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2009年4月の投稿

2009年4月29日 (水)

笑いについて

 お笑いは大好きである。子供のころから大好きである。東京の落語、大阪の漫才と言われる。その評価は的を射ているが、東京の漫才もいいし、大阪の落語も捨てたものではない。私は学生時代に東京に住んでいたので東京の演芸にも親しみがある。新宿の末広亭には何度か足を運んだ。寄席には色ものといって、落語以外の漫才や曲芸などの出し物がある。今ではテレビで若手の漫才をイヤというほど見ることができるが、そのなかで寄席で育ったコンビは少ないと思う。ちなみに、ナイツは内海桂子師匠の弟子である。ベテランでは、あした順子・ひろしや昭和のいる・こいるがいる。かつては、コロンビアトップ・ライト、Wけんじ、青空千夜・一夜、獅子てんや瀬戸わんやなどがいた。また、ビートたけしもツービートを組んで漫才をやっていた。今日、You Tubuで、てんや・わんやを見たが、テンポが素晴らしい。昔でもあれだけのテンポがあったのだと感心する。ホントに達者な漫才師だったなと思う。しかし、大阪の人には馴染みが薄く、少し受け入れられにくいと思う。それは東京弁が大阪の人には違和感があるからだ。大阪の演芸番組にたまに東京から招待されて出演があったが、皆やりにくそうだった。テレビによく出ている芸人は全国的に馴染みがあるが、寄席の芸人は地域に密着しているので、違う文化のエリアでは厳しい面があった。

 私自身も若いころから冗談が好きである。職場でも冗談の出ない日はまずない。特別意識はしていないのだが、無意識に会話の中で冗談を思いついてしまう。そうなったら言わずにおくのが苦痛なぐらいだ。冗談は健康によい。特に精神によい。精神が病むのを防ぐ予防薬である。精神の病、最近ではうつ病が目立っている。周囲にも何人かいる。以前は、肉体と精神は別々だと考えられていた。しかし精神もまた肉体の働きである。詳しく勉強したこともないが、精神とは脳の働きである。精神的なストレスが続いたり、激しい衝撃を受けたりすると脳に物理的な「傷」ができるのだと思う。それが浅ければ、いわゆるストレスの解消というやつで癒えるのだろう。冗談も多いに役立つ。ところが傷が深くなると、長期の休養や投薬、カウンセリングなどを組み合わせないとなかなか回復しないのである。おそらく半年は裕にかかるだろう。昔は、そういう病気にかかる人は甘えているのだという言い方がされた。確かに精神的に弱い人が、「傷」を持ちやすい。しかし、一旦かかってしまった人間に強くなれと叱咤してみても始まらない。ゆっくり時間をかけて治すしかないのである。

 笑いがいちばんという番組があった。一番かどうかは分からないが、笑いの効用は大きい。職場ではなおさら必要な気がする。冗談ばかり言うなと言わないで、大目に見てもらいたいものだ。

 

オンリーワンとは言うけれど・・・

 SMAPの「世界に一つだけの花」がヒットしたのが、2003年から2004年にかけて。ナンバーワンでなくてよいオンリーワンでいいじゃないかという主張が社会に広がっていった。

 今年息子が高校を卒業したが、卒業式で校長先生がこの歌について話をされた。卒業生に贈る言葉を考えている時に、SMAPのこの歌を思い出したということで、一人ひとりによい面があるのだからそれぞれの個性を大事にして頑張ってほしいという内容だった。それに加えて、この歌が小泉政権の時代(2001年から2006年)にヒットしたことが大変意味のあることだと言われた。しかし、どういう意味があるのかについては言及しなかったと記憶している。

 私が思うに、校長先生は非常に大事なことに気がついたのだが、その本質にまで行きついていなかったのではないか。小泉政権は日本にグローバリゼーションの波を一気に持ち込もうとした。内橋克人氏がいうには、グローバル化の3つの性格は①規制緩和②資本行動の自由③税制のフラット化である。民間にできることは民間に任せようじゃないか。規制緩和を進めて古い社会を壊そう。自己責任でやっていこうじゃないか。そういうことが毎日のようにテレビで訴えられた。その是非はともかく、その政策によって競争による敗者がたくさん生まれることは計算できた。そういう状況でヒットしたのが、「世界に一つだけの花」だったのである。

 一人ひとりがその個性を発揮し、社会に貢献し、正当に評価され、お互いに尊重しあうことのできる社会が理想であると私は思う。一人ひとりがオンリーワンパーソンでありたい。だが、現実はそうではない。フリーターがたくさんいる。派遣労働者がたくさんいる。そしてそういう職からも追われている。家計の不足を補うためにパートに出る主婦と自分の収入だけに頼らざるをえない非正規雇用者とでは違う。自分から求めた境遇ではなく、もっと有利な職に就きたかったが、やむを得ず非正規労働者を選ばざるをえなかった人は非常に厳しい。それでもいいじゃないか。そういう生き方も悪くはない。自分らしく生きようよ。そういうふうに思わせるために、このオンリーワンの歌が流行ったのなら、問題じゃなかろうか。なにも流行歌ごときにそんな難しい問題を持ち込まなくてもいいではないか。歌は世につれるが、世は歌にはつれないのではないか。そういう主張もある。基本的には、世は歌にはつれないと私も思う。しかし、一定の影響力は持つ。文化政策は国家にとって低い位置づけのものではない。歌の流行は市民社会の出来事だけれども、それをいろんな形で国が利用することはできるのである。この歌が実際に、具体的にどう人々の意識に働きかけ、非正規雇用に対する抵抗感を無くしていったかの過程を私は分析し、説明することができない。私は、そういう風に感じるだけである。しかし、あながち間違いではないと思っていることも事実だ。

 今の変化がすべて悪だと思っているのではない。変化にはきわめて多様な要素を含んでる。変化の過程で、これまで悪習として残っていた要素を捨て去ることができるだろう。それは一つの進歩だ。しかし、変化の全体を見ると否定的要素が目立ってしまう。私は否定されるべき要素に対して、一つひとつ対案を示せるわけではない。だから、本当の意味での革新者ではないだろう。できることは、自分の基準に従って、今を積極的に解釈し、いくらかの意思表明を行うのみである。

 ちなみに、自分の基準とは、主権は国民にあること。働く者が社会の基礎を形作っていること。労働こそが富の源泉であること。これまで働いて社会を発展させてきた人たちは手厚く処遇されるべきこと。働きたくても働けない弱者は無条件に救済されなくてはならないこと。能力ある者は、その能力を出し惜しみせず、社会のために使うべきこと。企業は財の生産、サービスの供給の場として今後も必要であるが、社会的責任を果たせなければ市場から退出すべきであること。以上である。

村上龍 「無趣味のすすめ」

 幻冬舎から発刊された、村上龍の「無趣味のすすめ」という本を買った。これは村上氏が「ゲーテ」という雑誌に連載した内容をまとめて単行本にしたものである。文章の量としては少なく、字も大きいので文庫本にしても薄いものになると思うが、単行本で出して数年して文庫にするのが通常のやり方である。しかし、量は少なくても中身はまずまず、1200円分は十分あると思う。一番感心するのは、書いてある中身よりも文章のまとめかたである。これはブログを書く時の参考になる。伝えたいことをだらだら書かずに短いセンテンスで表現している。結論も上手に付けて締めくくっている。

 村上龍は作家であるが、テレビでカンブリア宮殿の司会をしていることもあってかビジネスの世界にも詳しい。有名な経営者との会話から学ぶところも大きいのではないかと思う。彼の文学作品は2作しか読んでいない。随分昔の話で、「限りなく透明に近いブルー」「コインロッカーベイビーズ」である。最近では「半島を出よ」が注目を浴びたが、なぜこんなストーリーを描いたのか、その意図が分からぬこともあって買わなかった。「限りなく透明に近いブルー」は群像の新人賞を受賞した作品で、受賞は私が高校生の時だった。当時文芸部に所属していて、部費で群像を購読していたが、受賞作が載った号は顧問のK先生が持ち去ってしまった。

 さて、勝手に引用してしまうが、「無趣味のすすめ」から面白かった一くだりを紹介しよう。

 スケジュール管理について書いた文章

「・・・仕事でもプライベートでも、やるべきことがない人、またやるべきことを自身で把握できていない人は、スケジュール管理もへったくれもない。」「・・・やるべきことを複数抱えていて、それに優先順位をつけることができる人だけが、スケジュールを組む必要性がある・・・。」「年末には数千万冊のスケジュール手帳が店頭に並ぶらしいが、スケジュールを管理する、という概念を一度放棄するといいのではないかと思う。やるべきことに優先順位をつける、という方法を勧めたい。仕事とプライベートにおけるその人の優先順位が、その人の人生なのだ。」

プロレスのこと

 プロレスをテレビで毎週見たのは小学生の時代である。そのころは国民的英雄だった力道山がすでに亡くなっており、ジャイアント馬場の時代になっていた。曜日は忘れたが夜の8時から試合が中継されており、レスラーに対する花束贈呈とか試合の合間の三菱掃除機の宣伝を思い出す。中継は家族全員で見ており、それはスポーツを見るという感覚ではなく、文字通りひとつのショーなのであった。馬場さん以外では後に新日本を立ち上げるアントニオ猪木、吉村道明が記憶に残る。外人レスラーではザ・デストロイヤー、フィリッツ・フォン・エリック、ボボ・ブラジルなどが思い出される。

 馬場さんは優秀なレスラーであると同時に実業家だった。若いころは巨体にも拘わらず動きが俊敏で、特に32文のドロップキックは迫力があった。晩年は加齢とともに動きが悪くなり、16文キックは相手から当たりに来ているのが見え見えの様であった。経営の哲学も持っており、読書家で、レスラーの面倒見もよかった。アブドーラ・ザ・ブッチャーの手記を読んだが、全日本プロレスは地方の巡業を主体に興業を行っていて、日本のレスラーも外人レスラーも一緒に(バスは別々だったようだが)移動していた。夜は馬場さんが率いて全員で食事に出かけ、よく御馳走になったそうだ。プロレスは興行であり、レスラーたちはいわば仕事仲間なのである。したがって、相手に怪我をさせたのでは仕事にならないから、重い怪我をさせない範囲で技をかけなければならない。それが暗黙のルールになっていたと思われる。そのルールのなかで、反則も含め、試合が進んでいくのである。何事もルールなしでは成り立たない。

 全日本、新日本以外にも国際プロレスの中継があった。他の団体より地味で、中継される会場も静かだったように思う。ストロング小林以外では、力道山と同じように角界出身の豊登が参戦していた。腕を振って脇の下をパコパコいわせるしぐさが付き物だったが、あれは何の意味があったのか未だに分からない。あれで外人レスラーを威嚇できるわけでもあるまい。外人ではビル・ロビンソンが参戦していた。英国出身の紳士を売り物にしたレスラーで実力もあった。フェアなレスリングをすると拍手が沸いた。それほど外人は悪役を演じるパターンが定着していたのだ。しかし、いろんな売り方があるものだ。

 今は違った流れもあるが、格闘技ではないからレスラーたちにも凄みはない。デストロイヤーは渋谷で見かけ、ラッシャー木村は高田の馬場ですれ違ったが、普通のおじさんであった。これに対し、新宿で見かけた極真空手の中村誠には殺気を感じた。昔のプロレスは2日に1回ぐらい試合をしていたが、空手はそんなに試合はできない。ボクシングでも多くてせいぜい月1回である。チャンピオンなら年3~4回だ。

 以上取り留めもなく、プロレスの思い出を語った。ついでに、下ネタになってしまうが面白い話を一つ。

 ボボ・ブラジルが巡業で九州を回っていた時の話。「ボボ」という音は、この地方では女性の体のある部分をさす。「ボボ・ブラジル来る」というポスターを見て、外人のストリッパーが来日していると勘違いして多数の男性が駆け付けた。しかし実際はプロレスの興行だったので、話が違うと大騒ぎになったそうである。これは、聞いた方もおられると思います。当然作り話でしょう。まじめに考えるとおかしい。普通、体育館でストリップはしないでしょう。

2009年4月27日 (月)

豚インフルエンザ

 鳥インフルエンザを警戒していたら、突然、豚が襲ってきた。一気に危機感が広まった形だが、その怖さについては専門家でも評価が分かれている。Aソ連型の亜種であることから、日本人には一定の抵抗力が備わっているとの見解もあった。実際どうなのかは時間の経過を待つしかない。

 (私の勤め先はインフルエンザの予防に使われる商品を製造販売しているので、急速な需要の高まりに備え原料を確保しなければならないという意見が出ている。たくさん売れたら儲かるという受け止めではなく、社会が必要とするものを供給する責任があるという受け止めである。一時的に売り上げが上がっても、あまりいいことはない。寒天の世界シェア80%を誇る伊那食品の社長が言っていた。寒天ブームで一気に増えた売上もブームが過ぎると吹き飛んでしまい、元のベースに戻ってしまった。少しずつでも着実に伸ばしていくことが大事だと。)

 豚インフルエンザに対しては科学的な知見を踏まえて、冷静に対応することが大事だ。しかし過剰反応がおきつつある。一部の外食チェーンではメキシコ産の豚肉を使用したメニューを販売中止にするという。熱を通せば安全であることは科学的に証明できるが、こういう措置をとることで、いたずらに危機意識をあおる作用が心配される。マスコミも冷静な報道に努めてほしい。なにかにつけ危険だ危険だと騒ぐ傾向がある。事故米を偽装転売した事件のときも、偽装した企業の刑事責任あるいは社会的責任は徹底的に追及すべきであるが、事故米の毒性自体は恐れるほどではなかった。そこは分けて考える分別が必要なのだ。

 今回の問題は、おそらく、うろたえるほどの危機ではないだろう。しかし、十分な備えはしておくべきだ。今後、同じような問題は何度となく繰り返される。その時のために訓練を始めるのだと思っておけば間違いはない。

2009年4月26日 (日)

WBCについて再び

 第2回ワールドベースクラシックは日本の連覇という結果で終わった。国内で連日話題になり、優勝でさらに湧きかえった。この結果には私も素直に喜んだ。

 さてその後であるが、メンバーとして活躍した選手は好調とは言えないようだ。それは第1回の大会後にも見られた傾向だ。シーズン前にピークを持って行って、多くの試合をこなしてきたら疲れがたまり、調子も下降線をたどるのが自然な傾向だろう。また、緊張の連続であったから精神的な疲労も想像を超える程度のものかもしれない。そのなかにあって、比較的順調なのが、国内では投手のダルビッシュと田中である。彼らは若いので、回復力があるのだろう。メジャーリーガーでは、イチロー、岩村、福留がまずまずのスタートをきっている。イチローは大会中に胃潰瘍を患っていたようなので、それが癒えて通常の状態に戻っている。打率は3割強で低いように思われるが、もはや全盛期は過ぎているのでまずまずではないかと思う。岩村と福留は自分なりの力を出している。大リーグでの経験も力になって調整が上手くできたのだろう。これ以外の選手は調子が上がらない。一番顕著なのは怪我をした選手で、横浜の村田選手、ヤクルトの青木。青木は疲れで発熱もあった。松坂は故障者リスト入りし、小松は2軍落ち。内海は本調子でなく、岩隈はそれなりに抑えてはいるが調子は良くないようだ。

 このように良い結果の後にはツケも回ってくる。それは承知の上で選手を招集し、勝ちに行ったのである。勝負に行って勝ったのだから、それは価値のあることである。納得ずくだからいいのである。ちなみに、私のひいきの中日は離脱した(と言われている)。実際はどうなのか分からない。若い投手陣は力はあるが実績不足。岩瀬は海外での試合には弱く、力も落ちてきている。野手では和田が選ばれる可能性があっただろう。森野はいい選手だが、どう評価されているのだろうか。

 元に戻って、結論としては日本にとってよい結果だったとして、大会を企画した側からはどうだったのだろうか。ある本を立ち読みしたところ、日本の優勝を一番よろこんだのは主催者であるメジャーリーグだと書いてあった。野球の市場拡大が目的なので大きな市場であるアジアのチームが勝ったのは願ったり叶ったりということか。これで日本の野球選手も国際的に評価が高まるので、ますます自信をもって大リーグに挑戦するようになるだろう。そうするとメジャーリーグへの日本国民の関心はさらに高まって、メジャーは儲かるだろう。メジャーリーグは日本の選手を欲しがっているようで、しかも実績のある高い選手を買うよりは、プロ入団前の選手を青田買いしようとしている。甲子園の大会にはネット裏にスカウトが陣取っているというし、少年野球まで足を運んでいるらしい。行きたいという人間を無理やり止めるわけにもいかないが、優秀な選手を根こそぎ持っていかれたのでは日本のプロ野球が衰退する。プロ野球にも魅力を増すための努力は必要だが、大きな資本力でPRされたのでは太刀打ちできない面がある。したがって、一定の規制を設けて両者が共存する道を求めなければならない。それを選手も理解しなければならない。昔は巨人でなければいやだと駄々をこねる選手がいたが、今後は大リーグへ行きたいという欲求がますます強まるのではないかと案ずる。

日本人の国民性

 日本人は粘り強い国民かという問いがある。半藤一利氏らが戦前の日本軍の特性を論じる雑誌の記事の中で、日本人は非常に淡白な国民であると指摘していた。駆逐艦で敵の潜水艦を追い回す場合、日本海軍はせいぜい半日しか粘らなかった。もうこのぐらいでいいだろうとなるのだ。それに対し英国海軍はUボートを一週間追い回したという記録があるそうだ。これにはなるほどと思う反面、スポーツで考えると、マラソンなど持久力勝負になると強みを発揮するので、粘り強さがあるようにも思える。ある人にこの件を問うと、日本人は個人では粘り強いが、集団になるとそれが失われるのではないかという意見を述べていた。それも一理かなと思う。

 国民性とは長い時間をかけて歴史的に作られたものだ。そして、それは日本に住む人種に元から備わっていたものではなくて、多くは気候や地形などの客観的な条件をベースにして、周囲の民族との関係で文化的な影響を受けながら育ってきたのではないか。色彩感覚にすぐれているのは、四季が移ろう気候条件の中で実際に色彩に富んだ自然が存在するからであり、工芸などの細工に優れているのは、多種多様な樹木が生育していたり焼き物に適した粘土が存在して素材に事欠かないからであろう。感覚は対象に規定されるのである。

 マッカーサーは、日本を占領した時期に、日本は四等国であり、日本人の精神年齢は12歳だと言ったらしい。幼稚な国民だと言われているのだが、確かに無謀な戦争に突入したという意味では幼稚であったに違いない。判断に甘さがあった。軍部の暴走を止められなかったという意味では、政治や文化の未熟さを国民の至らなさとして受け止めよう。しかし、この「幼稚さ」のなかには未来に向けて肯定すべき要素もあるのではないか。日本は憲法において戦争を放棄した。それが現実的でないという見方もあるだろう。アメリカはそう言うに違いない。けれども、その理念を素朴に力強く守り続ける幼稚さは、歴史において一級品の輝きを放っている。平和ボケなのではなく、失敗から学んだ信念なのである。

 

2009年4月25日 (土)

袴田巌死刑囚を思う

 袴田事件(はかまだじけん)は、1966年静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定した袴田巖(はかまだいわお)死刑囚が冤罪を訴え再審を請求している事件である。(ウィキペディアより)

 

    事件名と再審請求されていることは知っていたが、その詳しい内容は最近まで知らなかった。知ったのは、日本ボクシング協会がチャリティーイベントを開催した記事を見たことがきっかけである。そのときの案内文を見てみよう。

   日本プロボクシング協会は、1966(昭和41)年に発生した、いわゆる『袴田事件』の犯人とされ、今も死刑囚として囚われの身となっている元プロボクサー、袴田巌さんの再審開始を支援しています。袴田さんを犯人とする物証は、警察によるねつ造を強く疑わせる、いわゆる『5点の衣類』に代表されるように、疑問に満ちたものばかりです。また、袴田さんが犯行を自白したのも、一日平均12時間、最大16時間50分におよぶ、拷問のような取調べによるものでした。今年に入り、一審の静岡地裁で死刑判決を下した熊本典道元裁判官が「実は袴田さんは無罪だと思っていた」と衝撃的な告白を行い、世間の関心もこれまでになく高まっています。その一方、袴田さんは現在71歳と高齢で、精神状態も不安定となっており、再審実現はまさに時間との戦いとなっています。そこで日本プロボクシング協会は、『袴田事件』の存在をより一層の世間に訴えるとともに、一日も早い再審開始を最高裁に求めるため、上記イベントを開催することといたしました。

    日本ボクシング協会が正式に支援を開始したのは1991年である。当時の原田会長(ファイティング原田)がプロボクシングのメッカである後楽園ホールのリング上から訴えたのである。その後も協会幹部に活動が引き継がれ支援活動が続いている。昨年のイベントでは現役チャンピオンの長谷川穂積が参加し、ミット打ちのパフォーマンスを披露した。冤罪の発生要因としてボクサーならやりかねないという偏見があったのではないかと言われている。ボクシングはスポーツであり、リングの上では闘争心を持たなければ撃ち合えないが、リングを降りれば大抵は普通の青年である。血の気の多い青年もいないではないが、それは他のスポーツ選手に存在するのと同じ程度ではないかと思っている。逆に素晴らしく礼儀正しい選手もいる。生の試合を観るなどしてもっとボクシングというスポーツを知ってほしい。

2009年4月23日 (木)

草なぎ剛 寛容でなくなった日本

 草なぎ剛の事件については事実を正確に知るすべがないので論評しがたいが、簡単に言えば泥酔して素っ裸になってしまったということだろう。いいことではないのは間違いないが、そのことで人を傷つけたわけではないので、罪は軽いと言えるだろう。人気者だったから余計に気を付けてほしかったという意見は同感だが、人気者であるかないかで罪の軽重は決めることができない。実は私も酔っ払って全裸に近い姿になったことがある。早慶戦の前夜に神宮球場の周囲に泊まりこみ、大量に飲酒して大騒ぎしたのであるが、その時に泥酔して裸踊りをやった。周りには結構な人数の学生がいたが、皆同じ穴の狢であるから、咎める者もいなければ通報するものもいなかったのである。しばらくして泊まり込みが禁止になったのでそんなバカなことをする学生もいなくなったと思う。

 さて、草なぎの事件はマスコミで大きく取り上げられ話題騒然となった。今後しばらくは活動を自粛することになるだろう。一定の罪は被らざるをえないが、短期で復帰してもよいのではないか。反省しているのであればチャンスを与えてやっていい。今の日本は、失敗に対する寛容さがなくなっている。一度失敗すると二度と立ち上がれないように執拗にマスコミがたたく。罰することが最優先になり、更生させるという考え方がなくなってしまった。先日、日体大の陸上部が跳躍系選手の大麻問題で処罰され、箱根駅伝のシード権がはく奪された。処分は仕方ないにしても少し重いと感じられた。学連主催の試合への参加も3ヶ月間禁止されたが、その程度が適切だった。東洋大学部員の暴行事件では箱根駅伝の出場が認められたが、それとのバランスで考えればそういう判断ができる。

 日本の社会は次第に性悪説で動くようになってきた。日本文化のよさは性善説をベースにしてあったのだと思うのだが・・・。処分する側が、ある意味自己保身のためにあえて重い罪を科しているように思えてならない。

2009年4月21日 (火)

死について

 人は死ぬために生きていると言った人がいたが、これは当然ながら間違いである。生の延長線上に必ず死が訪れるだけであって、死が目的で生があるのではない。一方、事実ではないけれども何か力を引き出すためのロジックになるかと言えば、それもありえない。生きていることに悲観的にさせられるだけである。

 しかし、死は生の手段だということはできる。死があること、すなわち生命の有限性が生の価値を高めている。動物も死期を感じ取ることができるのかもしれないが、人間だけが死を概念として持ち続けている。常に意識に上っているわけではないが、思い出せば一定の形をした死の概念が蘇える。死を意識して、残された時間の意味や自分にとって意義のある使い方について考えることは有益である。

 人生も半ばを過ぎると、焦りが生じる。無為に時間をすごすと、後悔も生まれる。できれば密度濃く生きたいが、それはままならない。がむしゃらに生きる体力が衰えつつあるからだ。いくつになっても目標をもって進むことが大切だが、無理はできない。着実に、地道に進むことだ。しかし、それもなかなかできるものではない。迷ってばかりもいられないが、迷いなしの人生は不可能だろう。あまり気にしない方がよさそうだ。

 これから次第に体力も知力も衰えていく。そのおかげで死への恐怖も和らいでいくだろう。これは人にとっての救いである。とすれば、考えてみれば、中年のおじさんが、一番死を意識し、生のありがたさを実感して、がんばれる年代だと言える。ああ、そう考えれば今が最高だ。

2009年4月19日 (日)

マネーゲームの終焉

 先ほどNHKスペシャルを見たが、なぜ金融危機に陥るまでマネーゲームが肥大化していったのかを問うシリーズの初回であった。ビールを飲んで酔っ払っていたので内容の全部を覚えていないが、いくつか印象的な発言があった。ひとつは、投資会社の中核としてマネーゲームを作り出し推進してきた人物が、自ら誤りを認めていることである。そして同じ業界の人物からは学ぶことはなにもなく、業界の外の人物からは得るものがあったと証言している。業界の人間は強欲な者ばかりとまで言っていた。彼自身もその一人でしかないのに。また、問題のあることは分かっていたが、投資や投機を、制裁を加えられるまでやめることができなかった。なぜなら、投資会社はリスクをとことんまで背負いたがるものだからだという。それは、逆に言えば、公権力が制約を加えれば異常な投資は止まったということを意味しているのではないか。

 もう一つは、新しい金融商品であるモーゲージ債を開発した人が、年金組合や保険会社などの世間知らずが飛びついてきたという発言をしていたことが印象的であった。自分が仕掛けを作っておきながら、その罠に引っ掛かってきたものを嘲笑するとはなにごとか。彼は全然反省をしていない。まだ最初に出てきた経営者の方が、自分の罪を認識しているという意味においてまだ救いがある。結局、金融商品とは、金融工学を駆使して、頭のよい連中が作り上げた机上の商品だと言えるだろう。そういうもので人類の富が拡大するのではない。地道な労働によってのみ、実体としての人類の富が増えるのだという真実が改めて明らかになった。

宗教についての雑感

 私は信仰を持たないが、信仰の自由は保障されるべきだと考えている。宗教団体の活動についても基本的に規制は加えるべきではないと考えるが、明らかに破壊活動を行っているものやその準備を行っているものは取り締まってよいだろう。教義そのもののなかに、破壊的な活動を容認したり誘発する内容があれば非常に危険ではあるが、それだけでは取り締まりは難しい。思っているだけでは犯罪にはならないだろう。

 世の中にはおびただしい数の宗教団体がある。調査によると、日本には非公式なものも含めると20万団体以上存在しているらしい。また発表されている信者数を総合すると2億人を超えるそうだ。水増ししているのである。20万以上の団体があって、どこにそんな教義の差があるのだろうか。素朴にそう思う。教義を一から考えて組み上げていくのは大変な作業だ。概念を作り出し、それを一定の論理性をもって体系に組み立てるのは大掛かりな作業になる。昔の偉大な僧は、何十年もかかって教義を作り出したのである。そうすると、そんな偉い人が20万人以上もいたとはとうてい思えない。おそらく、既存の教義を少し変えただけのものか、体系化されない稚拙な教義しか持たない団体が多いのだろう。既成の団体に所属していたが、幹部が気に入らないだとか、他の信者と上手くつきあえないだとかいうレベルでの理由で飛び出して自分で始める人もいるだろうし、最初から功名心で始める人もいるだろう。とはいえ、頭で考えましたでは説得力がないから、お告げを受けたとか、臨死体験をしたとかいう話を作って教祖である自分を神格化しなければならない。20万余りのなかには、相当インチキな団体も多いに違いない。

 悪口ばかり書いたが、もちろん立派な団体も存在する。中身が立派であれば、組織も大きくなるのは当然だ。平和運動に参加したり、環境問題に強い関心を持つ団体もあって、そこでは、他の団体との協調性も保って欠かせない主体としての存在感を示している。それは評価されなければならない。しかし、宗教団体も組織であるがゆえに、長く続けば、また大きくなれば保守化していく。教団幹部の世襲が行われたり、運営資金を確保するために無理な活動が要求されたり、布教よりも信者の数の確保が目的になってしまったり、他の組織にも共通する傾向が生まれてくるのも事実である。問題が表に出ることは少ないが、噂で耳にすることはある。

 ところで、信仰とは何か。仏教が馴染みが深いので、その例を出すが、法然以降念仏を唱えることで救済されると説いて仏教が大衆化した。私は仏教を詳しく学んでいないので細かいことは分からないが、念仏を唱えるだけならどこでもできる行為ではないか。一方で、本尊というものがある。念仏とはいえ、本尊に向かって唱えなければご利益(これも世俗的な言い方だが)はないのか。本尊は唯一絶対的なものか。実体のあるものか。絶対的なものなら世界に一つしかないはずだ。なんでもいい、紙に念仏が書いてあればいいというのなら、形だけでいいことになる。それもありだろう。宗教は科学ではないのだから、間違っているということにはならない。ただ、同じ宗派内ではAさんの言っていることとBさんの言っていることが矛盾なく整合されなければならないだけだ。本尊は形式であって、仏に向かって唱えること。心の持ちよう、行為の仕方が重要だという考え方もありである。その方が近代的でもある。信仰が個人の心の問題になっている。そのようにして新しくなっていけばいいのである。確かに、そうなるとさかのぼって教祖の考えに抵触するかもしれない。そのときは、権威の喪失をもたらすだろうが、勇気をもって捨てればいいのである。それができないのなら、根本である大衆の心の救済という目的から組織が逸れてしまっているということではないのか。

 宗教も宗教団体も自由であっていい。人類の幸福の実現、人類の発展のための力を生み出す宗教なら歓迎もする。しかし、抗争をもたらしたり、破壊を生む宗教はまっぴら御免である。

 

自分は普通?

 私は自分を普通の人間だと思って生きてきたが、養老猛先生に言わせると、普通だと思い込むのは危険だそうだ。世の中を見る時に、自分の考えがマジョリティだと思うと押しつけがましい意見になってしまうからだという。逆に、変わっていると思っていれば、自分を世の中に合わせようと意識するから、謙虚になれるし、他人も理解できるというのだ。

 私は、比較的、中立的に、客観的にものが見える人だと自分のことを評価していたが、これにも少し注意した方がよさそうだ。自分なりの考え方、見方、評価軸は持っていて、普通のひとよりははっきりした思想をもっていると思う。それ自体は悪いことではないだろう。主張することも悪くはない。しかし、それは絶対ではないし、同じ軸を持っている人は現実には多数ではない。そのことはもっと意識すべきだろう。そのうえで、自分に共感してくれる人を増やす努力が必要だ。ああ、あるほどなあと思ってくれる人は少ないのだ。

 結構、会社の朝礼などでも言いたいことを言っているが、分かってもらえていないし、記憶にも残っていないだろうと、ここで改めて自覚しよう。

ブログを書くこと

 たまに趣味はなんですかと聞かれて、読書とブログですと答えることがある。これは、実は正しくない。聞かれたから仕方なく答える外向きの発言である。

 「趣味」の定義もいろいろあるだろうが、勤め人からすれば、「仕事のことを忘れて、継続的に楽しめる特定の行為」とでも表現できるだろう。その定義から考えると、どうもブログはそこから外れる。仕事にかかわる話題はほとんど取り上げないので前半部分はクリアするが、決して楽しくはないので、趣味ではなくなる。

 いつも文章として外に表現する中身が出来上がっているわけではない。ときに、考えが浮かんでメモをし、そのテーマから出発することはあるが、稀である。大抵が画面を開けてから考えだす。そうすると、生みの苦しみが始まる。生活はほとんど無意識に進行し、感じたり考えたりすることはあっても、外部からのその時々の刺激に対して反応しているだけである。したがって、数百字にまとめて表現できるような主張は日常的には生まれないのだ。少ないながらも形ある断片的な観念をつなぎ合わせて一つの主張にすることは、非常に苦しいことである。書くことを生業にしている人とは違って、書いても書かなくてもどっちでもいいのだから気楽なもんだろうと思われるが、決してそんなことはない。

 仕事の領域は離れて、自分の存在証明のためには書くしかない。ボランティアなどの活動もありうるし、今後やらないと決めているのでもないが、今は書くしかないのである。書くことは苦しい、書いたことが、その瞬間から自分を拘束し始めるからである。言葉にすれば嘘に染まるという歌の文句もあるが、言ったことが嘘であれ、本当であれ、言葉として外に出すと自分自身を規制し始める。ある意味原理になってしまうのだ。卑近な例で言えば、あの人はこうこうこういう人だと断じてしまうと、それからその人の行動の一つ一つがそこから解釈されてしまう。そういうことは仕事をしていてもよく発生することなのだ。

 だから、雉も鳴かずば撃たれまいというように、黙っていればいいものを、敢えて言うことには、リスクが潜んでいるということなのだ。他者から批判を受けるという意味もあるが、それよりも自分で自分を撃っているという側面が強いのである。とはいえ、2年2か月書き続けてきて、スランプもあったが、しばらくは続けようと思う。

2009年4月12日 (日)

文学の役割とは何か

 難しい文学論は分からない。素人考えかもしれないが、文学は読者のためのものであり、読んだ者を励まし成長させるものでなければならない。

 励まし方はいろいろあるだろう。生きる希望を与える、前向きで、人間に対する信頼感に溢れた作品もあるだろう。また、人間の、あるいは社会の現実を生々しく描く、時には邪悪な部分を見せつける厳しい作品もあるだろう。後者の場合は、感受性の強い読者を少なからず悩みの世界に突き落とすことになるのだが、そこから自らの力で這い上がることを期待して、どこかに希望の光が差し込む裂け目を仕掛けておかねばならない。

 文学は常に読み手を意識しなければならない。書きたいから書くという次元のものではない。確かに、作者自身が多くの解決困難な問題を抱えており、書くことで今の自分を表現しなければ生きていくことさえできないという境遇もあるだろう。しかし、作品として世に問うのであれば、自分の問題から離れて社会的な意味を帯びてくるのであるから、単なる独りよがりは許されないだろう。本来、文学には十分に練られた仕掛けと細工が必要である。それは読者には意識されない方が良い。批評家は別としても。知らず知らずに、読者が、考えるヒント、生きるヒントを掴んでいるように、文学はあらねばならない。

キャッチコピー

 電車で、ある医療専門学校の広告を目にした。そのキャッチコピーがなかなかよくできていると思った。よくできているという意味は、専門学校への進学を考えている者にアピールする力があるという意味である。内容の良しあしの評価は人によって分かれるだろう。

 「支えるのではなく、ともに闘う。」(少し違うかもしれない)というチャッチだった。これはいろいろ解釈の仕方があるだろう。医療や介護を必要としている人も自ら回復や自立を求めて努力しているので、ただ助けてほしいと願っているわけではない。また医療活動や介護活動にあたる人も、「支える」となると、自分の役目があまりに過重に感じて苦しいだろう。「ともに」という言葉には、いくらかの救いの意味がある、反面、「闘う」という言葉には、医療は甘くはないよというメッセージも含まれている。覚悟して入って来いと言っているようにも受け取れる。

 さて、これはコピーの話であるが、実態はどうなのだろうか。医療や介護の労働は、長時間で、身体的な負担も大きい。現実には、「支える」という言葉がぴったりくる場合も多いのではないか。労働自体が厳しいうえに、待遇も悪いと来てはそう簡単に耐えられるものではない。実際に、離職する人も多いと聞く。長く続くためには、まずきちんとした社会的評価が必要である。一つ、少なくとも社会的に見て標準以上の待遇が保証されること。二つ、この仕事に従事する人は、評価され、尊敬されなければならないこと。この二点である。どんな仕事も必要な仕事であるかぎり、皆尊敬されるべきであろう。飲み屋でお酒の相手をする仕事も、それを必要とする人がいるかぎり役立っているのである。ただし、売春を斡旋したり、麻薬を売りつけたりする違法な行為は評価に値しない。これらは労働ではない。何も創造しないからである。逆に破壊をもたらしている。話はそれたが、労働は皆評価されるべきであるが、その強度や役目から考えて、医療や介護はもっともっと重視されてしかるべきだと思うのである。

2009年4月 6日 (月)

対立軸の設定について

 対立軸の設定の仕方で議論の方向性が決まる。今目立つのが、格差社会の対立軸を正規労働者対非正規労働者に置く議論である。この図式だと、非正規は正規から偏った富を奪取しなければならないという主張が生まれる。確かに正規と非正規の間に所得格差があり、それは年を経るごとに広がっていく。非正規は正規を羨み、正規は非正規に転落することを恐れる。それが高じると、根本的な対立関係にあるという錯覚にいたる。

 非正規雇用者が急激に増えたのは、それを経営が欲したからである。安くて、短期的に雇用できる人材が人件費を減らすのに必要だったのである。その要求にこたえて行政は制度を整えていった。非正規の主敵は正規雇用者ではない。正規が非正規を生み出したのではないことは明らかだ。確かにワークシェアリングの課題があることは事実だが、それは雇用者同士の理解が前提にあっての話で、上から強制されて受け入れるべきものではない。この対立軸は経営と雇用者の関係における経営側の責任を曖昧にする働きがある。

 これは一例であるが、問題設定の仕方で議論の方向が決まるので注意しなければならない。知らずに議論に巻き込まれていることがある。まずは、前提になっている条件を確認する必要がある。

自動車のナンバープレート

 最近バスに乗ると信号待ちしている自動車とか渋滞中の自動車のナンバーに目が行く。珍しい番号がないか探すのである。縁起のよい番号に当たると、なにかいいことが起こるのではないかと期待してしまう。結局、何もいいことはないのであるが。

 先々週の土日には、続けて番号1番の自動車を見た。これは、確率的にはたいそう珍しいことではないか。しかし、これは後付けの理屈である。最初から1番を探していてそうなったのなら、奇跡的なことだろう。1番が出る確率は1万分の1。続けて出る確率は1億分の1である。とはいっても、何十台、何百台を見ての結果だから、数十万分の1程度まで確率は落ちる。適当に見て、番号に意味づけしていくから、何か特徴のある番号には行きあたるのだ。自宅の電話番号といっしょだとか、誕生日と同じだとか、ぞろ目だとか。ぞろ目で言えば、何ヶ月か前に8888番に出会った。よく見ていれば珍しい話ではない。4桁が同じ番号になる確率は1千分の1あるはずだ。

 結構暇つぶしになる。

2009年4月 5日 (日)

関西学生野球

 東京六大学野球は学生時代によく見て、卒業してからも何度か見ているが、大阪に住んでいながら、関西の学生野球は一度も見たことがなかった。関西学生野球連盟に所属する大学に息子二人が通っていることが動機となって、今回初めて西京極球場に足を運んで観戦することになった。今日見たのは関西学院大学対同志社大学の試合である。結果は2対3のスコアで、同志社大学が逆転勝ちを収めた。これは地力の差と言えるだろう。詳しくは知らないが、最近では近大がコンスタントに実績を残していたと思う。同志社と関学はやや低迷していると言えるのではないか。同志社と言えば、田尾安志。関学と言えば、田口壮というぐらい傑出した選手もいた。他のチームでは、関大の山口高志が歴史に残る選手である。ただし、昔ほどではないにしても、優秀な選手は東京に集まるので、自ずとレベルの差が生じる。昨年、早稲田対法政の試合を見たが、特に早稲田の投手はつぶが揃っていて、それぞれ140kmを超える速球を投げており、レベルの高さを感じた。それに比較して、今日見たチームはやや力が落ちるように思われた。とはいえ、今後も球場に足を運んで応援していきたい。

2009年4月 4日 (土)

視点を変えると

 テレビで、神奈川県立住吉高校のチアリーディング部が3か月の猛練習で日本一になった物語を放映していた。指導にあたった先生の、技術を教えると同時に目標を与えることでチームの団結を強固にしたことを大きく評価していた。専用の練習場もなく、条件には恵まれず、練習期間も他校と違って出場を決めてからたった3か月という短さ。常識では優勝は考えられない。奇跡に近いことではないだろうか。

 ここまでは、普通の感想であるが、視点を変えてみると、別のことに気が付く。それは審査員の目である。実際どうかわからないが、おそらく長く練習を積んできたチームのなかには技術的に住吉高校を上回るところがあったのではないか。しかし、技術を上回る気迫や勢いを感じ取った審査員が高い評価を与えたのだと思う。それを感じ取ることができる審査員のいたことが素晴らしいと感じるのだ。あの学校は強いという先入観にとらわれたり、技術的な難度にこだわり過ぎたりすることもありうるが、そうならずに新鮮な眼を持っていた審査員がいたのではないかと思ったのである。

ユニクロについて思う

 会長の柳井さんが大学の先輩(と言っても年代が違って在籍時期はかぶっていない)ということもあってユニクロには注目してきた。フリースが大ヒットして急成長した後、しばらく低迷が続き、玉塚さんも苦労したが、その後柳井さんが復帰したことがよかったのか、時代がまたユニクロを求めたのか分からないが、最近の成長は目覚ましい。

 素材の品質は価格の割に良く、デザインも次から次へと新しいものを投入して飽きを防いでいる。売れるから、デザインの更新や新製品の投入も活発にできて、非常によい循環が生まれているのが何よりの強みではないか。地方から都市部まで、郊外から繁華街、駅中までありとあらゆるところに貪欲に出店している。売り上げが低迷している多くのアパレルチェーンを尻目に、まさしく一人勝ちの状況。かくいう私もカジュアルはユニクロで間に合わせることが多くなった。店員の応対もよく指導されていて、先日はLサイズのシャツを2着買うところ一着M寸を混ぜてしまったが、レジで見つけ、交換に行ってくれた。そこまでしてくれたらこちらも恐縮してしまうものだ。

 こういうユニクロだが、あまりに強すぎるので、他のチェーンが少し気の毒に思う面もある。しかし、柳井さんは手を抜かないだろう。国民の所得が減少している時にこそ安くてよい商品が受け入れられる条件がある。この流れが国民に豊かさをもたらすものかどうかは定かではないのだが。

大阪のおばちゃんもここまできたか

 ある人から聞いた実話である。最近あるスーパーでの出来事。野菜売り場に小箱に詰められたトマトが売られていた。箱のなかのトマトは大きさがまちまちで、大きなものと小さなものを混ぜて同じ価格にしていた。話を聞いた人は、買おうかなと思ったらしいが、その時は通り過ごして売場を一周し、また野菜売り場に戻ってきた。その時にちょっとショックな場面に出くわしたのだという。それは何人かのおばちゃんが、トマトの箱の中身を入れ替えて、大きなトマトの箱を作っていたというのだ。大阪のおばちゃんは厚かましいので有名であるが、これは厚かましいという次元の行為ではなく、立派な犯罪ではないだろうか。

読書感想文

 息子が読書感想文の宿題に苦戦している。思い起こせば私も中学ぐらいまでは苦手だった。苦手だったのには当然理由がある。それを考えてみた。

 三つの理由を挙げてみる。まず、「読む」能力の有無である。何が書いてあるのか、まず意味を理解できなければならない。これは基礎的な能力である。行間にある作者の意図というような高次元の解釈ではない、言葉の意味の理解である。二つ目は少しレベルが上がって、自分の考えに従って解釈する力の有無である。体験や学習によって価値観とまでは言わなくても、自分なりの考え方が出来上がっているとすれば、それに照らして評価する、判断するという行為が生まれる。それが「感想」を創る能力である。三つ目は「書く」力の有無である。思ったことを表現できなければならない。これも基礎的な能力である。志賀直哉や川端康成のような立派な文章を書く能力ではなく、事実や自分の思いを誤りなく伝えられる程度の能力である。

 この三つのうち、「読み」「書き」については、まず訓練である。数をこなすのが大事。理屈を学んだからといって、できるようになるわけではない。一定のレベルに達すれば理屈を学ぶ意味が出てくる。解釈する力の養成には、これとは違った要素がある。もともと備わっている「感性」という要素もあるだろうが、これにしても育てられないと大きくはならない。解釈する力は人から教わる部分が大きい。個人的な問題に見えても実は社会的な背景があるのだとか、心の問題には宗教的な要素が切り離せないだとか、差別の問題は昔から存在していて誰の心の中にもあるのだとかいうことは、親や教師や、あるいはそういうことを論じている哲学者や文学者などから学ばなければ自然に生まれ出るものではない。

 息子はなかなか書き進まないのでアドバイスした。1枚目はあらすじを書け。2枚目以降はこういう観点で書けと、四つの要素を示した。漂流記だったので、①生きるために必要な、水や食糧を手に入れる方法を知っていたこと②悲観せず、生き延びるために必要なことを考え計画的に進めたこと③仲間の団結を重視して、リーダーが全体をまとめていったこと④将来を見越して、知識のあるものが教室を開いて教えたことである。教え過ぎかもしれないが、時間切れになりそうだったのでそうしてしまった。

死刑について

 最近マスコミに殺人の被害者家族が取り上げられることが多くなった。そこでは、彼らの、極刑を望む声を聞いたり読んだりすることができる。私は、あまりに被害者家族の生々しい姿や心情がマスコミに(特にテレビ)露出することは好ましくないと考える。昔は、そういう立場の人は表には出ず、息をひそめて暮らしていたと思われる。最近は、マスコミを媒体として自己主張したいという人が増えた。訴える心情は、自分をその立場に置いてみると理解できるけれども、当然のことであるが、死んだ人は帰ってこないし、殺人者が死刑になれば亡くなった魂が救済されるというような教義をもつ宗教は聞いたことがない。してみると、死んだ人の問題ではなく、残された者の、まさに心の問題なのだと言うことができる。

 被害者家族の心のダメージは想像を絶するものであろう。当然ながら、本人には全く責任はない。傷んだ心は、社会的にその回復を援助されなければならない。そういう問題は残る。しかし、心の救済は、殺人者を死刑にするという手段によっては果たされないのである。死刑が執行された後の被害者家族の声を、まだ聞いたことがない。いくらかでも救われたのだろうか。

 世論はマスコミに動かされやすい。家族の声に影響を受けて、死刑を容認する世論が増えても不思議ではない。世界的には死刑を廃止している国が多く、また廃止に動いている国もあると聞いている。日本の動きは少数派である。私は冷静に論議をして、国民の標準的、一般的な意思を明確にしていくプロセスが必要であると思う。裁判の判決は、法を基礎にしながらも過去の判例に従って下されるそうだ。裁判官個人には、それぞれ独自の価値観があり、それは否定されるべきものではない。(ただし、あまりに異質なものは排除されるべきである。そこの線引きも難しいが。)しかし、個人の価値観に基づいて判断したのでは、常軌を逸した判決が出る。過去の判例に従うというのは、裁判官の暴走を止める防波堤にはなるだろう。マスコミが騒ぎ始めたからと言って判決を変える必要はない。今まで通りの判決を下した裁判に対して、弱腰だとか、自己保身だとか言って攻撃するのは間違いである。

 繰り返すと、死刑をどうするのかという問題に、被害者家族の心情が影響を与えることを危惧する。被害者家族の心の救済は社会的に支援されなければならないが、それは多分に宗教的な意味合いを持ってくるであろう。殺人者の命を、公権力によって奪うことで救われるほど単純な問題ではない。

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