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2009年12月12日 (土)

どこから、どこに向かって、ものを言うか

 自分がどういう立場に立って意見を言っているか、意識している人は少ないだろう。自覚的な人は、ある意味党派的な人間である。多くの人は、立場とかそういうものは考えに入れず、ただ思ったことを口にするのである。
 自分の主張をどこに向けるかという意識は、これまた多くの人には希薄であろう。その主張の意図はどうであれ、中身から判断すれば、政権に向かうべきものであったり、企業の経営者に向かうべきものであったり、労働者に向かうべきものであったりする。そのことがはっきりと自覚できているならば、やはり幾分かでも党派性を持った人間であるだろう。
 政治家はもちろん自分の政治的立場を自覚している。(まれに明確でなく、発言に全く統一性の欠いた人も見なくはないが。)また、議論する場合も敵味方がはっきりしているから、相手を特定した発言になるだろう。知識人は、自らを知識人と規定して発言を行う。知識人というのは特定の職業に属するのでもなく、特定の階層にしか存在しないものでもない。知識人とは自らそう自覚した人間を言うのであり、しかも、自惚れと言うよりは責任感がそうさせるのである。元に戻り、知識人の発言は自覚的である。そして、発言の相手は多くの場合、一般大衆であるだろうし、時には一般大衆と対立する権力者や経営者に向かうこともあるだろう。
 同じ人間でも、相手によって発言が正反対に変わる場合もある。これは移り気だとかいう曖昧な問題ではなく、きっちり説明がつく問題である。例えば、失業者の境遇を改善するために彼らを束ねて運動を進めているリーダーの場合、組織の外に対しては、失業者を徹底的にかばう発言を行う。彼らが雇用を保証されるような仕組みを作らない限り彼らのような失業者はなくならないと主張し、何らかの予算や制度を引き出そうとするだろう。しかし、組織の内側に対しては、いつまでも失業者に留まってはならない。客観的な状況は厳しくとも、職に就くよう努めよと鼓舞するのである。それが真のリーダではないかと思う。
 言論の自由が保障されている限り、基本的に何を言っても構わないわけで、あれやこれやと発言に制約を加えることはよくない。しかし、議論を分かりやすくするためには、自分の主張の依って立つところをはっきり自覚し、できれば事前に示しておくことが望ましい。場合によっては、戦術としてそれを曖昧にしておくこともありうるだろうが、それは例外的な局面においてであろう。
 ちなみに私は知識人の立場でものを言っている。また、特定の集団に寄り添って生きているのではないから、発言の幅は広くなり、やや抽象的であろう。全般に、勤労者の利益を擁護する立場に立とうとしている。また、多くは彼らに呼び掛け、いくらかでも世論形成に影響を与えられたらよいという意図を持っている。

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