« 特別な日 | トップページ | 関西学院高等部の善戦 »

2009年8月17日 (月)

小説のなかの人間

 夏目漱石の小説を読んでいると、働かないで家の財産で食っている人間が少なからず出てくる。封建制社会から資本制社会への移行期には、そういう身分の人がたくさんいたのだろう。今でも財産持ちはいるけれども、遊んで暮らしている人は見かけない。金持ちもそれなりに働き、リタイアしてからのんびり暮らそうとするのが今日のスタイルのようだ。それは、財産と言っても、放っておけばあっという間に目減りしてしまうので、人生の多くを残している段階ではまだまだ増やす努力が必要だからだろう。もっと端的に言ってしまえば、金利があまりに低く、金利では食っていけない社会になったということだ。

 ところで、働かないで食っている人達は、一般の勤労者と違って風変わりである。妙に信仰心が厚く律儀だったり、逆に女たらしだったり飲んだくれだったりで道徳心に欠けている。帝政末期のロシア文学を読んでいると、地主たちにも同じような傾向があり、そこでは日本の文学よりもはっきりした特徴を出している。それは旧体制の規律が緩んでいるから、そういう極端な個性が出てくるのだろうか。あるいは、時代の特徴をそういう個性で表現しているのだろうか。いずれにしても現代の小説には出てこない人物像には違いない。

 それに対して、今の時代の流行りの小説に登場する人たちは至って真面目である。正規であろうが非正規であろうが労働者は決められたように真面目に働き、迷ったり悩んだりしながらも、平凡に暮らしている。悪いことをするといっても、せいぜい浮気ぐらいである。しかし、人間関係は希薄で、その生活は危うい。決して活き活きと生きているわけではないのである。

 そこでは、「悪」は表に出てこない。日常の生活の場で、人に悪態をついて混乱させるような性悪な人間は描かれない。決して正味の善人で満たされているのではないが、悪の要素は、たとえば、ネット社会の匿名性の中に埋もれていたりする。それがいつ吹き出し、爆発するか。そこに目を向ける文学もある。あまり見たくない世界であるが、現実にそれはある。昔のようにはっきりした悪ではなく、強い個性ではなく、平板でありきたりに見える人間のなかに沈潜する暴力の芽として存在している。秋葉原での無差別殺人事件は、いろいろな解釈ができるけれども、現代社会に特有の悪の形式なのではないだろうか。それは人格に備わった悪というよりは、何かに動かされている感じがする。

 世につれ、人間は変わる。無論、変わらない要素もあるだろう。だから古典を読む意味があるのだが、それだけで今人間の精神に起こっている現象を説明できるものではない。作家たちが、現代に生きる人間のどこに問題点を見つけ、同時にどこに活路を見出そうとしているのか。興味深いところである。

« 特別な日 | トップページ | 関西学院高等部の善戦 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 特別な日 | トップページ | 関西学院高等部の善戦 »