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2009年7月29日 (水)

交わらない社会 格差の固定化

 格差社会という言葉はほぼ市民権を得て、ごく少数の論者を除いて保守の陣営でも認めるところとなった。すでに高度成長を経て形成されていた中間層からバブル後に相当の規模の集団が下層へと転落していった。また、ロストジェネレーションと呼ばれる若者の集団が終身雇用のエスカレーターに乗りきれず下層に合流していった。したがって、この格差社会の問題には、労働者のなかの二極化と世代間の断絶という二つの問題を含んでいる。後者について付け加えると、過去においても若者は所得水準が低く、それが青年運動の根拠となっていたが、それでもしばらく我慢すれば、終身雇用制のなかで徐々に給与が増えていき、その当人にとってみれば問題が解消してしまう構造のなかにあったのである。

 格差問題には今ある格差に加えて、その再生産という厄介な問題を含んでいる。言いかえれば、階層の固定化である。流動性に富んだ社会では富者と貧者との間に階層間の行き来があり、しかも成長期においては貧者から富者への上昇が顕著に見られた。その富者にとっては近くの貧者はかつての自分であり、自分の出自を見るという意味で忌避すると同時に懐かしき存在でもあった。どういう感情を持つかはそれぞれで違いはあるだろうが、兎に角近くにいたことは間違いないだろう。近くにいれば、いくらかでも連帯の可能性が残されていた。これに対し、階層が固定化されるとどうなるのだろうか。

 高所得の子弟は、相当の金額(それは時としてパート労働者の年収に匹敵する)を投じて進学塾に通い、名だたる進学校に進む。そして難関大学から大手企業へと昇っていく。これに対し、低所得者の子弟はそういうコースとは無縁であり、公立のなかでも底辺校と言われる学校に進む。そして将来の就職の道は厳しい。この二つの流れは途中で交わることがない。お互いに遠い存在として、特別に意識することなく生きる。生活のフィールドが全く異なっているのである。極端な対比かもしれないが、この傾向は今後ますます強まっていくのではないだろうか。ある意味、英国のようなはっきりとした階級社会になっていくのではないかという予感すらある。上流階級の子は、その階級独特の言葉を話し、独特のカルチャーを持つ。下流の子はまた上流に対しては閉じた社会を形成している。

 日本の場合はまだ格差の歴史は浅い。貧富の差がいくらかあることはやむを得ないとしても、互いに川の支流が流れ込むように混じり合う社会として在ることを期待したい。かつて、キング牧師はこう演説した私には、ある日アラバマ州が小さい黒人の少年と黒人の少女が小さい白人の少年と白人の少女の手を握って、姉妹と兄弟として親しくできる状況に変えられるという夢があります。」

 私は、日本の上流と下流の少年が、白い子と黒い子のように互いに差別の観念に囚われ、長い歴史の闘争なしには到底克服できないような深い深い溝に隔てられることを危惧する。

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