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2009年2月 7日 (土)

昔の人は偉かった?

 福沢諭吉の「福翁自伝」に母親の慈悲心に触れたくだりがある。諭吉の母親は、市中を徘徊する一人の女乞食を時々庭に呼びいれて、虱を取ってやったという。諭吉もそれを手伝わされた。それが終わると、取らせてもらったお礼にと飯を食わせたということだ。

 ドトールコーヒーの創業者である鳥羽博道氏が「私の履歴書」に書いている。「祖母は慈悲深い人だった。物乞いの人が訪ねてくると、家に招きいれてご飯を食べさせ、コメを持たせて帰した。」

 私の祖母は明治生まれで、乞食や浮浪者にも優しかった。乞食が飯を食わせろと家に入ってきた時に、どんぶりに飯を盛り食べさせた。そして、自分で働き、稼いだお金で食べられるようになりなさいと説教していたのを覚えている。また、近所に身寄りのない「お夏」と呼ばれる老女が住んでいたが、身なりの汚さを気にせず、よく立ち話をしていた。

 いずれも昔の女性の話であり、今ではありそうもない話である。ホームレスのテント生活者はいるが、見えないバリアのようなものを作っていて一般の人と接触はしない。一般の人も、そういう人が家に入ってきたら、すぐに警察を呼んでしまうのではないか。物乞いという行為すら成り立たない社会なのだ。

 人間が慈悲心を持たなくなったということは事実であろう。では、人間が悪くなってしまったということなのか。そうではないだろう。勝手に善くなったり、悪くなったりはしない。人間は環境で変わってしまう。人間には善い心の芽もあれば、悪い心の芽も持っている。どちらが育つのかという問題である。今のような「市場原理主義」が跋扈する社会では、人間同士がお互いに競争相手として現れ、慈悲心よりも敵愾心が育ってしまう。助け合うよりも出し抜く方が賢い人間の採る道になるのだ。

 良い社会とは、人の心に善い芽が育つ社会である。そういう社会を作らなければならない。自分のなかで、子供の頃にあった善い芽がしぼみ、悪い芽が育ちつつあることを感じて、なおさらそう思うのだ。

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