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2009年10月の投稿

2009年10月31日 (土)

筆談ホステス 斉藤里恵

 旭屋書店で本を探していたら、「筆談ホステス」というタイトルが目にとまった。立ち読みすると、著者は生れてしばらくして病が原因で聴力を失った。そのハンデのためか非行に走り、青森では有名な不良少女になったそうだ。その彼女が水商売で接客することを仕事にし、頑張っているという話である。意地悪なママに、客との性交渉を強制されたり(危機一髪逃げ出したらしいが)盗みの罪を押し付けられたりと、まさに犯罪的ないじめを受けてきた。それでも、店を移ることはあってもホステスという仕事は今も続けている。

 言葉がうまくしゃべれないから、コミュニケーションの手段として筆談が使われる。お客の方もわざわざそのような相手を選ぶわけだから、少しばかり忍耐が必要だ。それは、同情であるかもしれない。それに写真を見て分かったのだが、彼女は可愛いのである。和服を着た姿は銀座のナンバーワンホステスと言われても違和感はない。確かにハンデがありながら、よく頑張っていると思うのだが、珍しさとともにやはりきれいであることが成功の要因になっている。障害を持つ人たちの励ましとなっているということなので、それは率直によいことだと思うが、彼女が他の人にはない特別なものを持っていることは間違いない。とはいえ、彼女自身が書いているように後から若い娘が入ってきて競争が激しい。いつまでも可愛さを売りにできない。筆談を通じてでも、相手を気分よく楽しませて帰す術を身につけなければならない。これからが彼女にとっての正念場なのだ。
 

加藤周一から学んだこと

 私の愛読書の一つに、「日本人とは何か」という文庫本がある。他にも、平凡社ライブラリーの「加藤周一セレクション」や岩波新書の「羊の歌」などを読んでいるが、この本を繰り返し読むことで加藤氏から学んだことがたくさんある。
 そのうちの一つは、固定化した、いわゆる通説というものを鵜呑みにすることなく、自分の目で直に見て、自分の頭で考えて評価をくだすべきだということである。例えば、俵屋宗達と尾形光琳の作品について触れた部分がある。宗達と光琳は長い間並び称されてきた。(たしか、歴史の教科書にも並べて紹介されていた。)宗達の傑作は「風神・雷神」であり、光琳の傑作は「菖蒲図」である。しかし、「風神・雷神」のむき出しの腕は不細工で目ざわりであるのに対し、「菖蒲図」は比類を絶する正確なデッサンが基礎にあって水準が高い。この二つの屏風はまったく程度の違うものであるにもかかわらず、並び称するのは馬鹿馬鹿しいほどだと言うのである。
 一度習慣が生じると、閉じられた狭い世界では、誰もそれを疑うことがない。宗達の絵の評価に関して、氏の説が正しいかどうかは私にはわからない。しかし、宗達と光琳の絵が、教科書に並べて載っているだけで、この時代の二大傑作であると思い込んでいる自分は疑いえない。おそらく、絵にいくらか親しんでいる人でも見方には大差がないのではなかろうか。
 これは一つの例であるが、私たちが受けている情報には、この類の通説が多い。残念ながら、一つひとつについて吟味する時間もなければ見識もないが、それが正しい評価だという決めつけからは距離を置く必要があるだろう。

 加藤氏からは、こういうものの見方だけではなく、文章表現についても学んでいる。過去のブログを読み返していると、氏の言い回しによく似た部分を発見することがある。知らず知らずに真似しているのかもしれない。

2009年10月25日 (日)

イチローと落合博満との対談

 今から10年ほど前の二人の対談を、YouTubeで発見。イチローがメジャーに行く前の年のキャンプ地で撮影されている。短い時間で、もっぱら打撃フォームの話題に終始していた。内容は非常に専門的なもので、素人のファンには理解しがたい。
 落合が、イチローのフォームに対して「トップの位置が低くて浅い。」と指摘。イチローも納得している様子だった。また、「一流のバッターは、線で引っ張ってきて、点でひっぱたく。普通のバッターはただ点に自分が衝突していくだけ。」と発言しているが、イチローは子どものころから、線をイメージして打ってきたという。ただ、イメージがフォームとして確立したのは最近のことだという。いずれにしても打撃を極めた人間同士にしか分からない話である。

 さて、ここで言いたいのはそういう中身ではない。落合がいろいろ指摘したあとでイチローが言った言葉である。「今日はいろいろ教えてもらってありがたかった。なかなか言ってもらえないので。」素人は、周りに監督やらコーチやらOBが大勢いるのだから、なにやかやとやかましく口出しするのかと想像するが、イチローほどの選手になると誰も言わなくなるらしいのだ。よく考えたらそうかもしれない。自分より優れており、実績もある選手にアドバイスなんてできない。的を外してしまうかもしれないので怖くて言えないのだ。
 しかし、何も言ってもらえないというのも孤独である。ただひたすら自分で考えなければならない。イチローにしてみれば、落合のアドバイスは非常に貴重なものであったのだ。外から見てもらわないと分からないことがあるのである。

 偉大な人物、あるいは大きな組織のトップに遠慮せずものが言える人は少ない。外から見ていると、力量のある人は自分で考え行動できると思うので、助言・進言は控えがちだが、当人は意外にそれを待っているものなのかもしれない。

 

2009年10月24日 (土)

山井の交代(2007年日本シリーズ)

 2007年11月1日の日本シリーズ第5戦における山井投手の交代については、マスコミ上だけではなく職場など身近な場所でも賛否両論乱れ飛んだ。山井投手は8回まで日本ハム打線をパーフェクトに抑えていたが、9回から落合監督は躊躇なく守護神岩瀬に交代させた。それに対し、あそこは続投させるべきだったという意見が多く聞かれたのであった。私は翌日11月2日のブログに落合監督の判断を支持する意見を書いた。それは、単にプロ野球の一ファンというよりは、監督はどうあるべきかという観点からの主張であった。

 ところで、YouTubeでスポーツ関係の動画を検索しているうちに、この日本シリーズが終わった後の落合監督のインタビューを見ることができた。ちなみに、江川卓が質問をしている。そこでは当然山井の交代に触れられていた。なぜ交代させたかの質問に対する答えは、私が考えたこととほぼ同じ内容のものだった。ペナントレースを、最後は岩瀬で締めくくるというプランに従って戦ってきた。あの場面でも同じように動いたという中身だった。ある意味、非常に単純な論理である。もちろん、そのプランで勝ち抜いてきたことがその論理の根拠であり、岩瀬でなかったら使えない理屈である。だから、この「事件」の最大のキーマンは岩瀬なのである。星野仙一は、私だったら山井に投げさせていたと語ったが、これは一つは星野氏が評論家の立場で語っているということと、岩瀬に対する思い入れが落合監督ほど強くないことに由来している。
 これに関連して落合監督から、もう一つ興味深い発言があった。江川から、川上憲伸が投げていたらどうしたかという質問に対する答えである。監督は即座に、川上だったら自分から代えてくれと言いますと返したのである。私はブログで憲伸だったら続投もあったかもしれないと書いたが、この発言からすればそういう判断はありえないことになる。要は、川上は監督の方針やチームの事情が分かる選手だと言いたかったのだろう。おそらくは、そこまでは考えられない山井とは違って。

 監督の主たる役割が観客を喜ばせることであれば、山井を投げさせ、パーフェクトの達成を目撃させるというサービスの提供に努めただろう。しかし、第一は勝つことである。しかも、中日はどうしても日本一になりたかったのである。これはチームの悲願であると同時に親会社の悲願でもあった。雇われた指揮官としては、もっとも大事な目標に向かって、自分の頭を最大限に使ったのである。その結果が、あの交代であった。

2009年10月18日 (日)

総合的に考える

 民主党政権がスタートして、改めて自民党政権下で進められてきた行政、特に国土開発への見直しが行われている。具体的には、ダムや高速道路の建設、港湾や空港の整備などである。反省点は、グランドデザインなしに、とにかく地方の要求に応じて(地方選出の議員がそれを代弁するのであるが)作り続けてきたというところにある。一つひとつの施策が、全体の計画の中でどのように位置づけられているかという観点は、国政のみならず、仕事や生活の次元でも大切なものである。

 仕事でもお世話になっている、村井哲之氏がその著書である「ハイヒールと宝石が温暖化をもたらす」で、温暖化対策の考え方について述べられている。割りばしの使用をやめてマイ箸を使おうとか繰り返し使える箸を外食で使う運動が進められているが、これをどう考えるか。一時、割りばしは大量消費の代表的事例として取り上げられ、すっかり悪玉にされてしまった。しかし、これが森林の伐採を加速し、二酸化炭素の吸収を阻害することで温暖化を促進することになるのだろうか。村井氏は、この問題を一面的にとらえるのではなく、総合的なビジョンに位置付けるべきだと主張する。すなわち、日本の山林はよく知られているように、一所懸命に植林を進めてきた割には手入れが行き届かず、間伐が行われていない。山林の荒廃は、二酸化炭素の吸収能力を弱めてしまう。これを全国的に解決するためには、間伐材を割りばしに利用する動きを政府が後押しする。消費が起これば、供給するために間伐材の確保や設備の増設が進む。生産・流通・消費のサイクルが生れるのである。
 このように、総合的な政策としてビジョンを打ち立てる必要がある。これは一例であるが、木を見て森を見ずの例は、ここかしこに見られるのである。

 

向陽高校対天理高校観戦記

  大津市の皇子山球場で昨日(10月17日)から開かれている高校野球近畿地区秋季大会を見に行ってきた。第2試合の「和歌山県第2位校の県立向陽高校」対「奈良県第1位校の天理高校」の試合である。
 下馬評は圧倒的に天理が有利で、コールドもありうると思われていた。実際、天理は3回までに3得点し、このまま一方的に押し切ると思われたが、向陽は3回裏に3得点し追いついた。その後向陽の投手が好投し同点のまま回を重ねたが、7回表に天理が1得点し、それを守り切って勝利した。
 同点に追いついてからの向陽藤田投手の投球は素晴らしかった。慎重に低めに集めゴロを打たせていた。安打を13本打たれたが低めに投げることにより長打を防いだ。前半はやや不安定だったが、3回表のピンチを見逃しの三振で断ち切ったことが自信を生み、さらにその裏の味方の攻撃が彼に勇気を与えたのである。

 天理は部員の強制わいせつ行為で出場が危ぶまれたが、辛うじて出場を許され初戦を突破した。選手たちにはかなりの精神的な重圧があったと思われる。それにしても、このような大事な試合になると心理的な要素が強く働いて、普段の力関係からは予想できない結果を招くものである。そういう意味で、「諦め」が最大の敗因となる場合がある。選手は戦うことが使命であり、自ら評論家になってはならないのである。

 天理の選手たちには、今後の試合で立派なプレーを見せてもらって、先の不祥事が極めて個人的で特殊な事件であったことをアピールしてほしい。

末光健一 もうひとつの伝説

 日本で最高のボディービルダーは須藤孝三であると思っているが、もう一人捨てがたいのが末光健一氏である。須藤氏は上背があってプロポーションが素晴らしく、美しいビルダーの典型であった。これに対し末光氏は筋量があって、日本ではバルク派の最高選手だと思う。選手権をとった1971年の記録では162cmで80kgあった。合戸孝二選手が164cmで70kgだから、それと比較するとボリューム感の違いが想像できる。須藤氏がタイトルを取った時には174cmで84kgだったから、タイプの違いが分かる。

 YouTubeで末光氏のポージングを見ることができるが、その充実ぶりには目を見張るものがある。どの部位をとっても文句のつけようがない。欲を言えば、背が低いため、頭が相対的に大きく見えてしまう。身長はあと5cm高かったら、ずいぶんバランスが良くなったのではないかと思う。とはいえ、それは無いものねだりであり、末光氏は末光氏一人である。最近では練習の設備もよくなり、サプリメントも進歩を遂げているが、須藤氏や末光氏のようなずば抜けた特徴のある選手が出なくなっている。スケールが大きく、よい意味で目立つ選手の登場を期待したい。

2009年10月12日 (月)

働くということ

 少し前だが、ブログに、学生時代には自分たちは何も生産せず消費だけを行っている階層であり、働く人たちに引け目を感じていたということを書いた。こういう感覚は当時でもかなり特殊になってきていたのかもしれない。学生運動が活発な時は、学生と労働者が運動を通じて交わる機会があり、そんな場で、働きもしないで偉そうに言うなと罵声を浴びせられることがあったと聞く。そういう経験が先輩から伝えられたので、私にも同じような感覚が身に着いたのだろう。朝まで飲んで始発で帰ることもたまにあったが、アパートがある最寄りの駅で下車し、帰り途をとぼとぼと歩いていると、出勤するサラリーマンとすれ違う。そういう時には、目を伏せて歩いたものだ。
 学生は親の脛かじり。学生は社会にもいろいろ迷惑をかけている。学生に多種多様な割引制度や補助の制度があり、進学しないで仕事をしている人には何もないのだから、ある意味、理不尽な仕組みである。それを正当づけるのは、学生は将来の社会を支えるために一所懸命に勉強するということでしかない。優遇される根拠はそこにしかない。
 学生には、親に対する負い目、社会に対する負い目が前提としてある。すなわち、負債があるのである。働き始める時には、負債を抱えている。だから、まじめに働いて借金を返していくのである。だから、最初は安い賃金で辛抱して働くのである。こういう理屈が今の若い人に通じるだろうか。

 半人前という言葉がある。就職したときには皆半人前である。いつ一人前になるかは人それぞれだが、私の基準で言えば、最低でも10年はかかる。この様な感覚が今の若者にはないのではないか。聞くところによれば、よく出来るからということで評価して責任にある仕事をやらせようとすると、なぜ自分だけがそんなことをしなければならないのだと言って受けない若者がいるらしい。それもかなりの割合だと聞く。それなら、先に給料を上げろと言う論理であろう。しかし、支度金制度じゃあるまいし、先に給料を上げる企業はない。第一、任せたからと言って出来る保証もないのである。リスクは上司がとらねばならない。また、若い社員はどれだけアウトプットを出せるかわからず、会社からすれば持ち出しになっている感覚さえある。学生時代に時給800円ぐらいだった人間が、就職したとたんに少なくとも2倍ぐらいもらう勘定になる。最初は勉強させてもらうぐらいの気持ちが必要なのだが、あまり期待できない。
 何も、若者の給料が高すぎると言っているのではない。働くことは、社会のためであり、負債を返すことであり、そのことを通じて自分が成長し、一人前になっていくのだということを知ってほしいだけである。

学ぶということ

 学ぶと言っても、その中身はいろいろだ。若者にとって学ぶとは、学校で受ける授業である。そして、その目的は短期的には定期考査でよい点をとることであり、最終的には上級の学校への入試に合格することである。実際に学校で学ぶことのなかには、その後の人生に役に立つこともあるのだが、そのことは生徒にあまり認識されることはない。進学校の生徒には入試に関係する知識が重要視されるだろうし、進学校ではない学校の生徒にしてみれば、まじめに聞いている生徒でさえ、これが何の役に立つのかという問いに対して答えを用意することができるだろうか。

 話は逸れるが、私は仏教系の私学を卒業しているが、宗教の授業と言うのも悪くはない。私がそういう話を好むからかもしれないが、物事を深く考えるきっかけを作るという意味で価値がある。宗教の道に入ってしまうのではないかと案じる方もいるだろうが、ご心配なく。宗教の世界に入って行った人は一人も知らない。そういうものとは関係なく、牧師になった人を一人知っているだけである。これは、私学だからできることで公教育でやったら憲法違反である。意義を感じる人は私学へ行ってください。感性には個人差があるのでご注意を。

 さて元に戻すと、現実的には若者の学びは受験に結びついている。私はそんなものとは関係なく勉強するのだと居直っても、落伍するだけである。そういう人をすくい上げるシステムが日本にはないからだ。まずは、受験における競争に入っていかざるをえない。確かに、自分の経験から言っても、受験勉強がその後のビジネスパーソンとしての生き方に役に立っているかと問われたら、否と答えるしかない。実際に財産として残ったのは、先生が勧めてくれた何冊かの新書本であり、頑張って志望校に合格したことへの自信と誇りである。
 しかし、それは言うほど悪いことでもないように思う。目標に向かって、自分自身の時間やその他の資源をいかにマネージメントしてよい結果を出すかということを学ぶだろう。大抵が、学校や予備校がおぜん立てをしてくれるにしても、当人が背負わなければならない部分も何割かはあるのである。その経験は仕事でも役に立つに違いない。

 大学での勉強はどうだろうか。講義に出て単位を取るだけが目的なら、目標が大学から大企業に変わったでけで受験勉強と変わらないだろう。経験から言えば、役に立つのは、まず、ある程度分野を絞って本を読み、深く考えることである。だが、考えても答えは出ない。その答えの出ないところに意味がある。仕事というものはそんなに簡単に答えが出ないからである。次に、文章を書くことである。勉強会やゼミなどでチューターを引き受け、レジュメをまとめる作業を行うと、非常に力が着く。これは、社会人になってから友人と話をすると共通の認識になっている。最後に、議論する場を持つことである。私の場合は主にサークルだったが、社会科学をやっているといろいろな意見の対立を生むが、自分の意見に対する反論に立ち向かうことがよい訓練になる。対立してもサークルのことなので一時である。気楽な中にも成果は十分ある。

 ということで大学までの学びについて書いたが、それ以降も学びは続く。長くなるので今日はこれで終わりにしたい。機会があれば、社会人にとって学びとは何かを考えてみたい。

落差が力を生む

 松本清張氏の「実感的人生論」を読むと、学歴コンプレックスが氏に与えた影響の大きさを知る。一文を紹介したい。「もう一つは、高等小学卒という劣等感を払い除けるための努力であった。私は自分が常に蔑視されていることを承知していた。だから負けまいとする意欲はいつも持っていた。私の独学など勿論云うに足りないが、その闘志自体が何か心の支柱のような気がした。大学を出ているくせに、詰らない男に出会うと、やはり安らぎを覚える。大学だけは出たが、その後の勉強を放棄した人達であろう。」(文庫、10頁)
 氏には高等教育を受けたいという意欲が強くあり、その意欲に相当する能力もあったのだが、家が貧しく、高等小学校を卒業後、15歳で給仕に出ることになる。その後、いくつかの仕事を経験するが、学歴による待遇の格差に辟易することになる。その後、朝日新聞に就職し、それが作家への道を進む契機となったが、そこでも職工としてのみじめさを味わったようだ。しかし、その悔しさがあの有名な読書量を生んだことは間違いないので、劣等感なしにあの松本清張は生まれなかったと言っても間違いではなかろう。

 経営コンサルタントの山形琢也氏は、その講演のなかで、「動機はダーティーなほど根強い。」と述べられたが、この学歴コンプレックスもダーティーな動機に入るのだろうか。言いすぎの様にも思うが、理想に燃えることを美しいと定義づけるならば、逆にこの場合はダーティーなのかもしれない。あくまで動機は個人的なものであり、直接的には人に利益をもたらさないからである。とはいえ、その動機を原動力にして生きた結果が、周囲の人々や社会に利益をもたらすことはある。そういう意味では、一概に否定的にとるべきではない。

 自分が求めるものと現実とのギャップが人の行動を駆り立てる力になる。そこで大事なのは求めるものがあるかどうかだ。理想、夢、目標というものがあれば、現実がいかなるものかを感じ、知ることができる。今の状態に疑問を持たず、当たり前なのだと思えば、できるだけ苦痛を感じないで生きることが最良の生き方になってしまう。それとは違う世界、人生があることを知らずに一生を終えるのである。
 それとは違って、何らかの動きが生まれる場合がある。一揆とか乱とか政変とか革命とかいう集団的な行動があった。そこには現状から抜け出して別の世界を求める意思があった。それは自然発生的に生まれたものではなくて、リーダー的な人物が持ち込んだのではないかと思われるが、少なくとも集団にその観念を受け入れる現実的な基礎があったことは事実だろう。それは成功もあり、失敗もあった。実際には失敗が圧倒的に多いのだ。しかし、歴史の転換点にはそういった動きが頻繁に起き、それが方向を変える力になってきたのである。

 理想、夢、目標は今の社会に、職場に、一人ひとりの人間にあるのだろうか。

祖母のこと 明治の女・明治の精神

 祖母は明治の人である。確か明治31年生まれである。干支が戌だったので、間違いないだろう。同じ町内の石工を生業とする男性と結婚した。祖父にあたる人だが、早くに亡くなったので写真で知るのみである。
 祖母にはもともと息子が一人いた。しかし、小学生の時に自転車に乗ったまま橋から転落し、若い命を落としてしまった。その代わりといえば語弊があるかもしれないが、養子に入ったのが父であった。そして、ここがややこしいところであるが、それ以前に養女として入っていたのが母なのである。
 祖母は田舎には珍しく開明的な女性であった。町内で最初に自転車に乗ったのが彼女だったという話を聞いた。また後に営むことになる商人宿に町内の若者を集めて酒を振る舞っていたという話もある。亡くした息子は優秀な子どもだったらしい。さぞかし残念無念であったろうが、 そのあとを受けて父が養子に入った。父は大工の息子で、男女6人ずつの12人きょうだいの7番目で、四男である。祖母は、父の母(私にとったらこの人も祖母)から一番いいと思う子を持って行ってくれと言われたらしい。それで選んだのが父。一番やんちゃだったらしいが、そこが祖母の性格からすれば気に入った点だったに違いない。このようにして養子に入った父は、先に養女になっていた母と後に夫婦になる。その間の経過は詳しく聞いていないので知らない。祖母は、しばらく商人宿を経営していた。一時は繁盛したようで、何人か人も雇っていたらしい。そのころの常連さんは廃業してからも賀状をくれたり、たまに立ち寄ってくれたりしていた。また、廃業してからも二階の二部屋だけは、置き薬の営業で回る人たちに貸していた。祖母が亡くなった時には、その人たちも葬儀に来てくれたことを覚えている。
 私は祖母に可愛がられて育った。私の兄弟は皆そうだった。記憶にはないが、「偉くなれよ、偉くなれよ。」と言いながら、頭をなでていたそうである。また、これも覚えていないが、たまにはきつく叱られたそうだ。三つ子の魂というが、物心つく前の話なのだろう。そういう祖母だったが、鮮明に覚えている事件がいくつかある。この一部は前にブログに書いたことがある。重なるけれども、祖母の人となりを知る上で貴重な出来事であるので、もう一度書いてみたい。

 ①へびと蛙
 あれはある休日の午後だったと思う。父が、家の北側にある柿の木の前で、しま蛇に体を巻きつけられた殿様蛙を見つけた。そういう光景を私は初めて見たのだったが、父は蛙が可哀想と思ったのだろう、そばにあった石を手にとって、蛇めがけて投げつけようとした。その時、その場に居合わせた祖母が、「投げたらあかん。放っておけ。」と叫んだのである。しかし、石は父の手を離れ、蛇の近くに飛んで行った。おそらく体のどこかに当たったのだろう。蛇は蛙を離し、西側の草むらへ逃げて行った。解き放たれた蛙は息を吹き返し、礼も言わずに、なぜだか蛇と同じ方向に跳んで逃げて行った。
 こういう話だが、今でも鮮明に目に焼き付いている。これを私はどう解釈したか。父は、単純に、素朴に、蛙が可哀想だと思ったのだが、祖母は違った。蛙が蛇に食われるのは自然なのだ。そこに人間が立ち入ってはならないという考え方だ。どちらの行動にも理はある。父は単純に、弱い者、劣勢にある者、苦しんでいる者への憐憫の情に従って動いたのである。祖母は自然の摂理に対して、一歩距離を置いてこれを眺めたのである。私は、なぜ祖母がそういう視点を持つようになったのか、学生時代に考えてみたことがある。その時の結論は、夫を早く亡くし、息子も事故で亡くした経験から、宇宙には人間には抗い得ない流れがあって、それはどうもがいても微動だにしない運命なのだという諦念だったのではないだろうか。私は今でもそう解釈している。

 ②飼い犬に手を噛まれた母
 これは先ほどの話に比べたら、大したことではないが、母が飼っていた犬に噛まれたことがあった。人を噛むような犬ではなかったが、何かが気に障ったのであろう。その時に、祖母は母に言った。「犬を怒るな。噛まれたのはおまえが悪い。」と。祖母と母の関係が特別に悪かったのではない。犬畜生に責任があろうか、それを御せない人が悪いのだという考えである。厳しい人だった。

 ③乞食への愛情
 私が子どものころはまだ世間一般に貧しい人がたくさんいた。今でもいるのだろうが、乞食と言われる人たちもいた。家に入り込んで来て、どんぶりを差し出し、飯を食わせろと嘆願するのである。私の家にも来た。昔に宿屋をやっていたから間口が広く、入り易かったのかもしれない。
 祖母は、どんぶりに、冷や飯だったろうが大盛りにして食わせてやった。そしてそこから説教が始まる。いつまでもこんなことをしていてはいけない。自分で働いて食えるようになれ、と諭すのである。この乞食がその後一念発起して自立したという話は聞かなかったから、馬の耳に念仏だったのだろうが、そう言って聞かせる気骨には感心させられる。

 代表的な出来事は以上である。明治の人だと言ってしまえばそれまでだが、今の人間にはない、大きく安定感のある精神だと思う。私など、それに比べたらあまりに小さいと思うが、いくらかでも受け継いでいる部分があると思う。福沢諭吉の「福翁自伝」に、貧しくみすぼらしい老女に親身になる母親が出てくるが、祖母がそれによく似ているのは、なんらかの歴史的なつながりがあるに違いない。
 

2009年10月11日 (日)

今だから言える失敗シリーズ 3

 出張中(旅行中)に旅館を予約して行ってみたら、そこが連れ込み宿だったことありませんか?

 就職して間もないころは営業マンをやっていました。当時は北陸を担当しており、その日は加賀温泉地区を回っていました。宿をとっておらず、温泉宿だと高くつくので、確か電話帳で調べたように思います。すると、朝食付きで家庭的な宿とうたってあり、料金も安かったのでそこに決めました。一日の仕事が終わり、車を走らせて宿の横の駐車場にとめた後、鞄をもって入口に向かいました。
 ところが、です。玄関に入ると、男女の靴がペアで並んでいるではありませんか。3組あったと記憶しています。20年以上前のことですが、よく覚えています。こういう経験は初めてなのでどうしてよいのか判断がつかず、宿の人に導かれるまま部屋に入りました。さらに、今から思えばそれはないだろうという話ですが、お風呂は外にあるというのです。そういう行為の前か後かは知らないが、人が使った後に平気で使えるでしょうか。私は、風呂へは入らず、シャワーも浴びず辛抱しました。そしてひたすら寝て朝になるのを待ったのです。
 朝食は食べました。宿の人は親切でした。でも二度と来るかと思いました。近くのお得意先に行って、こうこうこうでと話をすると、あそこは有名な連れ込み宿だと教えられました。ビジネス客も取り込んで売り上げを増やそうとしたのでしょうか。

 こんな経験のあるかた、いらっしゃいませんか。あったら、ぜひコメントをください。
 

今だから言える失敗シリーズ 2

 オートロックのホテルに宿泊し、間違ってキーを持たずに部屋を出て戻れなくなったことありませんか?

 テレビのコマーシャルでこんなシーンがありましたね。私も経験があります。それもパンツ一枚の姿で出たものだから、すっごく困りました。
 出張で岡山へ行った時の話。仕事が終わってずいぶんたくさんのお酒を飲みました。もともと弱い方だからすっかり酔ってしまいました。少し大きめのビジネスホテルだったので、確か8階だったと思いますが、上の方の部屋に入りました。そして入浴もせず寝入ってしまった。おそらく1時間ぐらい眠った後、目が覚め、朦朧としながら立ち上がり、思わずドアを開いてしまった。たぶん、トイレのドアと間違えたのでしょう。しかし、すぐに気が着けばよかったのですが、まだ酔っ払っていたのでドアを閉めてしまったのです。また間の悪いことにブリーフ1枚で寝ていたのです。
 一瞬で酔いがさめました。状況が正しく認識できたのです。どうしようか。フロントに行くしかないが、エレベーターで誰かと一緒になったら誠に恥ずかしい。いや、女性だったら犯罪的行為になってしまう。そうだ、階段を下りる人はいまい。おそるおそる下りていく。1階まで下り、ドアを開けるとうまい具合にフロントが見える。顔だけ出して、呼ぶ。「すみません。ドアが閉まってしまいました。開けていただけませんか。8階の部屋です。」そこから部屋が開くまでの過程は記憶が定かでありません。もう20年以上も前の話です。おそらく、私は階段をひとりで上って行ったはずです。
 こんな経験ありませんか。ある方は、ぜひ、コメントをください。

今だから言える失敗シリーズ 1

 自分にむかって手を振っていると勘違いして、大げさに振り返したことありませんか?

 高校生の時です。列車で通学していました。生徒たちは、K市の駅から上り下りに分かれて帰って行きます。夕方の列車はこの駅で行き違いになります。私は先に到着している下りの列車に乗っていました。特に何をするともなく向かい合わせの座席に一人腰を下ろし、反対側のホームに停車した上り列車を眺めていました。
 すると、同じクラスの2人の女子生徒が笑いながらこちらに手を振っているではありませんか。一瞬おやっと思いましたが、せっかく手を振ってくれているのに、無視したのでは申し訳ないと思い、私も振り返したのです。そこには、多少は、自分は女子にも好かれているという自惚れもあったと思います。ところが、よく見ると若干視線がずれている。そうです、隣の席に別の女生徒がいたのです。私は逆方向を向いていたので気が着かなかった。
 私は恥ずかしさで顔が真っ赤になっていたことでしょう。私の存在に気が着いたかどうかは分かりませんが、とにかく自己嫌悪に陥りました。しばらく、彼女たちの会話のネタになったかもしれません。
 こんな経験ありませんか。ある方はぜひ、コメントをお寄せください。

2009年10月10日 (土)

灘高校合格者の半生 その八

 市原 「ようやく大学生ですね。」
 佐山 「2年遅れましたので。ここからはお話してもあまり面白いことはないようにも思えます。ほとんど講義には出ずに卒業しましたので、学生らしい生活ではなかったかと。」
 市原 「構いません。講義の中身を聞いても面白くはないので、返っていいですよ。講義に出ないで、何をしていたのですか。」
 佐山 「おもにサークル活動ですね。社会科学系の建て前は学習サークルです。かつて学生運動華やかなりし時代に、講義が流れて勉強できない学生たちが自主的に立ち上げたサークルです。一応、そういうことに理解のあるS教授が顧問に着いてくれていました。OB会が定期的に開かれて、結構有名な大手企業に勤めている先輩が集まりました。」
 市原 「どういった勉強をしていたのですか。」
 佐山 「普段は分科会に分かれて学習会を開いていました。政治学、国際政治学、政治思想史などです。私は政治学が主で、とはいえ古い流れがあって、マルクスやレーニンまで読みましたよ。マルクスはアカデミズムでも取り上げられるのですが、レーニンはまれでしょう。国家論や前衛党の理論などを勉強しました。他にはマックス・ウェーバーも読みました。」
 市原 「ずいぶん難しい内容ですね。結構レベルは高かったのでは。」
 佐山 「大学生としてはレベルは高かったのかもしれません。自覚はしていませんでしたが、後にゼミで普通の学生を話をしてみるとこいつら勉強していないなと思いましたから。サークルからは、現在大学の教授、准教授になっている人がたくさんいますから、そういう意味でも人材があつまっていたのでしょう。私は違いますが。」
 市原 「学生ですから、勉強だけしていたのではないでしょう。」
 佐山 「飲み会は多かったですね。学習会のあとは必ず飲み会でした。飲むために勉強するみたいな雰囲気がありました。上級生が下級生に無理やり飲ませるのは伝統を受け継いでいました。ずいぶん飲まされました。もともと酒には弱かったのですが、この経験で強くなりました。今はまた弱くなりましたが。学生も変わって、飲み会は静かになっているようですね。それから、合宿もやりました。これは全体でテーマを決めて、学習会をやります。そして合宿先で宴会です。帰らなくていいですから、当然酒量が多くなる。乱れましたね。さぞかし、宿の方は迷惑だったでしょう。」
 市原 「他に思い出などは。」
 佐山 「実は、留年しているのですよ。講義に出なかったから、語学で単位が取れなくて。気が着いたら、周りで私だけなんですよ。みんなちゃっかり卒業していった。5年生の時は語学をいっぱいとりました。顧問のS先生の講義もとって、とにかく出席だけはしなさい。そうすれば単位は上げるからと言われました。こういう時にはありがたいですね。それからドイツ語の2人の教授には、電話で就職が決まったから通してくれと懇願して単位をもらいました。あの先生たちも迷惑だったでしょうね。そう言われるとだめだとも言えないし。勝手な言い方ですが、いい先生ばかりでした。」
 市原 「そうして今の会社に入られるのですね。」
 佐山 「就職したときは25歳でした。その後はごく普通のサラリーマンですよ。灘高との関係では、途中で転校したのに、今だに同窓会へのお誘いがあります。できるだけ出るようにしています。皆の職業を見ているとやはり医師が多いですね。ほとんどが大学病院などの大手病院の勤務医ですね。私の学年の連中は優秀で、確か東大の理科Ⅲ類に20数名合格しました。そんな学校は他にはありません。母校ではありませんが、今でも気になる学校ではあります。」

 市原 「以上、8回にわたって佐山さんに語っていただきました。紆余曲折ありましたが、現在では某企業で頑張っているようです。進学校に進んだからといって、皆が順調にいくわけではありません。しかし、それなりに能力のある人たちでしょうから、希望を失わず努力すれば再起は可能でしょう。佐山さんは、いろいろな経験ができて返って恵まれていると語っています。」

灘高校合格者の半生 その七

 市原 「どちらの大学を受験しましたか。」
 佐山 「私立の文系で、法律か経済かという感じでしたね。しかし、3年になってもやろうという気が起こりませんでした。受験への情熱が湧かないんですね。過去の経験がトラウマになっていたんです。それでもいくらかはやって入試に臨みました。しかし、絶対的に勉強の量が不足していたので、早稲田の政経は不合格。明治大学と青山学院大学は通りましたが、行きませんでした。」
 市原 「そうすると浪人生活に入ったのですね。」
 佐山 「はい。東京で勉強することにしました。ところが、また全然やる気にならず、8月までは遊んでしまったのです。夏は郷里に帰り、高校時代の友達と海へ行ったりして遊んでいました。やっとやる気になったのは、9月になってからです。高田馬場の早稲田ゼミナールという予備校に入って、まじめに授業を受けました。とにかく勉強するのは予備校のテキストだけです。結果的にはこれが功を奏しました。あれもこれもと手を出すのがまずいのです。予備校と心中するつもりがよろしい。文学史の栗山先生と英語の志賀先生が記憶に残っています。」
 市原 「順調に力がつきましたか。」
 佐山 「そうですね。予備校のテキストに絞ってやったことで、効率的に実力が向上しました。模擬試験の順位もどんどん上がって行きましたから、確信は持てましたね。だいたい上位10番ぐらいのところまで上がりました。上位の者は、名前が載るのですが、そこに灘高へ行かなかったら受けていたであろう県立高校出身の生徒が載っており、私も載っていましたから、あの二流高校の卒業生がいるのかと思ってるに違いない。負けないように頑張ろうと思いました。」
 市原 「いよいよ本番ですが、自信はありましたか。」
 佐山 「模試で合格確実圏に入っていたので自信はありました。初っ端は上智大学の法学部でした。問題の傾向は早稲田とは違います。比較的点数のとれる問題。こういう傾向は得意ではありません。記述式で、やや難問が多いのが早稲田の政経の入試です。早稲田の前に上智の発表がありましたが、不合格になってしまいました。落ち込むところですが、そこは過去の経験が力になっているのか、すぐに気持ちを入れ替えて、他校の受験の臨みました。明治大学の法学部と中央の法学部を連覇して、本命の早稲田に向かうことになりました。ちなみに日程の関係で、中央には入学金を支払いました。結局無駄になりましたが、仕方ありません。早稲田は政経と法学部を続けて受験。政経では、古典の試験で予備校の模試と同じ出典があり、問題は違ったもののクリア。これは早稲田ゼミナールに通った特典のようなものですね。他もまずまずで、発表に臨みました。合格。法学部は残念ながら不合格でしたが、政経が第一志望だったので問題なしです。」
 市原 「結果的には思い通りになったからよかったですね。」
 佐山 「とりあえず、という感じですね。確かに肩の荷は下りました。」

灘高校合格者の半生 その六

 市原 「それから、郷里の県立高校に転校されるのですね。」
 佐山 「そうです。一応、形だけ編入試験を受けました。学校には小学校の時の仲間の一部が通っていました。学年は一つ上になります。列車でとなりの町まで通学しますが、初日は緊張しました。幸いにも、その高校は進学校ではなかったので、灘高の値打ちの分かる生徒が少なかったので、逆に特別扱いされることなく、自然に溶け込めました。少しは悪い奴もいましたが、荒れる様子もなく、おおよそ平穏で、皆勉強ができないこと以外は非常にいい学校でした。」
 市原 「灘高は男子校ですが、公立だから共学ですね。」
 佐山 「そうですね。それもよかったです。自然な形で。中学は女子が少なかったし、高校は男子校で、女性との会話は本当に少なかったです。確か、担任の先生の紹介で文芸部に入部しました。そこの中心メンバーは、同じ年、ということは学年が一つ上ですが、男子も多くいて、彼らとすぐに親密になりました。そんななかで、精神的な病の方は、過去になにがあったのかと思うほど、すっかり消えてしまいました。家では家族と一緒ですから緊張感がないし、学校でもリラックスできる。勉強しなくても一番になれる。要するにストレスになる要素が皆無になってしまったのです。やはり、壁にぶつかったら頑張るよりも環境を変えることが大事なのだとつくづく思いましたね。」
 市原 「授業はどうだったのですか。灘高とは全然違う。」
 佐山 「まさに全然ですね。基本的には教科書しかやりません。数学も教科書をゆっくりやるものですから、苦手の私でも十分に分かります。基礎が身に着けば、難しい問題も解く取っ掛かりができるのでだんだん分かってくるのです。他の教科も同じですが、文系の教科はさすがに物足りませんでした。でも、不満はなかったですね。」
 市原 「とはいえ、時が過ぎれば、そろそろ次は大学進学を考えますね。」
 佐山 「そうです。でも、のんびりしていましたよ。兄が早稲田の政経学部を卒業したので、自分も早稲田に行きたいとぼんやりとですが、思っていました。理系への苦手意識があったから、最初から国立を受ける気はありませんでした。」

灘高校合格者の半生 その五

 さてこのようにして佐山さんは灘高校に通うことになりました。ここからが苦難の始まりです。何が起こったのでしょうか。

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灘高校合格者の半生 その四

 いよいよ入試の回です。合格は周囲にとっては青天の霹靂だったようですが、佐山さんにとってはどうだったのでしょうか。第4回目のインタビューです。

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灘高校合格者の半生 その三

 第3回ですが、今回は高校受験の時期の暮らしぶり、勉強ぶりについてインタビューします。

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灘高校合格者の半生 その二

 佐山さんに小学生の時代のお話を伺いました。今回は、中学受験から高校受験が始まるまでの時期についてのインタビューです。

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灘高校合格者の半生 その一

 これから数回に分けて、佐山さん(仮名)の学生時代の経験についてインタビューしたいと思います。佐山さんは灘高校に入学しましたが、途中で転校し、大学は早稲田に進まれています。少し変わった経歴をお持ちなので面白いと思います。特に受験生をお子さんにお持ちの親御さんには参考になるかもしれません。

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2009年10月 4日 (日)

最近のお母さんは・・・ 理不尽な問い

 知人のブログで、神戸花鳥園はすごく楽しめる所だと言うので、シルバーウィークに家内と三男とで出かけて行った。花鳥園とあるが、フクロウや熱帯の鳥が間近に見られて、鳥の方がメインであると感じた。
 それはよいとして、入場するときに入れ違いに出て行こうとする家族連れがいた。夫婦とまだ幼い、三~四歳ぐらいの女の子だったが、母親が「何が一番面白かった?」と娘に聞いている。娘は返事しない。母親はしつこく問い続ける。詰問調である。娘は泣きだす。母親はそれでも問い続ける。父親は黙って見ている。
 こちらは気にはなったが、すれ違って入場してしまったので、その後どうなったか分からない。そのときには、こちらもそんなやり取りを聞かされて少々不愉快に思ったが、考えてみれば随分理不尽な問いである。年端も行かぬ娘にとったら、お父さんお母さんと一緒に来れただけで十分に楽しかったのではないか。家族なんてそんなものだろう。また、一度にいろんなものを見たら、どれが一番いいなんて選択できないのではないだろうか。にも関わらず、なぜ執拗に答えを要求したのだろうか。
 朝から用意をして、お金もかけて出かけてきた。体も疲れる。せっかく出てきたのだから、それに対する見返りがなくてはならない。はっきりとここが面白かった、楽しかったという答えが必要だったのだ。それなしに自分は報われないと考えたのではないだろうか。本来、親の愛情とは見返りを求めないものである。子供が楽しそうにしていれば十分だし、親だって楽しいはずだ。きっと、あのお母さんは楽しくなかったのだ。そして、お父さんも楽しくなかったのだ。だから、せめて娘には楽しいと言わせたかったのだ。それもなかったら、何の喜びも生み出せない、あっても意味のない家族に成り下がってしまうのである。実際、そんな家族が増えているのではないだろうか。何の生産も担わない家族が。

中川昭一氏死亡

 テレビや新聞の報道によると、自民党の中川昭一氏が亡くなったらしい。ニュースでは死因に触れられていないが、自殺の可能性もあるのではないかと思われる。(私の想像です)
 いわゆる「もうろう会見」で内外の批判を浴び、財務相を辞任した。さらに先の総選挙では落選し、再起の芽を摘み取られた。

 中川氏については、思い出させる光景が二つある。一つは、「もうろう会見」問題でマスコミの取材攻勢にあっているとき、中川氏の奥さんが、「頑張れ、頑張れ、日本一。」と声を掛けた場面である。これが、古典的な政治家の女房の姿のように感じて、ある意味感心したのだった。もう一つは、選挙に敗れて支持者の皆さんに(高齢の方が多かった)一人ひとり頭を下げて回っている光景だ。

 自民党が敗れ、中川氏の時代が終わった。自民党は残っているが、解党的出直しをしなければ復活はないだろう。真っ先に切り落とすべきは、中川氏のような古いタイプの政治家であったのだ。その歴史的役割を終えたのである。

神田知子さん 人気ボディビルダー

 女性のボディビルダーというのは微妙な存在である。女性の肉体はもともと丸みを帯びていて、そこに筋肉をつけてかつ脂肪を削ぎ落すというのは、男性化していくことであり、自己否定につながるという見方も多い。したがって、男性のボディビルでさえマイナーなスポーツである状況において、女性の場合はほとんど人目を引かない競技になっている。

 これが客観的な状況であるが、ボディビルファンの私にとっては女性のボディビルディングに対する抵抗感はない。トップクラスのビルダーともなれば、その肉体の完成度は素晴らしく鑑賞に堪えるものである。日本の若い女性は食事制限をして、とにかく痩せて細身の体にしようとするが、ただ細いだけでは魅力に乏しい。一定の筋肉が着いて、上半身下半身のバランスがとれている状態が望ましい。筋肉を着ければエネルギーの代謝を促進するので脂肪が着きにくくなる。また、定期的な運動は健康を促進する。さすがに競技者ともなれば、過酷な練習や食事のコントロールを強いられるので楽しい世界ではなくなるが、一般人のトレーニングは文字通り趣味の範囲のものであり、筋肉隆々になってしまう心配もない。

 女性ビルダーで有名な選手と言えば、水間詠子さん、西本朱希さんの二人が上げられる。90年代の代表選手が水間さんで、2000年代の代表選手が西本さんである。西本さんは元は空手の選手で、ボディビルを始めるのは遅かったようだが、スケールの大きな体で現在日本選手権を5連覇中だ。40歳を過ぎているが、ボディビルは練習次第でこの年齢でも十分に戦えるスポーツである。この二人とは別に、人気のあるビルダーと言えば、神田知子さんがいる。米国在住で、アメリカの大学の修士号を持つインテリでもある。非常にチャーミングな女性で、グーグルで検索すれば画像や動画でその姿を見ることができる。ホームページがあり、そのなかでブログも読むことができる。

2009年10月 3日 (土)

デブ・ブス・バカ

 最近のテレビ番組は、クイズとお笑い番組に埋め尽くされている感じがする。不況で広告収入が減り、製作費の安くつく番組に流れ、それが質の低下につながり、テレビ離れ、なかでも民放離れにつながっているという主張を読んだことがある。確かに、若手の芸人やタレントを使えばギャラは安く済むし、その他の費用もドラマなどと比べるとうんと少なく済むだろうことは業界の知識がない者にも容易に想像できる。そして、視聴率についても大外れはないだろうと思う。

 お笑いを見ていて思うのは、デブやブスで笑いを取ろうという芸人・タレントあるいは番組の企画が目立つことだ。たしかに、昔からそういう「笑い」はあった。しかし、まだ例外的、限定的であったように思う。また、その特徴を自らことさらに強調することなく、見る側に受け止め方を任せていたように思われる。
 デブ・ブスで売っているのは、森三中やハリセンボン、アジアンなどである。そう考えると、女性の方が多いのか。なぜ彼らがそういう特徴をネタにしているのか。一方、視聴者がなぜ面白がって見ているのか。いろいろな解釈が可能だと思うが、見ている側から考えると、程度の差こそあれ、自分より「劣った」ものとして見ているのではないか。自分に自信はないけれども彼らよりはましであるという安堵が生まれる。これが、美人でスタイルの良い人がお笑いをやっていたら、面白くないに違いない。姫ちゃんでも、ブスではないにしても美人とは言えず、キャバクラに勤めているからこそ身近に感じて受け入れられるのである。
 では、バカの方はどうかというと、いわゆるおバカキャラがもてはやされている。問題に対して頓珍漢な答えをして笑わせる。問題に対して窮してしまい、答えが出ないようではこのキャラは務まらない。タイミング良く、予想を外すような言葉が出なくては面白くないのだ。そういう意味では、全くのバカではない。スザンヌなどを見ているとそう感じる。とはいえ、見ている方は、自分でも分かるようなことを彼らは知らない、分からないということが面白いと感じるのだろう。
 いずれにしても、彼らがどうあろうとも、見ている方の態度が問われている。無意識に笑わされている自分に対し、今の「笑い」は何なのかという問いを発することがある。おそらく、そんなことを感じる人間はほとんどいないのだろうが、「笑い」にも社会的な要素があるから、無関心ではいられない。少なくとも、笑ってはいるけれど、多くは「笑わされている」という側面を知ってもらいたい。意図的に流される「観衆」の笑い声につられて知らず知らずに笑っていませんか。

 同じような、クイズ番組、お笑い番組を繰り返していると早晩飽きられるに違いない。そうなったらテレビ局は何を持ち出してくるのだろうか。今や、娯楽はテレビ以外にたくさんのものがある。面白くないものはあえて見る必要がない。放送時間を縮小するのか、もっと内容を薄くするのか。好循環は生まれそうにない。

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