはかなり強い相関がありそうだ。だから間違ったことを書いていない。ところが、机の上を片付けたら仕事ができるようになるわけではない。片付けられる人の集団に仕事のできる人の大半が含まれているにすぎない。逆は正しいとは限らない。この宣伝文句にひっかかると、本を読んで整理整頓に心がければ仕事ができるようになると錯覚してしまうだろう。
 仕事のできる人は、何といっても段取り上手である。段取りを組むためには、筋道を付けて考えることが必要で、論理的な思考力が必要だ。加えて、自分が所属する組織を動かすには調整力が欠かせないし、外部の人や組織を動かすには交渉力が要求される。他にもたくさんの要素があるのだろうが、そういう仕事の仕方の身に付いている人は、自ずと整理整頓できる人になっていくのだと思う。したがって、原因ではなくて、結果として捉える方が正しそうである。こういうこと、すなわち原因と結果の取り違えの例は世の中に五万とある。
 その程度の間違いで、大きな失敗を招くことはないだろうが、よく考えるという習慣は身に付けたいものだ。うっかりとうまい話に乗ってしまい、騙される恐れは、身の回りに結構ありそうであるから。

2010年1月10日 (日)

ミシェル・ペトルチアーニ

 休日の楽しみとして、YouTubeで音楽を聴いている。最初は、もっとも得意とするところである、昭和40年代から50年代前半にかけての歌謡曲、演歌、フォークソングを中心に聴いていた。そのうち、それも少し飽きると、クラシックやジャズも聴いてみようということになった。はじめは、誰でも知っているような曲から入り、少しずつ幅を広げているが、まだほんの初心者である。
 クラシックでは、ピアノやギターの独奏が中心になる。もちろん、交響曲に聴きごたえのある作品が多いのだが、YouTubeは10分程度に刻まれてしまうので聴きにくいのである。そこで勢い、一本で完結する小品を選ぶようになってしまうのだ。ピアノはショパンの曲が多い。これはショパンがいいという先入観があるからだろうが、知らないからとりあえず有名なところから聴き始めただけのことである。そしてピアノつながりでピアノの協奏曲も目に留まるようになり、チャイコフスキーの1番とラフマニロフの2番がいいというような感想を持つようになった。
 ジャズもピアノが好きで、きっかけはキース・ジャレットだったのだが、もっと古い人の曲を聴くようになった。デューク・エリントン、ビル・エバンス、ビリー・テイラーなど。そして、検索しているうちに、ペトルチアーニに行き当たった。印象は、曲よりも、その姿に集中する。ウィキペディアによると、彼は1962年にフランスで生れたが、先天性の骨形成不全症で体の発達が順調でなく、身長は1メートルほどにしか達しなかった。また骨がもろいために運動ができず、音楽にエネルギーを注ぐことになった。そして一流のジャズピアニストになったのであるが、音楽的な才能に恵まれたことに加えて、骨不全のなかにあっても腕と手だけはピアノを弾ける範囲まで成長したことが幸いしたと書かれてあった。
 残念ながら、1999年に36歳の若さで亡くなったそうである。演奏は実に軽やかで、素人の私でも素晴らしいと思うぐらいだから、相当評価が高かったに違いない。盲目のピアニストは世界に何人かいて、彼らも素晴らしいが、ペトルチアーニを見ていると、目が見えないこと以上のハンデを持ちながらも、それを物ともせず突っ走った感じがする。

2010年1月 9日 (土)

居酒屋「すなおや」

 昨晩、職場の仲間二人と連れ立って、会社近くの居酒屋に飲みに行った。「すなおや」という店で、以前何度か店の前を通ったときに、よく流行っているなと思っていた。
 流行るには訳がある。また、流行らないのにも訳がある。私の勤務先は、サービス業を営んでいるのではないが、顧客の多くの部分を飲食業が占めているので、繁盛の秘訣には興味関心をそそられる。店の作りはレトロっぽく落ち着いている。店員は他のチェーン店と同様に若い人が多く、大半がアルバイトに違いない。皆、声に元気があって気持ちがよい。注文をすると、「喜んで!」と答える。これも元気があるから気持ちよく響くのであって、ぼそぼそと言うと返って不快に聞こえる。だから声を出さざるをえなくなる。ひとつの仕掛けなのだと思う。
 最初の熱いおしぼりはありがたいが、すなおやは途中でもう一度出してくれた。これは希有のサービスである。一服し、さあもう少し飲もうかという気にさせる。それから、トイレに行こうと立ちあがると案内してくれる。誰かが使用中であるとその旨を伝えてくれる。お客に余計な気遣いをさせないサービスだ。高級店ならいさしらず、居酒屋ではあまり見ない接客である。最後、店を出るときに炊き込みご飯のおにぎりまでくれた。しかも、勘定をして、店を出たところで渡す。ここまでやるかのサービスである。意識的な演出か・・・おそらく演出だろう。普通は金を払ったらおしまいなのだが、そのあとのアクションは次の来店につながる。こういうアイデアは、オーナーの知恵か、企画担当の考えることか、店員のアイデアかは判らないが、ここにとどまらず不断にサービスの在り方を考えておればすたれることはないだろう。

 流行る店には仕掛けがある。その仕掛けは経営の哲学に基づいている。

 

2010年1月 4日 (月)

UFOあるいは心霊現象など

 お盆の休暇や年末年始の休暇になると、UFOや心霊現象を扱った特番が決まって放映される。ある程度の視聴率が稼げるから番組を組むのだろう。定期的に制作するのはそういう判断があるからだ。
 番組のなかでもUFOや心霊現象があるのかどうか議論され、そのやりとりが一つの見せ物になっている。あると思って見ている人も、ないと思って見ている人も、どちらもそれが面白いに違いない。私は、あまり興味がないのでそういう番組が目に留まってもすぐに切り替えてしまう。したがって、議論の詳しい中身は知らない。しかし、それは面白く見せるために演出されたものであり、人選からしてそういう意図を持ったものである。
 ところでUFOや心霊現象は確かに存在するのだろうか。まず心霊現象だが、よく取り上げられている心霊写真というものを考えると、どうも怪しい気がする。というのはフィルムを使った写真にしてもデジタルカメラにしても光を通して物体を写すものであり、そこに物体とは違う霊なるものが捉えられていること自体が矛盾していると思う。霊とは、その存在を信じる者の定義に従うとしても、物質とは違った、あるいは物質を超越したものであって、技術的に一定の制約を受けた機械に捉えられるような陳腐なものではないはずだ。霊が写真に写るという発想自体が極めて人間的で世俗的なものに思えて仕方がない。簡単に言えば、作り話ではないかと思うのである。
 霊的な現象を体験したという人の話を何度か雑誌で読んだことがある。これをすべて否定しようとは思わない。その人の意識のなかで、そのような感覚を得たのは事実なのだろう。そう信じている人に向かって、それは錯覚だと言っても反駁にはなりえない。その人のなかで起こった心的現象であって、嘘であるとは言えない。しかし、かといって、外部で起こった客観的な現象ではないから、一般化して説明することはできない。そういうものであろう。

 UFOについて言うと、それは無いとは言い切れない。宇宙に人類をはるかに超える能力を持った何かがある可能性は否定できない。それは、生物というようなものの次元を超えたものかもしれない。いずれにしても、あるとすれば、想像を絶する遠い距離から地球に至ったということであり、人類では太刀打ちできないような力を持っているということだ。しかし、そういう前提に立ったとしても、この広大な宇宙空間でたまたま地球に到着するということはあまりに奇跡的なことに思えて仕方がない。
 雑誌で宇宙人の写真も紹介されるが、その姿は非常に人間に似ていて、人間の想像力の域を出ていない。これは作りものなのだろう。先ほども言ったように、あるとすればわれわれの想像を絶する存在であろう。認識さえできないような代物かもしれない。

松本清張を読む

 休暇中に松本清張の短編を少し読んだ。清張の作品は学生時代にたくさん読み、その後は時折、思い出したように文庫本を購入して読んでいる。蔵書は今は住んでいない家に置き去りにしているものが多く、過去に読んだものを重複して買っている可能性もある。二十年も三十年も経つと、話の内容はおろかタイトルさえも忘れてしまうものだ。特に推理小説の場合は、森村誠一や佐野洋らの作品が頭のなかで入り混じり、整理整頓ができていない。読んで楽しむのが目的なので、そうなるのが当然であろう。
 今回読んだ作品のなかに「黒地の絵」と「真贋の森」がある。後者は清張作品のなかでも代表作として上げられるもので、三十年前に読んだもののなかの一つである。前者も読んでいる可能性がある。話の内容には細かく立ち入らないが、読後感はあまりよろしくない。重々しい空気が心に沈澱して、しばし身動きができなくなる感じがある。清張が書いているのは、個々の人間にはどうすることもできない世の中の不条理(制度であったり、因習であったり、権威であったり、権力であったりする)である。そのなかで、よくもまあ人間がこれだけ悪く描けるなあと感心する。もちろん、すべてではないが、犯罪を中心にストーリーが展開するので悪い人間が出てくるのは当たり前なのだが、よくこんな悪事を考えるものだと思う。そこが社会派推理小説という分野を確立させたと評される作家の真骨頂だろうか。
 人間は、状況・条件次第でいくらでも悪くなりうるという警鐘を受け取る。私は、人間の本性が悪であるという立場には立たない。しかし、条件次第でいくらでも変わりうる、移ろいやすい存在であり、それだからこそ自分の生き方を処する基準・原則を持たねばならないし、生活諸条件の改善に努めるべきであるし、ひろく自らが生きる社会の変革にも手を染めなければならない。
 清張の社会に対する様々な告発は尋常ではない。恨みあるいは呪いのようなものだろうか。ある意味、彼の感覚はまともではない。それが、少年時代、青年時代の不遇からくるものと説明をつけるのは短絡的かもしれないが、一般的に権威や権力に対して批判的な思想を持つことは多々あるにしても、これだけの執拗さを持続できるのは、個人的な体験に裏打ちされていなければ考えられないことである。

新春の寄席中継

 正月恒例の寄席のテレビ中継を見る。NHKの生中継である。民放のお笑い番組は大半がスタジオ収録の録画番組であり、出演する芸人は今流行りの若手芸人ばかりである。それはそれで面白いが、今後何年も続くものではないだろうし、続いたにせよ、相当メンバーが入れ替わっているに違いない。彼らの話はあまりにネタに依存しており、次々にネタを入れ替えないと飽きられる運命にある。
 ところでNHKの寄席中継を一部だけ見たが、こういう時にしか見られないケーシー高峰や売れなくなったテツ&トモが出演していた。ケーシーは齢がいったせいか、しゃべりに切れ味がなく、ネタも今一つだった。また、あの毒舌が聞けると思ったが、期待外れだった。テツ&トモは相変わらず賑やかで、こういう芸はしょっちゅう見るには耐えないが、お正月にはもってこいである。いわば、平成の染之助・染太郎というところか。
 他では、爆笑問題の漫才を久しぶりに聞いた。政治ネタだったが、相変わらずの言いたい放題で、鳩山首相や民主党政権への批判がたくさん盛り込まれている。他愛のないものが多いが、献金の偽装問題などは視聴者にいくらか影響を与えうるものだ。政権に対して辛口であることは、お笑いの基本であり、それが守られていることはある意味健全である。これが、民主党万歳のような漫才が横行するようだと心配になるのだが。
 おまけで、桂歌丸について。色もの主体の新春寄席で、場が悪かったこともあるが、あまりいい出来ではなかった。本来の寄席で、時間をかけてじっくり噺をさせるともっと味が出るに違いないが、DVDやネットで圓生や馬生を好んで聴いている私には、芸に差があると感じてしまった。

箱根駅伝テレビ観戦

 正月と言えば箱根駅伝というぐらいに無くてはならないものになっている。お墓参りや初詣は元日に済ませ、2日と3日はこたつに足を突っ込み、時々うたた寝をしながらテレビ中継に見入る。往復200km以上も走るので中継時間は長く、正直言って復路は飽きが来る。テレビはつけたままにして、こたつを抜け出し他のことをしながらたまに順位の確認をするという観方に変わってくるのだ。
 ところで、今回は東洋大学の2連覇で幕を閉じた。新聞等で解説されているとおりで、5区の柏原の快走が断然輝いており、それが東洋の勝利の決め手になっている。彼は区間を77分で走っている。テレビの記録を見ていると、84分程度が平均的な記録だから7分も早く走る。4区までトップだった明治の選手が87分かかったから逆転するのは当然である。この結果を受けて、5区の成績があまりに勝敗を左右しすぎるという議論が起こっているようだ。4区までいくら差を広げても、5区に力のある選手が配置されるとあっさり逆転をされてしまうというのだ。結果はたしかにそうなっている。しかし、性急にルールを変えるのはいかがなものか。
 スポーツに限らず、競争はルールがあって初めて成り立つ。そして、ルールの組み方によって結果は変わってくる。よく一番強い格闘技はなにかという議論があるが、前提となるルールの違うものどうしを比較することはできない。中立的なルールなどありえないから、戦わせること自体が無意味だ。アリと猪木の試合は見るも無残な内容になった。ルールなしで戦わせれば、単なる「けんか」である。
 東洋大学が勝ったのは、柏原という秀逸なる走者がいたからに違いないが、彼のような選手はまれであり、たまたま出現しただけである。あまりに力の差があると文句を言いたくなる。高校時代の松阪と対戦した元高校球児が語っていたが、高速スライダーを投げられると全く手が出ず、こんな球を投げるのは反則ではないかと思ったそうだ。たしかにあの球は高校生では打てないし、プロでもほとんどの打者がついていけないだろう。だからと言って投げることを禁ずるわけにもいかない。ルール変更の理由は、そのような特殊で限定的なものではなく、もっと幅広く起こっている現象に対する対応でなければならない。
 勝手なことを言わせてもらえれば、区間の変更よりも、往路だけにしてしまえばどうだろうか。そのことを前提に区間を細かく区切ればよい。中継地点の確保が難しいという問題があると聞いているが、それよりも2日間も交通規制を敷く方が社会への影響が大きいように思われる。

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