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2009年6月14日 (日)

自分自身の人格形成

 自分の人格の基本が作られたのは、小学校から中学校にかけての時期であると考えている。もちろん、高校生、大学生、社会人となっていく過程で付加された部分はあるものの、基礎はそれまでの時期に作られている。

 人生はいろいろな経験の積み重ねである。それは、感動や苦悩や思索の蓄積だと言うこともできる。小学生、中学生といえばまだ子供だが、その時期に非常に多くのことを感じ、考えた。ここで詳細に触れることはできないが、高校以降も多くのことを学び視野を広げたのも事実ではあるが、「外部の情報の受け止め方」「気分・感情の持ち方」「人への接し方」などはすでにほぼ形になっていた気がする。その中身について、いいとか悪いとかの評価はできないけれども、その部分はあえて言えば個性であって、いい結果にも悪い結果にもつながりうるものである。

 振り返ると、自分が出来上がる画期となるものは、平凡な毎日ではなく、成功や失敗という特別な出来事だと思う。特に失敗は影響が大きい。それは、今から思えば、未熟ゆえに生んだ失敗であり、大人の目線では許してやってもいい範囲なのだが、当人の受けた衝撃は大きい。これは誰にも覚えのあることではないだろうか。まさか私だけに起こった特殊な事件でもあるまい。誰にも、単なる思い出としては話せないことが二つや三つはあるだろう。そういう類の出来事である。

 能天気な割に感受性の強い少年だった。ぐうたらな割には倫理観の強い少年だった。差別には敏感だった。近所に在日の少年がおり、あからさまではないにしろ差別を受ける場面を目にしたことにも因るし、「コタンの口笛」というアイヌへの差別を扱った映画に影響されたことにも因るし、祖母が差別をしない人だったことにも因るだろう。また、マナーにもうるさかった。父が運転中に車窓からゴミを投げ捨てることが腹立たしかった。中学生のときには進んで列車の席は譲っていたし、老人が網棚に荷物を上げることを手伝ったりした。今に比べてずっと倫理的には高い意識を持っていたと思う。さらには、信仰にも関心をもっていた。高校の低学年のことであるが、お大師さん(御浜大日堂、真言宗)からお数珠を借りて首にかけ、徒歩で那智大社まで参詣に出かけたことがあった。普通の高校生がとる行動ではなく、親戚のおじさんから信心は大人になってからせよと説教されたことを覚えている。

 そういう少年にとって次に必要だったことは社会的な視点の獲得であった。目の前に起こることの善悪を判断するにとどまらず、その発生する要因について説明できる原理を知る必要があった。そして、それは大学で社会科学を学ぶことによってある程度満たすことができた。しかし、「大人」になっていくにつれ、感受性は弱まり、倫理観も薄まっていったように思う。よく言えば、社会というものを一定の距離をおいて見られるようになったのだろう。余裕ができたのかもしれない。もしも、あのまま純粋な少年のままだったら、自らを破滅に導いていたかもしれない。

 最近、封印していた少年時代の思い出に、少しずつ、恐る恐るではあるが目を向けるようになった。そこに自分自身の原点があるのだけれども、少しばかりいい加減な生き方が身についてしまった現在にとっては、帰るには相当厳しい原点だと言わざるをえない。もう不要だと思って蔵の奥深くに片づけてしまった参考書をひっぱり出してきて、一から勉強しなおすようなものである。70点でよかったものをもう一度100点を取れと叱咤激励されるようなものである。はたして、それが今後の私にとって必須のものであるかどうか。大いに思案のしどころである。

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