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2009年7月 5日 (日)

思考の整理学

 外山滋比古さんの名著である。この本は1986年に筑摩から文庫で出版されたが、私が手にしたのは1年あまり前のことである。購入のきっかけは新聞広告であった。それまでも大手書店の文庫コーナーで何度か手に取ったことはあったものの棚に戻していた。新聞では、読者の声として、もっと早くこの本に出会っていればよかったと後悔の念が語られていた。それほどのものかと思いはしたが、買ってみることにしたのである。

 本の中身に詳細に触れることはしないが、ひとつだけ感心した部分を取り上げてみたい。それは文庫で、194頁から196頁にかけての文章である。そこでは、外山さん自身はそういう言葉を使ってはいないが、「現場知の可能性」について論じている。それは、私の外山さんについて持っていたささやかなイメージとは少し違った印象をもつ内容だった。そこまで論じられてきた内容も踏まえて、簡単にまとめると、「日本の教育は学校中心で、上から教えられる知識偏重の教育だった。たくさん記憶することが目的であり、試験もすでにある答えを貯えた知識のなかから取り出す形になっている。こういう教育では、自分で考える人、まだ答えのない問題にチャレンジできる人は育たない。このような教育の伝統のなかで、知識は本の中にしかないと思われている。学生時代には読書にいそしみ、いくらか議論を戦わせた青年も、社会へ出て本から離れると、とたんに知的でなくなり俗物と化す。しかし、これからは額に汗して働く現場から知や思考が生みだされなければならない。それはこれまでもあったのだが、価値がないと決めつけられたために育たなかったのである。仕事をしながら、普通の行動をしながら考えたことを、整理して、新しい世界を作る。これこそが主体的に生きる新しいタイプの人間像である。汗のにおいのする思考がどんどん生まれてこなくてはいけない。それを単なる着想、思いつきに終わらせないためにはシステム化を考える必要がある。」

 外山さんの主張には耳を傾けたい。現場の知がもっと重視され、体系化され、それが日本の強みになっていかねばならない。昨今の経済情勢を見ていても、その点では多くの人が同意するだろう。生産現場での技術的な知がある。組織における協働関係構築の知がある。互いの存在を認め、過度の競争を避け、共存共栄を図る知がある。そういった知を体系的に現場から組み立てる必要があるのである。心配なのは、企業が偏狭な姿勢をとって知の交流をせき止めてしまうことだ。また、労働者も企業内組合の制約の中で情報の発信に積極的にならないことである。非常に壮大な話になってしまったが、まずは、本をたくさん読んで知識を身に着け博学をめざす教養主義は捨て、「知は現場にあり」という考え方にシフトすることだ。

 最後に、外山さんの主張と加藤周一の主張とを比較してみると面白い。私は、基本的には矛盾しないと考えている。ともに、若い知識人の大きな部分が残念ながら見せかけにすぎないことを喝破している。社会へ出たとたんに多くの者の化けの皮が剥がれるという主張もおなじだ。ただ、これは外山さんが「知識人論」として書いていないので触れていないだけだと思うが、加藤は、「学生時代に学び、学んだことを自分の思想まで高めた者は、社会へ出ても決して揺らぐことがなく、生き続ける。」という趣旨の発言をしている。学校で学んだこと、本で学んだこと全般が無意味なのではない。言っていること、書いていることに対して真正面から立ち向かったかどうかの問題ではないか。そうやって掴んだ結論は簡単に消えはしない。職場でも同じで、起こっている現実に対峙しなければ知なぞ生まれてくるはずはない。

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