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2009年9月26日 (土)

学力の低下について

 もともと日本の大学生は勉強しないという定説があり、私も自らの経験から判断してそれは間違いないと思う。もう三十年も前の話だが、結果的に見ると大学院に進んだ連中は試験前に限らず普段から勉強しており、就職していった連中は試験の前だけ俄かに勉強していた。比較的水準の高いと言われる大学でもこんな有様だったから、他は推して知るべしである。今は逆に、学生がまじめに授業に出るようになったと聞く。それは本当かどうか定かではないが、そうだったとしても、大学に入るまでの勉強が足りないために学力低下が進行していることは間違いないようだ。昔は、入試を突破するために相当な時間数を費やす必要があったので、そのなかで身に着く能力もあったはずだ。大学では、議論がまともに成り立つ程度には皆の考える力や話す力はあったのだと思う。

 小中学生の学力については国際的な資料があるのでそれを見れば分かるが、以前と比べて他国との比較で順位を落としている。これには、教える中身の問題とかける時間の問題があると思われる。内容の問題については近年見直しが行われて、削除されていた分野が復活するなどして教科書も分厚くなったようだ。この効果が今後出てくるのかどうか予想できないが、しばらくの期間非常に薄い内容で現場の授業が行われてきたことは事実だ。公立の中学のカリキュラムを見て驚いたのは、数学の授業が週に3時間しかないことだった。数年前の話だが、私立では5~6時間あったから半分かよと思ったものだ。これでは差が生まれるのも当然で、そのギャップを埋めるためには公立の生徒も塾へ行かなければならなくなる。私立の授業料よりは安いだろうが、かなりの出費である。
 このように、教育の内容が貧弱になり、それがまた時間の不足にもつながっていったのである。一方、高校生の自宅での勉強時間は著しく減少している。ある本によれば、校外学習時間がゼロという高校生が全体の60%もいるらしい。私も振り返れば、ゼロの日があったけれど、宿題程度はやっていたから、少なかったと思う。それにしても60%ということは、宿題を出さないか、やるやらないは任意になっているかのどちらかだ。このように見てくると、いずれ彼らを受け入れることになる企業にとっても、広く日本という国家にとっても由々しき事態だと言わざるを得ない。

 さて、学力の低下は、学習時間の減少が主たる原因と考えるので、なぜ勉強しなくなったのかを考えてみたい。この点については多くの論者がいくつかの角度から分析を行っている。新聞の記事で読んだり、関連する本を何冊か読んでいるので、そこにある論点を記憶に頼りつつ参考にし、また引用しながら自分の意見を語ってみたい。
 まず、児童や生徒が自ら学習を放棄したのではなく、時間を奪われたという問題設定をして始めたい。彼らから時間を奪ったものとして三つのものが考えられる。①携帯電話②テレビゲーム③インターネットである。携帯電話への病的なまでの依存がこどもたちに広がっている。会話やメールの返信に時間をとられることに加え、いつ受信するか分からない不安定さが集中した学習を阻害していると考えられる。テレビゲームは携帯化し、時と場所を構わずプレイすることができるようになった。ソフトも多数開発され、購買意欲をそそる宣伝活動もすさまじい。ゲームに奪われている時間も無視できない長さであり、以前なら学習にあてていた時間に浸食していることは間違いない。三つ目はインターネットである。これはゲームとは逆に中高と進むにつれ接続している時間が長くなっていると思われる。机に座るとまずグーグルやヤフーの画面が出てきて、ニュースを眺める。それからお気に入りの動画を見たり、音楽を聴いたりで時間をつぶす。テレビを見ている時間よりはるかに長い。なかなか教科書や参考書に手が伸びないのである。
 以上三つの阻害材料をあげてみた。実際、私の生活の中でも確認できる現象である。携帯電話は二男に当てはまるし、テレビゲームは三男のこと、インターネットは他ならぬ私自身である。以上、昔にはなかった三つのものが(強いてあげればゲームはあったが、初めは喫茶店でやっていたし、その後家庭にも入り込んだが、テレビに接続して行うものだったので家族から孤立することはなかった。)学習を奪う要因になっていることを述べた。それは今や親にも浸食しているので、これをやめさせろと言っても非常に困難な課題になるだろう。せめて、使う目的を明確にして、節度ある使い方を教えるしかない。

 他に勉強しなくなった要因はないか。先ほどよりも、もっと広く社会的な要因と言えるが、90年代以降の経済環境の変化の中で、学ぶ意欲を失ったという説である。バブル経済崩壊後、産業界は様々な負債を抱えることになり、構造改革と称してリストラを推進し、また新規の採用を絞り込んだ。その祭に生まれたのがロスジェネと呼ばれる世代である。今の子供たちとその親は、この現象を目の当たりにしているので、昔に比べると学習に対する意欲を失っているのである。逆に、そういう境遇に落ち込みたくない、落ち込ませたくないという家庭では、相当な費用を投じて生き残りに熱心だ。進学塾へ行き、中高一貫の私学に進み、難関大学へ入り込む。それで安泰というほど甘い社会ではなくなったが、それでも正社員になれる確率は格段に高いのは現実だろう。この連中は、相対的にはよく勉強する。しかし、絶対的な学力は知り合いの塾の先生に聞いても落ちているということだ。全体のレベルが下がっているから、偏差値は高くなるという理屈なのである。このようにして「意欲格差社会」とか「希望格差社会」とか言われる実態が生まれている。
 どうせ就職がないのなら、どうせフリーターになるのなら勉強しても仕方ないと思うのは、やむを得ないことのようにも思える。雇用の問題を抜本的に解決しようと思えば、まずは政治の力に頼るしかない。それに対応して産業界が重い腰を上げれば雇用はいくらか生み出されるはずである。とはいえ、それを待つまでもなく、いわゆる落ちこぼれという子供たちにも頑張ってもらいたい。しかし、そこから頑張るのは大変なことだ。私も経験があるが、分からない授業を長時間聞き続けるのはまさに苦役である。昔は、それでも席を離れて歩き回る生徒は高校にもいなかったから、じっと席に座り居眠りでもしているのが最良の対処法だった。周りに迷惑をかけなければ、それほど怒られることもなかった。確かに、授業は分かれば面白いのである。面白いまでいかなくても、苦痛ではない。分かればまた次の次元に進むことができる。好循環に乗ることができるのである。先に言ったようにここに乗り損ねたら復活は難しい。何か特別なきっかけが必要だ。いい先生にめぐり会って(学校でも、塾でもよい)その先生の教科が好きになり、それが分かり始めたら他の教科にも興味が湧いて、総合力が身に付いてくる。そんなことも少ないだろうがあるに違いない。

 時間を奪う要因、意欲を削ぐ社会状況について見てきた。最後に、内田樹氏の見解を私の表現が混じるかもしれないが、紹介して終わることにしたい。
 昔は家庭に「労働」があった。農家では、作業の手伝いがあったし、個人商店ではお店の手伝いがあった。一般の家庭でも、家事を手伝ったり、買い物に行かされたりしたのである。そして、それは賃労働ではなく、特別な代償はなかった。ご苦労さんというねぎらいの言葉と家族がそれによって救われるという実利があった。彼の行為は何ものかと「交換」されるものではなく、「贈与」されるものである。
 ところが、今はそういう労働はほとんどなくなってしまった。労働を通じて社会との関わりを学び自己を確立するというプロセスを消失した。これとは逆に、子供は小さい時からお金を持ち、おもちゃやゲームのソフトなどを買うようになった。先に、消費の主体として社会と関わるようになったのである。お金を持っていれば、子供でも大人と対等に相対することができる。少しわがまま言っても許容される。本来、子供は未成熟で中途半端な存在であり、一人前とは認められない存在だった。それが大きく変わってしまったというのである。
 子供は教室でも消費主体として振る舞う。学校に入ったばかりの小学生が、勉強して何になるのかと教師に問う。自分は席に座らされてじっとしていなければならない。この自分に何をしてくれるのかと要求する。苦痛と等価のものを何のためらいもなく要求するらしいのである。内田氏は言う。それに対し、勉強すれば将来こういういいことがあるよと功利主義的に誘導するのはよくない。何のために勉強するかは、答えなくてもいい問いであると。それは、どうして人を殺してはいけないのですかという問いと同レベルである。子供には分からない。分からないから、6年、3年、3年、4年と長い時間をかけて学ばなければならないのである。何か具体的な物と交換するために勉強するのではない。頑張ったらいい点が取れたとか、先生に褒められたとか、そういうささやかな報酬のために勉強するのである。あるいは、ただ決まったように学校に通い、淡々と時間をすごしているだけでよいのである。ところが、今の子供は、自分が少しでも価値を見いだせるもの、苦痛に耐えてでも聞くべきものと認めなければ耳を傾けないものらしい。
 話はそれるが、大学生の時代は、自分たちは消費だけして、生産しない階層として認識していた。だから、労働者にはいくらか引け目を感じていた。進学率がまだ低い時代には、「学生さん」と呼ばれ、これから社会を担う人として評価され、優遇された。その代わりに先ほど言ったように学生の側にも謙虚さがあった。時代は変わり、学生は掃いて捨てるほどに増え、その延長戦には多くのフリーターやニートがいて、尊敬されるどころか、場合によっては疎んじられるようになった。学生の方も働いていないことへの後ろめたさはないようだ。どこかで大事なものが忘れ去られたのであろう。学んだり、働いたりすることが、何の疑いもなく尊重される時代がもう一度必要になる。それがなくて、日本の再生はありえないのだ。

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