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2009年5月10日 (日)

吉行淳之介のこと

 高校生、大学生の時代に好んで読んだのが吉行淳之介だった。小説よりもエッセイの方が多く出版されており、私が読んだのもエッセイ中心だった。大半が男と女の関係にまつわる話でしかも「大人」の視点から書かれており、若者が読むに相応しい内容ではない。私には多少年寄りじみた嗜好があるのだろう。

 吉行氏は安岡章太郎や遠藤周作らと交友があり、かれらはまとめて「第三の新人」と呼ばれていた。安岡も遠藤もエッセイを書いており、お互いの行動や発言を交友録として書きあうことで飯の種にしている部分があった。彼らは皆、政治的な問題に対し直接発言することはなかったと思うし、社会的な問題から距離を置くことにより、個の内面に焦点を合わせていたと思う。やや内向的な傾向が強いと言えようか。

 吉行氏はフランス小噺をネタにすることが多かった。非常に面白いのであるが、これを面白いと思う人は日本の社会ではマイノリティーかもしれない。文学趣味のある人間、そういう意味で余裕を持った人にしか受けないように思う。ここで例を挙げることはことはできないが、私としてはお勧めである。

 先ほど男と女の関係にまつわる話と言ったが、その例を出しておこう。映画のシーンなどで、砂浜で男が女を追いかけるシーンがある。私が欲しかったらつかまえてごらんと言ってか駆けだすのである。しばらく走ると、つまずいて女が倒れる。男は女の上に覆いかぶさって結ばれてしまう。吉行氏は、これは女の策略だと言う。女は男との距離を測り、適当な場所でわざと倒れる。計算された罠だというわけだ。これは象徴的な場面であるが、男と女の関係は大概そういう風に流れていくのである。これは随分男にとっては都合のよい解釈だと女性から反撃を食らいそうだ。しかし、これは解釈の仕方であって、男も大抵は騙しているつもりなのではあるが、振り返ってみると俺が騙されていたのではないかという疑いを持つのである。現在でもまだ、女の人生は男に左右される傾向が強いが、その分男を騙せる能力を授かっているのだろう。次第に女の能力も権利も拡大し、対等になってくると関係が中性化して、駆け引きといったもののない、淡白な関係になるのではないかと案ずる。対等になることは歓迎だが、面白みはなくなると思う。それが新しい時代には必要なのだと言われたら、我慢するしかないが。というより、年齢から言えばもうそんなことはどうでもいいのかもしれない。嫁さんから捨てられないように努力するのが関の山だ。

 最後に、吉行氏は晩年に平和運動に控えめではあるが参加した。それに対して、あんな真面目な男を騙して運動に引き込んだという内容で批判をした文人がいたが、それは間違いだろうと思う。彼は、長年距離を置きつつも社会の動向に目を向けていたのであり、その結果最後になにかしたいと素朴に思って行動したのだと理解している。誠実な人であった。

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