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2009年4月 4日 (土)

死刑について

 最近マスコミに殺人の被害者家族が取り上げられることが多くなった。そこでは、彼らの、極刑を望む声を聞いたり読んだりすることができる。私は、あまりに被害者家族の生々しい姿や心情がマスコミに(特にテレビ)露出することは好ましくないと考える。昔は、そういう立場の人は表には出ず、息をひそめて暮らしていたと思われる。最近は、マスコミを媒体として自己主張したいという人が増えた。訴える心情は、自分をその立場に置いてみると理解できるけれども、当然のことであるが、死んだ人は帰ってこないし、殺人者が死刑になれば亡くなった魂が救済されるというような教義をもつ宗教は聞いたことがない。してみると、死んだ人の問題ではなく、残された者の、まさに心の問題なのだと言うことができる。

 被害者家族の心のダメージは想像を絶するものであろう。当然ながら、本人には全く責任はない。傷んだ心は、社会的にその回復を援助されなければならない。そういう問題は残る。しかし、心の救済は、殺人者を死刑にするという手段によっては果たされないのである。死刑が執行された後の被害者家族の声を、まだ聞いたことがない。いくらかでも救われたのだろうか。

 世論はマスコミに動かされやすい。家族の声に影響を受けて、死刑を容認する世論が増えても不思議ではない。世界的には死刑を廃止している国が多く、また廃止に動いている国もあると聞いている。日本の動きは少数派である。私は冷静に論議をして、国民の標準的、一般的な意思を明確にしていくプロセスが必要であると思う。裁判の判決は、法を基礎にしながらも過去の判例に従って下されるそうだ。裁判官個人には、それぞれ独自の価値観があり、それは否定されるべきものではない。(ただし、あまりに異質なものは排除されるべきである。そこの線引きも難しいが。)しかし、個人の価値観に基づいて判断したのでは、常軌を逸した判決が出る。過去の判例に従うというのは、裁判官の暴走を止める防波堤にはなるだろう。マスコミが騒ぎ始めたからと言って判決を変える必要はない。今まで通りの判決を下した裁判に対して、弱腰だとか、自己保身だとか言って攻撃するのは間違いである。

 繰り返すと、死刑をどうするのかという問題に、被害者家族の心情が影響を与えることを危惧する。被害者家族の心の救済は社会的に支援されなければならないが、それは多分に宗教的な意味合いを持ってくるであろう。殺人者の命を、公権力によって奪うことで救われるほど単純な問題ではない。

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