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2009年6月の投稿

2009年6月28日 (日)

本当にすごいやつ

 スポーツの世界に限るが、想像を超えたすごい結果を出すアスリートがいる。異なる種類の競技で選手を比較することは難しいが、二番手三番手の選手との力の開きや一つひとつのプレーの水準の高さによって判断することが可能である。

 本当にすごいと思うのは、プロゴルフのタイガーウッズである。これまでもニクラウスのように強い選手はいたが、ウッズのプレーは神がかり的である。素人目に見ても、ショットの正確性は抜群であり、そのことが時として驚く結果を招くことになる。ショットがよければ当然ピンに絡んでくる。そこまではプロであれば当然のプレーとして見られるレベルであるが、ウッズの場合はチップインしてしまったり、長いパットが入ってしまったりするのである。こういうプレーは、たとえプロの選手でもそうそう出るものではない。おそらく、推測ではあるが、精度が一定の域を超えると、こういう現象が起こりだすのである。仮にそれを黄金領域と呼ぼう。この黄金領域を持った選手が何十年に一度の天才と言われるプレイヤーなのだ。

 ゴルフ界では、ウッズには及ばないが、石川遼が天才の片りんを見せている。今日のミズノオープンで優勝した彼の16番にそのプレーが出た。連続OBでミドルホールを9打として首位に並ばれた彼だったが、16番でチップインイーグルで再度引き離し優勝を飾った。普通は並ばれたところで崩れるのであるが、そこからまた劇的なプレーがでることを考えると、やはり只者ではないということなのだ。

 他のスポーツでもそういう選手はあるだろう。私はサッカーには詳しくはないが、マラドーナは奇跡的なプレーをする選手だったと記憶している。バスケットの世界にはマイケル・ジョーダンがいた。プロ野球ではどうだろうか。大リーグの歴史には詳しくないが、ベーブ・ルースはすごかったのだろう。イチローはどうだろうか。すごいには違いないが、ぶっちぎりだろうか。現在絶好調で、私の限界説を吹き飛ばしているが、なお限界説を取り下げていない私の鼻を明かすなら、是非来期も「.350」を超えてほしい。3割そこそこに終われば、やはり人並みに衰える人なのである。

大局観

 ニュース番組にはコメンテイターという立場で事件、出来事に対し自分の見解を述べる役目の人が出演している。レギュラーとして置いている場合もあるし、ゲスト出演として何人かで回している場合もある。これは、司会者の見解だけでは見方が偏るということもあるし、司会者の見解は局の考え方として捉えられるので一定の制限を受けてしまうという事情もあるのではないかと考えられる。もっとも、直接的な狙いは、人気のある学者や評論家を出させて視聴率を稼ぐことにあるのだろう。

 そういう人たちのコメントを聴いていると、ありきたりで、それなら私でも言えるような中身だと思うこともあれば、なるほどそういう見方もあるのかと感心させられることもある。概して、前者の方が多い。事件に短絡的に反応するだけなら一般人でもできることで、多くの視聴者に向かって発言するなら、広い視野で、ある程度のデータも踏まえて発言すべきであると思う。例えば、殺人事件が起こり、そのやり方が凶悪で、しかも容疑者が少年だったりするとニュース性が高まり、番組で取り上げられることになるのだが、「いやあ、怖い世の中になりましたね。少年の心に何が起こったのか分かりませんが、二度と同じ悲劇を生まないために社会は真剣に考えなければなりません。」程度のコメントなら、あってもなくてもいいようなものである。もっとも、報道の中身が薄っぺらだとコメントのしようがないという事情もあってコメンテイターだけを責めるのは理不尽かもしれない。とはいえ、過去に類似した事件もあろうから、日頃から世の中の出来事に敏感であれば言い方はあるはずである。データから見れば青少年の凶悪犯罪は件数としては増えていないとか、質的にはこういう変化があるとか、社会的な背景として携帯電話やインターネットの普及が考えられるとか、地域社会における人間同士の接触の機会が減少しており原因としてはこういうことが考えられるとか、悩んでいる青少年へのカウンセリングの体制の問題があるとか、親の所得格差が少年達の生活格差を生み彼らの間に心の溝を作っているのだとか、そういう見方が加わるべきである。そういうものを付加価値という。

 近ごろ、大阪府の橋本知事や宮崎県の東国原知事の動きが頻繁に報道されている。知事たちの間で、地方に権限を委譲させるために政策連合を組み、総選挙に影響力を持つことによって政権党に圧力をかけようとする動きが強まっている。橋本と東国原は個人的な思惑も加わってか、積極的にその運動の宣伝役を買っている。これに対し、報道ステーションに出演していた日本総合研究所会長(他に多摩大学学長など多くの顔を持つ)の寺島実郎が、こういう趣旨の話をした。「中央対地方の構図を作り出し、マスコミを利用して選挙民に宣伝して、地方に権限を分捕ってくる動きを取っている。地方分権の課題はあるにしても、日本の現状を見ると中央政府が国家戦略を見失っており、国際政治の場で相対的に力を落としているので、中央の立て直しが重要課題になっている。そのような時に地方が強化されれば、さらに中央政府の弱体化が進むだろう。知事とはいえども、日本を支える政治家であるから、自分の行動が国民の将来に強い影響力を持つことを自覚して、目先の課題のために奔走することを自重すべきではないか。マスコミも彼らの行動を持てはやして、ことさら煽るようなことをしてはならない。」これを聴いて、真っ当な意見であると思った。私も、それまでは東国原らの動きを、かなり興味本位で見ていたのは確かだ。こういう指摘を受けて、司会の古舘伊知郎は少々渋い顔を見せていた。

 結論。大局的にものを見ることが大事だ。その時々の目先の課題(これそのものが意図的に作られていたり、焦点がぼけていたりする)に囚われて、基本的な方向性を誤ってはいけないのである。

 

2009年6月27日 (土)

愛読書

 よく雑誌などで有名人の愛読書が紹介されている。幾日か前にも雑誌「東洋経済」で財界人や学者たちの愛読書の記事を目にしたところだ。

 そこで自分の愛読書はなにかを考えてみた。その際に、まず愛読書の定義が引っ掛かった。自分なりに答えを出してみると、三つの要素が満たされる書であるとの結論に至った。「①内容に共感し、それが持続されている ②繰り返し読みたいという欲求が生まれる ③読もうと思えばすぐに手の届く場所に置かれている」の三つである。

 私の愛読書は、①「十五少年漂流記」(ジュール・ベルヌ) ②「阿Q正伝」(魯迅) ③「日本人とは何か」(加藤周一) ④「原因と結果の法則」(ジェームズ・アレン) ⑤「プロフェッショナル・マネジャー」(ハロルド・ジェニーン) ⑥「失敗の本質」(野中郁次郎ら) ⑦「ドイツ・イデオロギー」(カール・マルクス) ⑧「点と線」(松本清張) ⑨「思考の整理学」(外山滋比古)⑩「 未定 」 以上である。

 10大愛読書という形にまとめようと思ったが、10冊目が選びきれなかった。大塚久雄の「社会科学の方法」と丸山真男の「日本の思想」はかつて学んだ名著で、影響は受けたが、繰り返し読もうという欲求の点では不足であった。

 さて、9冊の愛読書であるが、比較的ありきたりというか、雑誌でもよく紹介されている本である。やや珍しいといえるのは、加藤周一の「日本人とはなにか」(講談社学術文庫)とマルクスの「ドイツ・イデオロギー」(岩波文庫)だろうか。前者は、戦後さほど日が経っていない時期に書かれた日本人論であり、これから日本の進む道をどうやって考えていけばよいのか熱く語っている。特に知識人のあり方については、非常に厳しい目で追及している。現在からも、帰るべき原点として読み返してみたい一冊である。後者は、歴史観、社会観の形成に大きな影響を受けている。本書は、断片的な文章の寄せ集めで、どのように構成するかが学問的な課題になるほど難しい書であるが、ところどころに歴史観の基礎になる見方が散らばっていて、その発見はまさに「目から鱗」である。

17歳の犯罪 痴漢考

 十代の少年が六十代の女性に痴漢行為を働いて逮捕されるというニュースを見た。見過ごすような小さな記事であるが興味を引いた。(最初に断わっておくが痴漢は犯罪である。加害者を擁護するつもりはない。しかし、それを受け止める側にはいろいろな対応がありうるということは主張したい。)

 報道によれば、少年は老女ばかりを狙っており、余罪は十数件にのぼるという。少年は、老女であれば触っても騒がれないと思ったと話しているようだ。ところが、実際には騒がれて捕まってしまった。誤算があったわけだ。これだけの件数を重ねたということは、それまでは騒がれなかったか、騒いだにしてもさほど大げさではなかったということだ。しかし、最後には騒ぐ女性に当たってしまった。そのような厳しい反応をする女性の存在を予想するほど世間を知ってはいなかったということなのだ。

 私が興味を持つのは、少年がなぜ触る相手を六十代で妥協したのかという点である。本当は若い女性を触りたかったに違いない。しかし、リスクが大きすぎる。それが分かる程度には判断力を有していた。でも触りたい。とはいえ、普通はここで思いとどまる。老女を触ってどこが面白いかと普通の男性は考えるだろう。そこをやってしまったのは、少年ならではの妄想のなせる業である。彼が触ろうとしたのは、生身の女性の胸ではなく、「胸なるもの」であった。日頃の妄想が結晶したところの、胸なる観念だったのだろう。だから、老女でも妥協できたのである。何度も女性の体に触れたことのある男性なら、抱かぬ欲望の形である。少年の場合は、あまりに純化された欲望の形式であった。

 ちなみに、触られて騒いだ女性への評価であるが、女性としての自覚を失わず立派であるという受け止めもできるし、胸を触るという程度に対しては少し寛容であってもよいのではないかという受け止めも可能だろう。どちらが正しいということはできない。一方の少年に対しては、犯罪に違いなく、それなりの責めを受けるべきであるが、正直言って男性として、また少年を子に持つ父親として、寛大な処分をお願いしたい。

O総裁の野望

 宗教法人KKの総裁であるO氏の顔写真を、時々新聞の広告で見かけることがある。彼がどのような人生を歩んできたかについて多くの情報を持たないけれども、現状を見ていると、恐らく自分の思い描いた通りに生きてきたのではないかと想像する。

 彼は、東京大学を卒業後、ある商社に就職している。その後退社し、宗教への道を歩き始めた。このまま企業に勤めても先が見えている、自分の才能をダイレクトに活かす場はないのだろうかと考えたに違いない。自分の能力に自惚れがあり、自己顕示欲の強い人間がとる行動である。選択肢としては政治の世界もあると思うが、大きな政党では下積みが必要であるし、草の根の活動などは余程確かな信念がなければ続くものではない。加えて、権力の中枢近くにたどり着かなければ、実利を得ることができない。その点、宗教は手軽である。何も縛るものがない。とはいえ、急速にかつ広汎に信者を増やそうと思えば、一定の体系をもった教義を準備する必要があるし、教祖としての才能も具えていなければならない。O総裁もすでに存在する教義に学び、そこから独自の世界を構築していったのである。

 詳しい過程は知らないが、今や信者は百万人と言われるまでに成長した。そして、政党を結成し、政治の世界に打って出た。シナリオ通りなのであろう。宗教団体である限り、直接的には信者に対する権威と権力を保持するにとどまる。社会に対する権力の保持と行使は、政治を必要とする。彼にとっての関心事は、信者の心の救済ではなく、社会を動かすことである。社会を国民にとってより良いものに変えることではなく、「自分で」動かすことを優先しているのではないか。そして、その思想の源泉は「我欲」である。それは、まさに、宗教者として真っ先に克服すべきものではないのか。そこにこそ、この宗教のまやかしが存在する。

2009年6月22日 (月)

柔道一直線

 小学生低学年のころ、テレビで桜木健一主演の「柔道一直線」を毎週楽しみに見ていた。柔道とはいうものの、まともな柔道ではなく、マンガをドラマ化した奇想天外な内容であった。最近はCGを駆使して、人間が空を飛んだり、恐竜が出てきたりと面白いけれどもリアリティーに欠けた映像を作り出しているが、昔の方が発想は面白かった。

 まじめに考えたらおかしな内容がたくさんあった。覆面の柔道家が現れたり、ピアノを足で弾く選手(近藤正臣だった)がいたりした。桜木扮する一条なおやの二段投げはあり得ない技で、一旦投げた相手に追い付いて更に腕を掴んで投げる技だったと記憶している。理屈としてあり得ない気がする。また師匠の鬼車の地獄車という技は明らかに反則技ではないか。

 まじめに考えるとそうなるのだが、そういうことを考え出してドラマにしてしまうところが面白い。見ている方も、もはや柔道だとは思っていない。別の世界を見ているのである。この系統では他に、バレーボールを題材にした「サインはV」があった。思い起こせばよき時代であった。

マニフェスト

   国民が、自分の国の将来はこうなってほしいという意志をもつことは非常に重要である。主権と言うのは、自分たちの運命は自分たちで決めることができるという意味だと解釈する。他方で、政党は国民に対して、短期・中期・長期のヴィジョンを示さなければならない。短期はより具体的な政策として、長期は大きな枠組みとして示すことになろう。しかし現実には、政策が右往左往して定まらない政党が多い。根本的な原理、価値観が存在しないからだろう。また官僚の意のまま動かされているという側面もあろう。政策的な関心が細かいところへ行けばいくほど官僚の出番になる。大枠が不明瞭なまま官僚に任せるので、結局官僚の政治への関与を招くことになるのである。それを避けるためには、大枠、原理を決め、それに沿って細かな制度を設計させなければならない。

 官僚の意のままになれば、机上で設計した制度が推進される。官僚も思い付きではなく、学校で勉強した社会政策的理論を支柱にするであろうから、制度の実施は仮説の実験的な意味合いを持つのである。社会的規模の実験は、失敗すれば多くの人を困難に陥れる恐れがある。そういう悲劇は歴史上多く見ることができる。やはり、どういう方向に進むかは国民に分かりやすく説明し、判断を仰いだ上で結論を出し、合意に基いたスタートを切るべきなのだ。その意味でも、政党は目先の勝利のためのまやかしのマニフェストではなく、自分が正直追求する理念の具体化としてのマニフェストを示すべきなのだ。

 もうすぐ総選挙が行われ、政権交代もかなりの確率で起こりうる情勢である。政権党に投票した国民は、公約が果たされなかったら怒るべきである。選挙が終わったら終わりではなく、つねに監視が必要だ。そのことで政治家も鍛えられ、政治のレベルが上がるのである。

2009年6月21日 (日)

一心不乱

 「一心不乱」 この境地を知るものは、多くはないだろうが、少なくもない。ひとつの目標に向かってひたすら邁進する。脇目はふらない。結果はともかく、そのプロセスは当人にとって幸福な過程である。結果も、概してよいものに終わる。必死に努力するものは必ず報われるというのが、私の信条でもある。とはいえ、目標を一つに絞り込む、また一つに傾倒することは思い切りの要ることなのだ。

 過去に一心不乱になったことが一回だけある。これ以外にも懸命に努力したことはあるが、まだ冷静でゆとりを残していた。あれは中学3年の時だった。ある高校に行きたいと思った。当時の私の実力では到底入れない学校だった。中学の中でも、成績は悪い方ではなかったが上位ではなかった。にも拘わらず、大胆にも志望した。決意してから入試までは3か月ほどしか残されていなかった。そこからが、「一心不乱」の始まりだった。塾へも行かず、家庭教師も付けず(裕福でなかったので考えもしなかったのだが)特に誰からも指導は受けず、自分で買ってきた参考書に向かうだけだった。毎日、朝5時まで勉強した。学校で居眠りもしたが、必死に我慢した。ああいうのは、気合のものであろう。気が狂った様な集中力だった。人間、思いたてば相当なことができるのである。

 そうやっているうちに力はついていった。やっているうちは分からないが、結果を見るとそう解釈できる。入試当日は、比較的冷静だった。人事を尽くして天命を待つとはこのような心境であろう。数学では、すぐに分からない問題があったが、気分転換にトイレに行かせてもらい、そのあとで解くことができた。英語の問題では、発音の選択問題が分からなかったが、よく似た二つのどちらかに違いないと思い、勘で一方を選んだ。これがことごとく的中したのである。これは、まさに神がかり的な出来ことであった。力以上の結果であり、周囲の逆立ちしても無理だという予想を覆した。非常に痛快であったが、15歳の少年にとってはあまりに過酷な挑戦であったことはその後の経過を見ても明らかである。

 周りの生徒達は、塾で鍛えられ、家庭教師に教えを受けた人たちばかりであったろう。そうでなければ簡単に受かる学校ではなかった。そこで、受験で疲れ切った少年が再度奮起して皆についていくことは厳しかった。そして、ついぞ、あきらめなければならない時がやってきたのである。頑張れば何とかなるものである。しかし、頑張った後には、ひずみが来る。それは覚悟しなければならない。いや、それは今だから言えることで、後のことなど眼中にないぐらい必死になることがなければ大きな成果は手にすることができないのだ。何かに憑かれたように熱中すること。それが、大きな成功をもたらす。ある意味、宗教的熱中かもしれない。

 人間は、時として、恐ろしい力を発揮する。

プロレスラーの死 三沢光晴氏逝く

 馬場・猪木の時代以来プロレスへの興味を失っていたので、三沢というレスラーの名前ぐらいは知っていたものの、その経歴は知るところではなかった。二代目タイガーマスクと聞いて思い出した程度である。死後、多くの報道を目にして多くのプロレスファンに愛されていたレスラーであることを知った。

 以前、プロレスはプロボクシングほど危険なスポーツではないと書いた。事実、プロボクサーは、ある記録によれば、日本でもこれまでに40人以上死亡している。それに対しレスラーの試合中の死は今まで聞いたことがなかった。十分に鍛錬し、乱暴には見えても一定のルールは守られて試合が行われているので事故は少なく、年齢が進んでも試合が可能なところがプロレスの特徴であった。小川直也氏のコメントでは、やはりレスラーがリング上で死ぬなんて考えられない。社長業での疲れなど特別な事情があったと考えるのが妥当だろうと訴えている。

 小川氏の説も説得力を持っている。レスラー自体が体を使う仕事であり激務である。年がいけば疲労も蓄積するに違いない。そこに社長業が加われば、トレーニングの不足、試合後の休息の不足が加わって他のレスラーとは互角に戦えない事情が生じる。そこの事情が分かっているレスラーは多少の手加減をするかもしれないが、興業を進めている社長の立場は当然それを許さなかっただろう。そう考えてみると、社長レスラーゆえの悲劇と言えるのではないか。

 冥福を祈りたい。

会社の捉え方

 会社の捉え方は、国によって違うし、時代によっても違うのではないだろうか。たとえば、アメリカと日本では違うだろうし、同じ日本でも高度成長期と現在とでは違うだろう。また、同じ現在でも製造業とサービス業では違いが出るだろう。

 柳井正氏が、自らの著書の中でこう言っている。「会社とは本来、つねに実体がなく、非常に流動的で、永続しない可能性の強いものなのだ。・・・会社とは一種のプロジェクト、期限のあるもの、と考えるべきではないだろうか。」流通業であり、バブル期以降急成長してきたユニクロの経営者らしい見方だと言えるだろう。会社を機能的に捉えていて、アメリカ的であり、現代的である。従業員は成長に合わせ増大しているし、入れ替わりも激しい。組織形態もどんどん変わっている。氏が、実体と捉えない根拠がそこにある。

 逆に、古くから存在している製造業はどうだろうか。高度成長期を経て成長し、多くの設備を有し、終身雇用制度によって社員の入れ替わりは少なくなっている。こういう会社では、仲間意識が強く、それは疑似共同体として家族にまでおよんでいる。目に見える形で大掛かりな設備が存在し、それが今後も存在するだろうと思われている。こういう企業では、会社が実体として捉えられるのである。

 私の勤務先も製造業である。まだ全社員会議が成立するほどの規模であり、名前は全部覚えられないにしても顔はお互いに知っている関係にある。もっと大きな企業に比べれば家族的な雰囲気があり、お互いの生活を守るために協力して会社を発展させたいという意識を共有している。会社は生活・人生の基盤なのであって、まさに実体のあるものと思念されるのである。たまに中途で入社してくる社員がおり、なかには大企業からの移籍組もいるが、その人達からは今までとは違った感覚を持たれていると思う。その人たちの考え方は、基本的に社員と社員の関係は仕事を通じた関係であり、仕事を通じて人格を評価するのである。しかし中小企業では、仕事に入る前に、人として相手を認める。だから、「できない」社員にも居場所が与えられるのである。

 業種や規模で事情が違うだろう。実体としてあり、お互いが認め合い、永続的な発展を望むのも一つのあり方である。流動的機能的で、社員は頻繁に入れ替わり、いろいろな仕事を経験し多くの能力を身に付けていく、そんな会社も一つのあり方である。どちらがいいとは言えないが、社会の変動は後者を多く生み出す流れにある。ただし、それは働く者の身分を極めて危うくさせる危険性に満ちたものであることも事実なのだ。

2009年6月14日 (日)

自分自身の人格形成

 自分の人格の基本が作られたのは、小学校から中学校にかけての時期であると考えている。もちろん、高校生、大学生、社会人となっていく過程で付加された部分はあるものの、基礎はそれまでの時期に作られている。

 人生はいろいろな経験の積み重ねである。それは、感動や苦悩や思索の蓄積だと言うこともできる。小学生、中学生といえばまだ子供だが、その時期に非常に多くのことを感じ、考えた。ここで詳細に触れることはできないが、高校以降も多くのことを学び視野を広げたのも事実ではあるが、「外部の情報の受け止め方」「気分・感情の持ち方」「人への接し方」などはすでにほぼ形になっていた気がする。その中身について、いいとか悪いとかの評価はできないけれども、その部分はあえて言えば個性であって、いい結果にも悪い結果にもつながりうるものである。

 振り返ると、自分が出来上がる画期となるものは、平凡な毎日ではなく、成功や失敗という特別な出来事だと思う。特に失敗は影響が大きい。それは、今から思えば、未熟ゆえに生んだ失敗であり、大人の目線では許してやってもいい範囲なのだが、当人の受けた衝撃は大きい。これは誰にも覚えのあることではないだろうか。まさか私だけに起こった特殊な事件でもあるまい。誰にも、単なる思い出としては話せないことが二つや三つはあるだろう。そういう類の出来事である。

 能天気な割に感受性の強い少年だった。ぐうたらな割には倫理観の強い少年だった。差別には敏感だった。近所に在日の少年がおり、あからさまではないにしろ差別を受ける場面を目にしたことにも因るし、「コタンの口笛」というアイヌへの差別を扱った映画に影響されたことにも因るし、祖母が差別をしない人だったことにも因るだろう。また、マナーにもうるさかった。父が運転中に車窓からゴミを投げ捨てることが腹立たしかった。中学生のときには進んで列車の席は譲っていたし、老人が網棚に荷物を上げることを手伝ったりした。今に比べてずっと倫理的には高い意識を持っていたと思う。さらには、信仰にも関心をもっていた。高校の低学年のことであるが、お大師さん(御浜大日堂、真言宗)からお数珠を借りて首にかけ、徒歩で那智大社まで参詣に出かけたことがあった。普通の高校生がとる行動ではなく、親戚のおじさんから信心は大人になってからせよと説教されたことを覚えている。

 そういう少年にとって次に必要だったことは社会的な視点の獲得であった。目の前に起こることの善悪を判断するにとどまらず、その発生する要因について説明できる原理を知る必要があった。そして、それは大学で社会科学を学ぶことによってある程度満たすことができた。しかし、「大人」になっていくにつれ、感受性は弱まり、倫理観も薄まっていったように思う。よく言えば、社会というものを一定の距離をおいて見られるようになったのだろう。余裕ができたのかもしれない。もしも、あのまま純粋な少年のままだったら、自らを破滅に導いていたかもしれない。

 最近、封印していた少年時代の思い出に、少しずつ、恐る恐るではあるが目を向けるようになった。そこに自分自身の原点があるのだけれども、少しばかりいい加減な生き方が身についてしまった現在にとっては、帰るには相当厳しい原点だと言わざるをえない。もう不要だと思って蔵の奥深くに片づけてしまった参考書をひっぱり出してきて、一から勉強しなおすようなものである。70点でよかったものをもう一度100点を取れと叱咤激励されるようなものである。はたして、それが今後の私にとって必須のものであるかどうか。大いに思案のしどころである。

あいだみつを の日めくり

 家のトイレにあいだみつをの日めくりが掛けてある。1日から31日まであって、繰り返し使えるタイプのものだ。昨日13日には、「自分が自分にならないで、誰が自分になるか」という言葉が書かれていた。これをどう解するか。結構、難しい。単純に解釈すれば、自分という人格は自分で育てるもので、人をあてにしてはいけないということだろう。

 自分は、生まれ出た時から自分である。外部から区別される、孤立した個体である。意識の上からも、ものごころが着いた時から自分になる。自分という意識(これを自意識とか自我とかいうのか)は、他者(他者の目)を意識するところから生まれると考えている。何らかの理由で周りから注目される人には、自分について考える機会が生まれる。特別な才能を持っている人。親が特別な地位に就いている人。特別な境遇にある人。などなど。それが、どういう方向に自意識の成長を導くのか、断ずることはできない。ケースバイケースと言う他はないだろう。好意的な評価に答えて順調に育つ場合もあれば、それに反発して自ら成長の芽を摘む場合もあれば、全く予想しない方向に進む場合もありうるだろう。否定的な評価に対しては、それへの反発をバネとして、多少の偏狭さも含みつつ成長を遂げる場合もあるだろうし、マイナスの評価の重圧に屈して歪んだ自意識を許してしまう場合もある。理想を言えば、それぞれの自意識、自我の成長が、社会発展の方向を向いており、発展をさらに促す力になってほしい。しかし、実際は、生身の人間は現社会の到達点を示すものであって、今ある状態を受け入れるしかないのである。

 人間の意識や心理は外からは見えないものである。感じても言葉にできるとは限らないし、言葉になってもそれを口にするとは限らない。人を教育によって成長に導くということは重要な課題ではあるが、一人ひとりの生い立ちや現在の環境、本人の特性などを踏まえて個別のプログラムを組むことは不可能であり、そんなことをやっている学校は聞いたことがない。一定の決まったパターンにしたがい教育を提供し、何か特別な事態が発生した場合に親身に対応できればいい方である。結果的には、どんな境遇に置かれるかによって人間の意識の方向性は決まるのだと思われる。ただし、このことは自らの意識的活動の可能性を否定するものではない。外的な条件が、思っている以上に桎梏となるであろうことを指摘しているだけである。

 外的な条件のなかで最も決定的なものは、家庭環境だろう。家族構成、親の職業、収入などが人格の形成に与える影響ははなはだ大きい。それは、身近な人を見ていて時々感じる時がある。事細かく観察しているわけではないので、ざっくりした想像だが、この人はきっと権威主義的な親に育てられたのだろう。権威主義的と言えば、恐らくこういう職業に就いていたのであろうと勝手に推測している。本人にもそういう自覚はあるだろう。おおよそ、自分がどういう人間かは分かっているものだ。ところが、それを自ら変えていくのは簡単なことではない。出発点は、勇気をもって自分の弱さを表に出して周囲の人にも共有してもらうことだろう。

 さて、あいだみつをに戻ろう。今、題材として使った日めくりには他に30の言葉が書かれている。そのなかには、なるほどと腑に落ちるものもあれば、合点がいかぬものもあれば、曖昧で解釈できないものもある。いずれにしても、いったい何が言いたいのだろうと考える契機になるという意味では有益である。あまりにも考えることの少ない生活の中にあっては、なおさらである。

2009年6月13日 (土)

べッツィ&クリス 白い色は恋人の色

 北山修作詞、加藤和彦作曲で1970年に大ヒットした曲である。その時、私は小学校5年生から6年生にかけての時期で、よく歌謡番組で耳にしたので鮮明に記憶している。歌ったのはベッツィ&クリスという金髪の少女二人組であった。

 この曲のヒットは企画の勝利と言えるだろう。今でさえ、ジェロが注目を浴びるぐらいだから当時としては、西洋人が日本語で歌うことは非常に珍しいことだったのである。しかも高度成長で少しくたびれかけた日本人に対し、郷愁を誘う歌詞が魅力的であり、二人の澄んだ歌声はその詞によくマッチした。おそらく、日本人が歌っていたらこれだけのヒット曲にはなっていないだろう。生活感のない清らかさが、却って日本人の胸を打つことになったのだと思う。

 確か、ずいぶん時間が経過してから、おばさんになってしまったベッツィとクリスがテレビに出ていた。できるならば、そういう姿は見たくない。青春の思い出は、古いままの思い出にして残しておきたい。そういえば、太ったおばさんになった朱里エイコが踊りながら歌っている姿をなつメロ番組で見たことがあったが、あれば痛々しかった。他の出演者も高齢で、声も出ないし、昔の映像を流して懐かしむ企画に変更してほしいと思ったものだ。同じように、野球のマスターズリーグも選手を見て懐かしむことには意味があるが、プレーそのものは見られるものではない。

 また白い色は恋人の色を聞きながら寝ることにしよう。この歌がこれだけ記憶に残る歌になった理由を探しながら。

 

本末転倒

 最近、目的と手段の転倒について考えさせられることが多い。当然のことながら、目的が最初にあって、それを実現するために手段が選択され活用されるのである。論理的にその説明が正しいし、実際にもそうありたいのだが、目的が忘れ去られ、あるいは最初から曖昧なまま手段が幅を利かし、それを使うこと自体に意味があるかのような錯覚が多くの人に生まれている。

 村上龍は、その著書「無趣味のすすめ」のなかで、次のような趣旨の意見を述べている。毎年、何千万冊という手帳、スケジュール帳の類が書店に並ぶが、何のために買うのか。スケジュール管理は、やりたいことがたくさんあって、それに優先順位をつけることから始まる。やりたいことがはっきりしない人には、スケジュール管理の必要性自体生まれないのである、と。

 安田佳生は、近著「検索はするな」で訴えている。現代人は、仕事で何か分からないことがあるとすぐにインターネットで検索しようとする。仕事は、入試のように答えが用意されていない。落ちているものを探すように答えを探しても見つけることはできないのである。答えは自分で考えて作りださなければならない。インターネットの普及でますます考えることをしなくなった、と。

 野口悠紀雄は新聞紙上でこう意見を述べている。自分はパワーポイントを使わない。大事なことは、自分の言いたいことをいかにして人に伝えるかである。パワーポイントをプレゼンに使う事が多いが、そのことによって聴衆の目が画面に引き寄せられ、発言者から注意が逸れてしまう。自分は、自分の話を聴いてほしいのである。自分の伝えたいことを聴いてもらうのが目的なので、その目的に邪魔になるものは使わない、と。

 三人の意見はもっともである。とはいえ、このように広範囲に本末転倒が起こっていることには原因があるに違いない。ひとつは、先ほどから手段と呼んでいるものは、大量に商品として流通し、持っていないと時代遅れのように言われるということがある。すなわち、われわれは手段に支配されてしまっている。目的について深く考えない方が、却って商品は売れるのである。会社では、社員にインターネットが使える環境が用意される。それには、仕事に必要な情報を集めなさい、現状を知るためにニュースを見なさいという期待が込められているが、使う方は目的を自覚できないまま画面を開けてしまっている。そして、なにか画面を見ているだけで仕事をしている気になるのである。このように溢れる手段の塊から、自分に必要な物を選び出して使うには、基本に返り、目的をしっかり自覚することが必要だろう。皆、したいこと、伝えたいことがあるだろうか。結構、何も考えず、惰性で生きている人が多いのではないだろうか。いったん、パソコンのスイッチを切って、眼を閉じて考えてみようじゃありませんか。

2009年6月 7日 (日)

平野啓一郎 「顔のない裸体たち」

 はじめて読んだ平野啓一郎の本である。秋葉原の無差別殺人事件で、その内容がよく似ているということで反響を呼んだ「決壊」には関心があったが、今まで手に取ることもなく過ぎた。昨日紀伊国屋書店で文庫を見ている時に、たまたま新潮文庫の平野啓一郎の棚の前に立ったので、何冊かの文庫本を目にすることになった。

 そのなかに「顔のない裸体たち」という作品があり、長さも一日で読むには適当だったので買うことにした。詳細な内容は要約するだけでも際どい中身になるので避けるが、インターネットを媒介にした人間関係や自己顕示の欲望が、匿名性が背景にあって異常化していく危険性を表現している。もう少し具体的に書くと、出会い系サイトが媒介する男女関係や露骨な投稿写真の問題などである。

 その気があれば誰でもすぐに入っていける社会であり、現実の人間関係が希薄になればなるほど、また、まともな思慮を欠けば欠くほど引き込まれる危険性の高い社会であるので、注意が必要である。他ならぬ自分自身もそうであるし、自分の子供にも気をつけなければならない。

 平野啓一郎は初めて読んだが、文章は書ける人だと思った。大学在学中に投稿した作品が、いきなり芥川賞を受賞したので、並みの作家ではないのだろう。こんな表現ができるんだなあという部分がたくさんあった。現在の、若い作家の小説を読むことにより、今ある社会の問題を知ることができる。このネット社会の問題もそうであるし、フリーターの生活実態や生活感情などを知ることは大事である。

バブルは起こる

(せっかく書き上げた文章がトラブルで消えてしまった。非常に悔しいが、再度書くことにする。もとの文章をそのまま再現することはできないが。)

 私は経済理論も金融理論もまともに勉強したことがない。また金融商品、金融派生商品と言った類のものに興味がないので、個人的動機からもそういった情報を収集する習慣がない。経済新聞や雑誌から断片的な情報を得るだけである。しかし、そういうなかにあっても、見たり聞いたり、生活の体験のなかから分かってくる事実がある。今日は、そのなかの一つをここで述べてみたい。

 機関投資家というものがある。生命保険会社、投資銀行、年金組合などである。こういう機関の存立は預かった資金を運用で増やすことが前提となっている。もちろん、預けた側にもリスクを負わしているので、利益が出なければ即崩壊というわけではないが、運用実績がなければ、そもそも資金は集まらないだろう。運用の利回りは、詳しく調べていないので分からないが、たとえば3%というような金利よりはるかに高い設定になっているはずだ。この数字を見て、率直に感じるのは、実体としてある経済の成長率より大きく上回るものだということだ。実体としての富は、人間がコツコツと働いた分だけ増加する。それに対して、資産は「運用」によってどうしてそれだけ増加するのだろうか。

 もともと、投資とは、事業を起こす企業に資金を提供し、企業活動の結果生じた利益の配分を受け取ることを期待して行われるのではないか。その時の技術革新の成果も取り入れて新しい事業を考え、労働者を雇用して操業すれば大きな利益を実現することが可能だった。ところが、経済革新も一定のレベルに達すると、そうは簡単に「儲からなく」なる。そうすると、資金は少しでも利益の期待できるところがあれば、一気にそこに集中することになる。かつての日本のバブルがそうだった。高騰が高騰を生み、その過程で巨額の利益を手にするものが現れた。しかしバルブは崩壊する。自ずと損をする者が現れる。実際、この私もそのうちの一人である。不便な場所で高い家を購入し、高い金利で長期に渡るローンを背負うことになった。私のような勤労者は全国に数百万人発生したと推測される。われわれは、働いて得た所得のかなりの割合をローン返済に充てなければならない。この本質は、バブルによって価値、価格を操作することにより、勤労者の労働の成果物を未来に渡って掠め取ったということである。

 以前に、アジア通貨危機という事態が発生した。このときは海外の資金が大量に流入し、通貨が高騰した。そしてある時一斉に資金が引き揚げられ、通貨が暴落した。マレーシアや韓国などの国々が、この危機の脱出に苦労しなければならなかった。これも一つのバブルであったが、この場合はアジア国民の労働の成果物を海外資本が略奪したと考えることができる。市場経済のシステムのなかで、合法的(ほんとにそうか?)に富の移転を実現させたのである。

 東京大学の岩井克人教授に言わせると、貨幣そのものが、投機という性格を持っている。人は物が欲しいのではなく、貨幣を欲するようになる。貨幣を貯え、それを増やそうとする。株や債券の短期的な売買で増やす、商品の先物取引で増やそうとする。儲かるところに次々と資金を移動させようとするのだ。これが市場経済の不安定さを生む。いや、不安定さこそが「投機的資金」の利益を増やすのである。したがって、今のシステムが続く限り、バブルはなくならない。岩井教授は、資本主義は本質的に不安定なものであるが、これに代わるものはないという。次第次第に危機を深めるのは分かっているのに、代わるものがないというのはどういうことなのだろうか。

 経験的にではあるが、なかり真実に近いところが分かってきた。これを原理的に解明しようと思えば、学問の世界に足を踏み入れなければならない。しかし、残念ながら多くの時間を割くことはできない。勤労の合間をぬって、少しばかり勉強しようと思う。何か解明したいことが生まれた時に、その手段となるのが学問だ。すべての学問がそうだとは言えないが、すくなくとも社会が対象である学問が「目的」になっているのであれば、それは本物ではない。

2009年6月 6日 (土)

自己啓発本

 自己啓発本なるジャンルがある。書店でも結構なスペースをとっている。私も一時、このジャンルの本をたくさん読んだ。その結果分かったことは、この手の本はいくら読んでも役に立たないということだ。その結論を手に入れるために多くのお金を使ったことになるのだが、それはそれで大きな成果だと思っている。

 こうすれば成長する、成果が上がる、効率がよくなるという情報を得たところで、次のアクションに結びつかなければ何事も変わらない。情報はすぐに忘れてしまう。本を読むことで満足してしまう場合がほとんどで、結果的に読むことが目的だったということになってしまう。確かに、ジェームズ・アレンの「原因と結果の法則」などは読むだけで気持ちが落ち着くので、お香を焚くのに等しい効果があり、そう割り切れば目的にもなりようがあるが、本来は読むことで何かをつかみたいのだ。

 自分の行動を変えたいと思ったときは本などに頼らないことだ。一から、自分のしたいことは何なのか、自分のしなければならないことは何なのかを考えるとよい。もっと具体的に言えば、仕事でよい結果を出すにはどうしたらよいか、ゼロベースで考えるのだ。他人の材料を使っても具体的な話にはならないので、あくまで自分の目の前の材料で料理をするのである。30歳にもなれば相当な知識やノウハウを身に付けているはずである。自分の力で一定の結論が出ると思うのである。何も出ないとすれば、それは知識の不足ではなく、意欲の欠乏である。意欲がなければ、何も生まれない。

 どうしたら意欲が湧くのでしょうか。難しい問題だね。しかし、人間には「欲」があって、何もするなと言われると、かえってじっとしていられなくなるんだ。ふつう、休みには大した意味がなくても雑誌を開いたり、音楽を聴いたりして時間を過ごすでしょう。何もしていないと不安だからね。それをしばらく何もしないで過ごすと決めて実行してみたら。私は昔、病気で療養していた時期があって、はじめは何をする気力もなくなっていたが、少しずつ回復するにつれて何かをやってみたいというエネルギーがみなぎってきたな。若いほどそういう復元力があるんだと思う。一度、何もしない時間を作ってみよう。

守備位置から

 何事にもセオリーというものがある。先ほど野球の守備位置について考えていたので、それを材料にしてみたい。どのチームも深い浅いの違いはあっても、ほぼ同じ角度に守っている。これは長い野球の歴史の中で、統計的にもっともアウトにする確率が高い、もしくは最も少ない塁打に抑える確率が高い位置に定まってきたのだと推測する。素人が野球をする場合でも、だいたいこの辺りで守るのだということが経験的に分かっている。しかし、結果は思い通りにはならない。投手と打者との力関係によって、統計的に出ているデータとは異なった方向に打球が飛んでいくからである。

 優秀な打者の打球は野手の間を抜けていく。野球の専門家ではないので詳しい技術論は分からないが、軸がしっかりしていて速いスイングができれば強い打球が飛ぶ。そうすると、統計的に見て例外的な結果へと導かれることになる。長嶋茂雄は天才的な打者で、スイングスピードの速さでは超一流だった。投球を読まずにボックスに立っていたと言われるが、それでも結果を残せたのはスピードのなせる技であろう。そういう長嶋も次第に体力が衰え、晩年は並みの選手になってしまった。打球が正面をつくようになり、ゲッツーの場面をしばしば見た記憶がある。

 これ以外にも野球にはいろんなセオリーがある。随分昔の話だが、高校野球の試合を見ていて気がついた。ランナーのいる場面で野手が投手に球を返す時に、一方のチームは投手の近くまで走って行って球を渡していたのに対し、他方のチームは離れたところから山なりで返球していた。その時は3塁に走者がいたので、投げ損ねて走者を返してしまうのではないかと心配した。野球に詳しい人にとっては当たり前のことだろうが、選手でさえ基本が身についていないこともあるのだと感じたのである。これ以外でも、深い守備位置で落球し、無理に一塁に送球し暴投になり、走者を2塁に進めるという場面を見たりすると、そういう場合は無理な送球をしないというのがセオリーなのかと思う。プロでさえそういう場面を目にするので、ミスをした時の精神状態では普通の判断ができないのだろう。

 確率を求めるならば、セオリー通りに事を運ぶのがよい。長期的に考える場合は特にそうである。奇策を用いて短期的な成果を上げても、長い目で見ればプラスにならないことがある。会社の経営であれば、理念をしっかり守って短期的な利益に目を奪われないことだ。野球の場合のように1対1の戦いではなく、ライバルはいるにしても、顧客に向かってどういう仕事をするのか考えるのが事業なので、よいと信じたことを愚鈍に進めるしかないのである。

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