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2009年8月17日 (月)

特別な日

 8月の6日、9日、15日は日本人にとって特別な意味を持つ日である。思想、信条、宗教を超えて厳粛に受け止めるべき重たい経験である。

 人間は、自分ではどうしようもない外からの力に翻弄されて生きてきた。外からの力のなかで最も大きなものは国家の力である。特に、戦争が勃発すれば、どれほどの人間がその人生を狂わされ、辛い目に遭遇しなければならないか。軍に召集され、戦地に向かう。大切な人との紐帯を切り刻まれ、残された人も同様に苦しむ。出征兵士は戦地で命を落とし、送り出した側も本国が戦場になって逃げ惑うことにもなる。私は、自分の子供を戦争に持っていかれることなど想像さえしたくない。どこに喜んで子を差し出す親がいるものか。彼らは動かされたのであって、自ら進んで動いたのではない。戦争は国家の論理である。民衆の論理ではない。

 原爆投下は避けられなかったか。そんなことはあるまい。日本の側からも、アメリカの側からも出来ることはあったはずである。遅くとも、沖縄戦での敗北後は戦の帰趨は決していたのであり、本土決戦など考えずに降伏しておれば広島、長崎の惨劇はなかった。アメリカの側も、なかなか白旗を上げない日本に業を煮やし、戦後処理を有利に運ぶため核を使ったのであるが、別の選択はありえたはずだ。起こってしまったことは取り返しがつかないが、そこから教訓を導き出すことにおいては、これからも大きな可能性が開かれている。

 戦争以外にも、運命を翻弄する外的な力は存在する。しかし、戦争が一番怖い。推進する側は「大義」を振りかざし、有無を言わせず国民を動員し、どうにも避けようがない。また、参戦は死に直結するものだからである。戦争なんて、もう起こることはないさと考えている人もいるだろう。しかし、こういうことは、いくら用心しても、しすぎることはない。戦争に向かう道は、いくら細い道であろうが、一本たりとも通してはならないのである。NHKの視聴者参加番組で、日本は先の戦争で核を持っていたら原爆を投下されることはなかったと主張する男性がいた。そんなことよりも、もっと早く降伏していれば原爆はなかったと考える方が現実的ではないか。投下される前に終結を図る冷静な国家があったならば、20万人を超える犠牲者はなかったのだ。

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