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2009年7月19日 (日)

千の風になって

 2年ほど前、日本人の死生観について加地伸行先生からお話を聞いた。メモを残していないので細かなことは忘れたが、日本人の死生観は仏教から来ているのではなくて、儒教の考え方が元になっているのだという。葬儀の進め方やお墓参りも儒教の影響を強く受けているということらしい。

 仏教は自然・社会環境の条件が非常に厳しいインドで生まれた。尋常でない暑さ、著しい貧富の差。そんな環境で生きていくことは、まさに現世そのものが地獄という観念を生んだ。したがって、死んでもなお現世に未練を残すことはない。仏教の考え方では、死んだ後お経をあげてもらったら、魂は位牌に移るそうだ。それから7日ごとにお経をあげてもらって49日目でやっとあの世行きとなる。しかし、お葬式を見ていると、出棺の時にはなお死体にすがりつき、死者に向かって語りかけている。死んでもなお魂が現実の世界をさまよっているという観念は儒教のものらしい。話は逸れるが、火葬にするのは暑い地域で、すぐに死体が腐るからだ。寒い地域は土葬が多かったそうだ。

 仏教では、死んだら輪廻のサイクルに入るか成仏するかのどちらかであって、魂がこの世に戻ってくることはない。お墓参りするのは、魂がまだこの世に残っていると思うからこそであろう。これもまた儒教的である。お彼岸やお盆の風習も同じことだろう。その時に魂が帰ってくるのである。さて、よく流行った「千の風になって」を聴いていると儒教の思想そのものだと思う。魂はわれわれを取り巻く自然のここかしこに留まっており、われわれを見ているという感覚である。

 あるテレビ番組で、「千の風になって」を聴いて、主人が亡くなった悲しみが和らいだという女性の手紙が読まれていた。これは、生と死の断絶を曖昧にしてしまうことでもある。そういう曖昧さは日本的であるかもしれない。本来、葬式をするのは死んだという事実を家族が確かめるための儀式であり、また世間に知らしめることにより残されたものがよりよく生きていくための環境づくりだと考えられる。そういう趣旨からすると、なお魂が身近にいるという感覚は、常に前を向いて生きようとする姿勢からは距離があるように思える。これからは生きることがなお厳しくなってくる。いつまでもめそめそしてはいられないのである。

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