目線と視線
目線と視線はほぼ同じ意味で使われているようだ。ニュアンスとしては視線の方が対象を凝視している感じがある。ここでは視線という言葉を使うことにしよう。
先日、森昌子の「22才の別れ」を絶賛した。歌が素晴らしかったからなのだが、加えて表情の作り方と視線の遣り方に感心したというか、ぞくぞくするものを感じたのである。彼女もプロであるから自然に出ているようなものではなく、計算された動きに違いないが、視線を落としたり、正面を見たり、視線を上げたりと、微妙に動いている。特に印象的な場面は、「17本目からは一緒に火をつけたのが昨日のことのように」と歌うところで、視線を上げて遠くに目を遣るシーンである。それは過去を振り返る目として実に有効であった。
本論はここからである。どこに目をやるか、何を見るか。これは人間にとって根本的に大事な問題である。なぜならば、それによって人生が変わってしまうからである。下を向いて生きている人間は、つまずくことはないが遠くに行くことはできない。前をしっかり向いて、やや視線を上げて遠くを見据えるぐらいがよい。たどり着く先はあなたが目標としている場所だ。いつ着くのか確かではなくても、確実に近づいていることは間違いない。逆に、目標を持たない人間は、よそ見しながら歩いているうちに迷子になる可能性がある。実はそんな人間が大半なのかもしれない。50年、60年生きてきて、一体自分はどこに来てしまったのだろうかと呆然とする。そしてまた、そういう人間は老いやすい。そんな人でも初志はあったのだろう。忘れてしまうのだ。不要なことは早く忘れるべきだが、肝心なことは忘れてはいけない。それこそ、朝起きた時に、自分の行先はどこなのか考えるぐらいでないと目指す方向に進むことができないだろう。
先日ある工場に出かけ、朝礼に参加したが、皆の視線が落ちていたのが気になった。何かしら元気がなく見えてしまう。実際そうなのだろう。前向きな、挑戦的な気持があれば前を向くであろう。とはいえ、そういう自分もうつむいて生きているかもしれない。鏡でもないかぎり、自分の姿は見えないのである。


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