« 自分は普通? | トップページ | マネーゲームの終焉 »

2009年4月19日 (日)

宗教についての雑感

 私は信仰を持たないが、信仰の自由は保障されるべきだと考えている。宗教団体の活動についても基本的に規制は加えるべきではないと考えるが、明らかに破壊活動を行っているものやその準備を行っているものは取り締まってよいだろう。教義そのもののなかに、破壊的な活動を容認したり誘発する内容があれば非常に危険ではあるが、それだけでは取り締まりは難しい。思っているだけでは犯罪にはならないだろう。

 世の中にはおびただしい数の宗教団体がある。調査によると、日本には非公式なものも含めると20万団体以上存在しているらしい。また発表されている信者数を総合すると2億人を超えるそうだ。水増ししているのである。20万以上の団体があって、どこにそんな教義の差があるのだろうか。素朴にそう思う。教義を一から考えて組み上げていくのは大変な作業だ。概念を作り出し、それを一定の論理性をもって体系に組み立てるのは大掛かりな作業になる。昔の偉大な僧は、何十年もかかって教義を作り出したのである。そうすると、そんな偉い人が20万人以上もいたとはとうてい思えない。おそらく、既存の教義を少し変えただけのものか、体系化されない稚拙な教義しか持たない団体が多いのだろう。既成の団体に所属していたが、幹部が気に入らないだとか、他の信者と上手くつきあえないだとかいうレベルでの理由で飛び出して自分で始める人もいるだろうし、最初から功名心で始める人もいるだろう。とはいえ、頭で考えましたでは説得力がないから、お告げを受けたとか、臨死体験をしたとかいう話を作って教祖である自分を神格化しなければならない。20万余りのなかには、相当インチキな団体も多いに違いない。

 悪口ばかり書いたが、もちろん立派な団体も存在する。中身が立派であれば、組織も大きくなるのは当然だ。平和運動に参加したり、環境問題に強い関心を持つ団体もあって、そこでは、他の団体との協調性も保って欠かせない主体としての存在感を示している。それは評価されなければならない。しかし、宗教団体も組織であるがゆえに、長く続けば、また大きくなれば保守化していく。教団幹部の世襲が行われたり、運営資金を確保するために無理な活動が要求されたり、布教よりも信者の数の確保が目的になってしまったり、他の組織にも共通する傾向が生まれてくるのも事実である。問題が表に出ることは少ないが、噂で耳にすることはある。

 ところで、信仰とは何か。仏教が馴染みが深いので、その例を出すが、法然以降念仏を唱えることで救済されると説いて仏教が大衆化した。私は仏教を詳しく学んでいないので細かいことは分からないが、念仏を唱えるだけならどこでもできる行為ではないか。一方で、本尊というものがある。念仏とはいえ、本尊に向かって唱えなければご利益(これも世俗的な言い方だが)はないのか。本尊は唯一絶対的なものか。実体のあるものか。絶対的なものなら世界に一つしかないはずだ。なんでもいい、紙に念仏が書いてあればいいというのなら、形だけでいいことになる。それもありだろう。宗教は科学ではないのだから、間違っているということにはならない。ただ、同じ宗派内ではAさんの言っていることとBさんの言っていることが矛盾なく整合されなければならないだけだ。本尊は形式であって、仏に向かって唱えること。心の持ちよう、行為の仕方が重要だという考え方もありである。その方が近代的でもある。信仰が個人の心の問題になっている。そのようにして新しくなっていけばいいのである。確かに、そうなるとさかのぼって教祖の考えに抵触するかもしれない。そのときは、権威の喪失をもたらすだろうが、勇気をもって捨てればいいのである。それができないのなら、根本である大衆の心の救済という目的から組織が逸れてしまっているということではないのか。

 宗教も宗教団体も自由であっていい。人類の幸福の実現、人類の発展のための力を生み出す宗教なら歓迎もする。しかし、抗争をもたらしたり、破壊を生む宗教はまっぴら御免である。

 

« 自分は普通? | トップページ | マネーゲームの終焉 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 自分は普通? | トップページ | マネーゲームの終焉 »