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2009年4月29日 (水)

プロレスのこと

 プロレスをテレビで毎週見たのは小学生の時代である。そのころは国民的英雄だった力道山がすでに亡くなっており、ジャイアント馬場の時代になっていた。曜日は忘れたが夜の8時から試合が中継されており、レスラーに対する花束贈呈とか試合の合間の三菱掃除機の宣伝を思い出す。中継は家族全員で見ており、それはスポーツを見るという感覚ではなく、文字通りひとつのショーなのであった。馬場さん以外では後に新日本を立ち上げるアントニオ猪木、吉村道明が記憶に残る。外人レスラーではザ・デストロイヤー、フィリッツ・フォン・エリック、ボボ・ブラジルなどが思い出される。

 馬場さんは優秀なレスラーであると同時に実業家だった。若いころは巨体にも拘わらず動きが俊敏で、特に32文のドロップキックは迫力があった。晩年は加齢とともに動きが悪くなり、16文キックは相手から当たりに来ているのが見え見えの様であった。経営の哲学も持っており、読書家で、レスラーの面倒見もよかった。アブドーラ・ザ・ブッチャーの手記を読んだが、全日本プロレスは地方の巡業を主体に興業を行っていて、日本のレスラーも外人レスラーも一緒に(バスは別々だったようだが)移動していた。夜は馬場さんが率いて全員で食事に出かけ、よく御馳走になったそうだ。プロレスは興行であり、レスラーたちはいわば仕事仲間なのである。したがって、相手に怪我をさせたのでは仕事にならないから、重い怪我をさせない範囲で技をかけなければならない。それが暗黙のルールになっていたと思われる。そのルールのなかで、反則も含め、試合が進んでいくのである。何事もルールなしでは成り立たない。

 全日本、新日本以外にも国際プロレスの中継があった。他の団体より地味で、中継される会場も静かだったように思う。ストロング小林以外では、力道山と同じように角界出身の豊登が参戦していた。腕を振って脇の下をパコパコいわせるしぐさが付き物だったが、あれは何の意味があったのか未だに分からない。あれで外人レスラーを威嚇できるわけでもあるまい。外人ではビル・ロビンソンが参戦していた。英国出身の紳士を売り物にしたレスラーで実力もあった。フェアなレスリングをすると拍手が沸いた。それほど外人は悪役を演じるパターンが定着していたのだ。しかし、いろんな売り方があるものだ。

 今は違った流れもあるが、格闘技ではないからレスラーたちにも凄みはない。デストロイヤーは渋谷で見かけ、ラッシャー木村は高田の馬場ですれ違ったが、普通のおじさんであった。これに対し、新宿で見かけた極真空手の中村誠には殺気を感じた。昔のプロレスは2日に1回ぐらい試合をしていたが、空手はそんなに試合はできない。ボクシングでも多くてせいぜい月1回である。チャンピオンなら年3~4回だ。

 以上取り留めもなく、プロレスの思い出を語った。ついでに、下ネタになってしまうが面白い話を一つ。

 ボボ・ブラジルが巡業で九州を回っていた時の話。「ボボ」という音は、この地方では女性の体のある部分をさす。「ボボ・ブラジル来る」というポスターを見て、外人のストリッパーが来日していると勘違いして多数の男性が駆け付けた。しかし実際はプロレスの興行だったので、話が違うと大騒ぎになったそうである。これは、聞いた方もおられると思います。当然作り話でしょう。まじめに考えるとおかしい。普通、体育館でストリップはしないでしょう。

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コメント

コメントありがとうございます。先生とは同じ世代だから同じような記憶と言いますか、思い出があるんですね。経済の成長期で、だんだん豊かになっていく感覚があったし、希望を抱くこともできた。一番幸福な世代ではないでしょうか。とはいえ、これから子供たちにとってもっといい時代になってほしいですよね。

三菱掃除機の宣伝、思い出します。昔の番組は、不思議とそのコマーシャルとともに覚えていますよね。確か「風の藤丸」?というのは、藤沢薬品がコマーシャルしていたのを覚えています。昭和30年、40年代にてれびにコマーシャルを出せば、反響はすごかったことでしょうね。今は、塾の広告など入れてもなんの反応もなし。とはいえ、口コミというのは、待っていてもだめで、こちらから口コミが起こるようなシステムを考え出さないといけないし。

 プロレスが輝いていたころが、日本にとって一番いい時代だったのではと思ってしまいます。

 

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