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2009年7月19日 (日)

得るものと失うもの

 何かを得るためには何かを捨てなければならない。個人でも組織でも広くは社会においても入れ物の容量は決まっていて、入れるばかりでは溢れてしまう。確かに、個人でも組織でも社会でも少しずつ成長していてキャパも大きくはなるが、最近ではその成長さえも危うい状況にある。

 個人のレベルで考えてみよう。限られた時間のなかで自己啓発に時間を割こうと思えば、他のことに費やす時間を削らなければならない。それは家族との団欒であったり、趣味の時間であったり、時には睡眠時間であったりする。新たに優先するものが出来た場合には、有限な時間の組み換えを行い、バランスをとり直すことになる。それは価値観の修正であり、ものさしの変更だと言うことができる。家族との時間を減らすような場合は、配偶者や子の理解を取り付ける必要がある。世間の様子が分かっている配偶者ならば多くを語る必要はないだろう。しかし、このように思慮深く事を進めることは誰にでも出来ることではない。人間、新たに手に入れるものには大きな関心を抱くが、失われるものには目を向けない。長く付き合ってきた彼女がいても、身近に感じのいい子が現れたら気を奪われることもあるだろう。そして、その子とどうやってねんごろな関係になっていくのか、そこにしか関心がもてなくなる。これまでの彼女と築き上げた関係は考慮することなく、逆に鬱陶しくなるばかりである。客観的に見れば、失うことも多いはずである。得るものより大きいこともしばしばあるだろう。

 例としてはよくなかったかもしれない。恋愛の場合は、当事者たちの得心の問題であって、周りがとやかく言うことができないからである。なかには説教する人も出てきて、そういう人間関係も捨てたものではないが、最後はどうぞ好きなようにしてくださいと突き放すしかない。他方、これが社会の場合はそんな単純な問題ではない。利害関係が現にあり、状況の変化や構造の変化が新たな軋轢を生むからである。分かりやすい事例として経済成長を取り上げてみよう。高度成長は日本人の生活を大きく変えると同時に、負の爪痕もたくさん残すことになった。都市住民を大量に作り出し、生活がより欧米化し、地域社会における人間関係も大きく変えていった。高層住宅に住み、自動車を手に入れ、電気製品を使い、温泉旅行に出かけ、デパートで買い物をし、ファミレスで食事をする。これらが、得たものであり、中流家庭の豊かさの象徴であった。失ったものは何か。自然であり、遊び場であり、地域社会であり、互助の精神であり、よい意味での民族の誇りであった。これらのことを総合的に評価するならば、すでに終わってしまったことは取り返しがつかないという事実も踏まえるならば、得たものの方が大きかったという答えを出すベきなのであろう。

 では、一定のレベルに到達し、停滞が始まり、同じ夢は二度と見ることができないと悟り始めた現在においてはどう考えたらいいのだろうか。もはや、一本調子の拡大はありえず、パラダイムシフトが必要であることは、事実を冷徹に見ることによってしか生き残りを図ることができない企業人に次第に理解されてきた。しかし、まだまだ変化の途上にあり、環境という名の下に新たなバブルが発生しており、そのことは環境という名の下の量的拡大だということができる。したがって、まだ時間がかかるかもしれないが、個人のところで言った、価値の組み換えとバランスの調整が避けられないのである。

 今大事なのは、何を捨てるかである。それが決まれば、新しい社会の輪郭が明確になる。間違っても、日本の強みにつながる文化的特質まで捨てることがあってはならないが。

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