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2009年8月30日 (日)

SF映画を見て

 SFものはあまり好んで見る方ではない。現実離れした世界に興味が湧かないからだろうか。とはいえ、若いころはSF小説の方は冒険小説と並んで好んで読むジャンルであった。若いという要素もあるし、そもそも映画自体を観る機会が少なかったということもあり、文字に今の何倍もの想像力を掻き立てられたのである。
 タイトルは忘れたが、子供のころに読んだSF小説で記憶に残るものがある。どこかの天体へ探索に出かけた一隊が探索中にトラブルに巻き込まれ、故障した宇宙船一機と隊員一人を残したまま地球に帰還する。ところが、残された隊員が宇宙船を修復して先に地球に帰っていたという話である。書店でこの本が売られていないか何度か探したが分からない。ぜひ、もう一度読んでみたい小説である。

 ところで、今日の本題である。SF映画には、宇宙ステーションや天体にある基地などが舞台として描かれているが、皆立派な建造物で、コンピューター制御されていて人が少なく、全然生活感がない。建物を造るには、それなりに人手がかかるし、基地を維持するのにも労力は必要だ。しかし、労働者の姿は見えない。あるいは、見えたとしても場合によっては奴隷に働かせていたりする。随分未来の話なのに、古代の奴隷制社会を思い起こさせる。ついでに言っておくと、飽きずに戦争を繰り返している。そういう場面をメインにしないとストーリーにならないのかもしれないが、未来の物語と言っても要するに現実に縛られてしまっているのだ。小説の作者や映画の製作に携わる者は、その想像力が現実の枠の中から出ることができず、しかも現実の世界で見たくないものを削ぎ落としてしまっている。
 人類の未来は平和であってほしいが、いくら進歩しても日常の生活はきらびやかなものではなく、地味に淡々と進むのであろう。戦いも争いもないが、そこのある生活の喜びは平凡なものだろうと想像する。社会が成立する基礎には労働がなくてはならないし、個々の労働は社会の成立に不可欠のものとして評価されるし、当事者にもそのことへの誇りが持てる社会でなければならない。それでも、働くということは機械的に頭や体を動かさなくてはならない側面があるので、楽しいとか充実しているとかいう感覚は常に得られるものではないことを覚悟すべきである。とはいえ、人間はそんななかにあっても、生きるとはどういうことなのか追求することを止めないだろう。だから、芸術や信仰といったものは、易々と滅びるものではない。

 SF映画は、夢の世界を描くだけなのか。そういう作品ばかりではなかろう。あまりに現実的な見方をしてしまっては、折角お金を払って観ている映画が面白くなくなってしまうだろうが、すべてを受容するのではなく、なんかおかしいんじゃないかという感覚を持つことも大事だと思うのである。

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