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2009年8月16日 (日)

文芸春秋 昭和47年3月号

 お盆に実家に帰り、蔵の中を掘り返していると古い文芸春秋誌が出てきた。昭和47年3月号である。この時私は14歳だから、兄が購入したものである。この号では、第66回の芥川賞が発表されている。形式は今と同じで、選者の寸評と作品の全文が掲載されている。この回の受賞作品は、李恢成の「砧をうつ女」と東峰夫の「オキナワの少年」であった。作品名は知っているが、両者とも読んだことはない。

 興味を惹いたのは、作品ではなく、選者の顔ぶれである。37年前だから今と全然違うのは当たり前だが、すごいビッグネームが並ぶ。井上靖、丹羽文雄、大岡昇平、吉行淳之介、安岡章太郎、中村光夫など。ここまで偉い先生たちが集まると、逆にまとめるのに苦労するのではないかと思ってしまう。スバ抜けた作品があれば一致しやすいが、差がなければ好みも出てしまう。それはそれとして、これだけの選者が選んだ作品なら、受け止める側も納得性が高まるというものだ。選者が文学賞の権威を高めていると言えるだろう。

 文学賞の権威は、先ほど書いたように選者達の権威であるが、もう一つは受賞者のその後の活躍度合だろう。受賞を機に、いい作品が続けば賞の価値が高まる。逆に、最近でもよくあるのだが、その後鳴かず飛ばずであれば、あの賞も大したことがないという評価になってしまう。そもそも文学賞の目的は、有能で将来性のある書き手に賞を与えることにより、励まし、活躍の機会を与えることにあるのではないかと考える。そういう意味では、受賞した側の努力が足りないという捉え方もできるが、しかし、力量の足りない書き手が話題性が先行して選ばれてしまった場合などは、少々気の毒に思えてしまう。川上未映子の場合も、今後が苦しいのではないかと心配してしまう。

 芥川賞など特に権威のある文学賞は、受賞者の将来まで見越した選定が必要なのではないか。新人に贈られるものは、過去の作品を多く見ることができないのだから、限られた作品のなかに才能を見出さざるをえないので難しいが、今後の発展性の芽をたくさん含んでいるかなど、着目する点はあるだろう。そう考えると、文学賞はまず、選者の力量こそが問われなければならないことになる。

 

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