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2009年8月30日 (日)

「自由」とは何か 日曜の午後に考える

 これだけで一生を費やしてしまうほど重たいテーマで、しばし考えることはあっても深く追求することは避けている。今日は衆議院議員選挙の日で、それとこのテーマとを結びつける気はないが、他に用事がないので少し考えてみることにしよう。

 いきなり「自由」という概念を考え始めると、あまりに漠然としているので、機械的ではあるが、「経済的自由」「政治的自由」「文化的自由」の三つに分けてみる。今社会的に取り上げられるのは経済的自由だろう。そしてその主体は企業である。市場経済のなかで、どれだけ規制をなくして自由に活動させるかという議論で、最近ではサブプライム問題以来、緩和が行き過ぎだったという論調が支配的だ。一方、経済主体は企業だけではなく、個人事業主もあれば、雇用されている労働者もいる。かれらの自由とはなにか。それは、好きな商いができる、好きな職業を選択できることを意味している。しかし、これは一見常識的な見解だが、よく考えてみると一定の条件が前提になければならないことが分かる。それは、前者について言えば、商いを始めるための資金である。親から遺産を譲り受けたならいざ知らず、独力で始めるには何年かを犠牲にして資金の蓄積を行う必要がある。借り入れる方法もあるが、担保なしに個人に融資する銀行はあるまい。後者で言えば、一定の学歴と能力が不可欠になる。学歴を手に入れるには多くの時間と費用がかかることは自明のことである。仮に特殊な才能によって可能になる職業があるにしても、才能を磨くには金がかかる。レッスンなしに、才能は開花しない。
 ここまで、経済的な自由について簡単に考えてみたが、特に個人にとっては極めて形式的な「自由」であることが分かる。自由なんだから、どうぞお好きな道を選択してください。思い通りの生活を手に入れるかどうかは単純にあなたの意志の問題ですというわけだ。しかし、現実には、個人は非常に弱い立場に立っているのである。企業といえど、常に盤石であるとは限らず、経済社会の変動によって浮き沈みはあるが、個人に比べれば力があることは疑いえない。個人は、周囲に影響を与えるよりも、周囲から影響を受ける要素が圧倒的に大きい。受け身なのである。

 話を「政治的」自由に移そう。これは、言論・集会・結社の自由を意味する。たとえば、時の政権に対して支持する人もおれば、支持しない人もいるのはごく普通の話だが、それさえも思うに任せられない国家もあるだろう。ましてや、それを口に出して言う、人を集めて宣伝し、示威行動を行う、それを恒常的に行うために組織を結成することにまで至れば、反対勢力との軋轢も激しくなる。しかしながら、近代国家においては、内容はどうであろうとも(破壊的な目的を持たない範囲に限られるだろうが)認められる権利である。未だミャンマーのように軍政がひかれ、自由の制約された国家もあるが、比較的広く認められた権利ではあろう。注意する点は、これも個人の場合は発言する手段や場を持たない場合が多く、政党や各種の圧力団体に比較して不利だということだ。多少なりとも光明が見えるとすれば、インターネットの普及で個人の主張が発信され、世論を形成する道が開かれたということだろう。

 最後に「文化的自由」だ。これは、衣食住において制限を受けることなく、また芸術活動においての制約がない。男女の交際・婚姻・出産などにおいても本人の意思が尊重されるということである。これも経済的な自由と同じく、形式的な意味あいが強いと言えるだろう。「自由」から「権利」へと読み替えていかない限り、実質の自由を獲得することはできない。

 自由と言ってもいろいろな中身があり、比較的ましな憲法を持っている国においてさえもつねに保障されているのでもなく、形式に騙されることなく、その内実を追いかけていかなければ手に入れることができないのが自由である。したがって、自由とは、能動的に生きる人においてのみ生きた概念となりうる。逆に、施しを待っている人においては死んだ概念となり、その価値を喪失する。

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