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2009年9月20日 (日)

「閉塞感」という言葉の保守性

 社会評論のなかで、「閉塞感」とか時代の「閉塞状況」とかいう言葉をよく目にするが、そういう認識は百害あって一利ぐらいしかないと思う。

 先が見えないことの憂鬱さを言いたいのだろうか。評論家や思想家と言われる人たちは、現状には悲観的であり、なかでも見かけ進歩的な人ほどその傾向が強いように思う。「見かけ」と言ったのは、現状を嘆くばかりで、この方向に行こうというビジョンを語らないからである。語れないのではなく、語らないのだと思う。彼らとて馬鹿ではないから、日本の将来についてあるべき姿を考えているであろうし見解も持っているはずだ。しかし、それを強く主張してしまうと世間が反応して賛否両論が自分に向かってくる。政治家ならば覚悟ができているだろうが、そうではないから曖昧な部分を残しておいて多くの人に聞いてもらいたい読んでもらいたい、あるいはテレビ局に呼んでもらいたい。そんな思惑が働くのではないだろうか。はっきり言う人は、大概マイナーな論者となっている。

 現状が楽観できないものであることに異論はない。しかし、具体的に問題点を掘り起こして、それに対する対策を進める必要がある。それは、政治のレベルでは政策として実行される。経済のレベルでは、企業が経営として実践する。大衆のレベルでは、生活の仕方の変更として現れる。変わろうとしない者には、働きかけが必要だ。このように社会を変えること、発展させることは日々の地道な実践の積み重ねでしかないのだ。なにか分からないが憂鬱だとか、ストレスがあるとかいって曖昧にし、この現状に対してくさびを打ち込むにはテロしかないというような物騒な発想を生まないためにも、閉塞感というような表現を使う論者は評価しないほうがよい。(言うのは自由だから、妨げないが。)

 前向きで、積極的な言葉の使い方をしたいものだ。言葉は考え方を表す。消極的な言葉は後ろ向きの考え方と行動を誘発する。

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