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2009年2月の投稿

2009年2月15日 (日)

教育にお金がかかる

 前にもこの件については意見を書かせてもらったが、教育にお金がかかる、いや、かかりすぎる状況はなお一層深刻化しているのだ。これは学費の値上がりと同時に、生活費の上昇が追い打ちをかけていることがあり、また親の収入の減少がさらに深刻さを増す要因になっている。

 進む大学の選定にあって地元志向が鮮明になっている。これはデータでも裏付けがある。昔は地方から東京の大学へ進むのが普通だった。学問は東京でするものという考え方があったように思う。それが地元の大学で我慢するようになったのは、お金がかかりすぎるからだ。国を離れて東京で生活するためには、家賃がかかるし、生活レベルも他の学生に合わせなければならない。昔は安アパートでもよかったが、今ではバストイレ、エアコン付きのワンルームが標準なのではないか。仕送りする親の負担は非常に大きい。一人っ子ならまだよいが二人三人となったらとても持たない。奨学金制度もあるにはあるが、十分ではない。必要な人に行き渡るほどの枠がないのだ。

 こういう状況だから、学生もアルバイトで費用を補わざるをえなくなる。こうして、受験勉強で疲れ果て、学習意欲をなくした学生が、さらに勉強する機会をなくしていくのだ。何のために大学に行くのか分からなくなってしまう。こんな有様なので、有能な学生が育たないのも至極当然のことなのだ。

 有能な人材には一定の費用を投じるべきだろう。その代り、学生には勉強してもらう。勉強して、力を付け、その後の業績で社会に還元してもらうのだ。そういう仕組みと考え方やモラルを育てなければならないのではないか。

戦争のストレス

 世界で、今でも戦争や紛争が絶えない。最近では、やっと落ち着いたが、イスラエルとパレスチナの紛争(イスラエルからの一方的な攻撃とも捉えられるが・・・)があった。イラク、アフガニスタン、ソマリアなどでは内戦が続く。日本でも60年あまり前には戦争状態があった。一般大衆あるいは徴集された兵隊たちの精神は、極度の緊張状態にあり、一刻も解放されることはなく、想像を絶する状況であろう。

 上空を戦闘機が飛び回り、機関銃掃射が行われ、爆弾が投下される。それを避けようと人々は逃げ回る。そんな状況に置かれたらわれわれはどうなるのだろうか。想像しただけで空恐ろしいことである。兵士はなおさら大変である。殺されるという恐怖感と同時に、敵を殺さなければならないというプレッシャーがある。敵をどんなに悪い奴らだと信じ込み、自分には正義があると信じ込んでも、至近距離で人を撃つことは精神に歪みをもたらす。戦場で兵士が異常な行動に走り、帰還してからもまともな生活に戻れないということを聞くが、もっともなことである。ドラッグや麻薬に走ることもうなずける。

 人間をこのような異常な精神状態に追い込む理不尽な事態が、軽く扱われていないか。われわれの想像力もあまりに貧困ではないだろうか。テレビで見ていると、まるで映画の場面を見ているように感じてしまう。フィクションと現実の区別がつかないのだ。どうやって想像力を取り戻すか。それには、体験者からのメッセージを受け取る努力が必要だろう。直接にはなかなか難しいけれども、なかには良心的なジャーナリストや活動家がいる。映像や写真集なども見る機会が稀にあるだろう。あるいは、眼を閉じて、遠い国のこと、遠い過去のことに思いを巡らせるのもいいのではないか。何もせず、何も考えずにおれば、戦争を肯定する人たちの思うつぼである。

大学生の学力低下

 大学生の学力低下については行政、学会、マスコミなどでかなり多くの議論がされてきたと思う。その原因はともかく、学力が低下していることは皆が認める事実のようだ。

 4年生大学への進学者数は最近横ばいのようで、60万人程度である。私が大学に進んだ30年前は40万人であった。他方、18歳人口は現在120万人程度で、30年前は160万人であった。この数字から単純に4年制大学への進学率を計算すると現在が50%で、30年前が25%である。すなわち、率では2倍になったわけであり、絶対数でも50%増加している。

 学生数が減っているということは、そのなかに占める「できる子」の絶対数も減少しているということである。また同時に、進学者数の増加は、「できない子」の増加も意味する。この両面から考えて、大学生の学力低下が進んだのは当然の結果だと考えられる。

 大学の質を決める大きな要素として、「できる子」の絶対数があると仮定すると、少子化によってその数値は低下の一途をたどっているのであるから、質の低下は当然の帰結となる。そして、教育の質を思い切って上げて、「できる子」を増やすことを考えなけれならならなくなる。国力が、人材の質によって立つと仮定すると、教育が現状のまま推移すると国が滅びるという結果が予測されてしまう。

 単純な推論であるが、これを裏付けるような話はよく聞く。たとえば、MARCH(明治、青山学院、立教、中央、法政)のレベルが下がり、昔の日東駒専(日大、東洋、駒沢、専)のレベルになったと言われる。また、国立の上位校でも、京大のレベルがこの10年間で大幅にダウンしたという話も聞いている。これらを裏付けるデータは持ち合わせていないが、社会の変化を見ている限り、うなづける話である。

 これまで、少子化と大学生数の増加をレベルの低下の原因に上げて見てきたが、これ以外にも学力低下の原因はある。進学校の教育が、簡単に言えば、今まで以上に予備校化したということだ。受験に合格するためのノウハウを教え込む機関になってしまった。以前もそういう傾向はあったに違いないが、今ほどマニュアル化されていなかっただろうし、それぞれの学校が独自性を発揮しようという気概もあったように思う。ところが、大学の合格実績を出していかないと優秀な生徒も集まらない傾向があからさまに出てきたので、そうも言っていられなくなった。また、昔は地方の公立高校でも独学で難関大学にチャレンジしていたが、今では塾や予備校に頼らないとノウハウは得られない。もう一つ言えば、大学の側もそういうノウハウでは解けないような問題は出さなくなったのではないか。高校生では解けない問題を出して、食いついてくる学生がいないか試したという昔話を聞いたことがあるが、今はそんなことをすれば逆に非難されるのかもしれない。というようなことで、本当の「考える力」、「問題解決力」と言った方がよいかもしれないが、それは育っていない。世の中で起こっている諸問題にたいして解を見つける思考作業は、いくつかの答えから正解を選び出す作業とは異なる。受験のための勉強も必要であると認めざるをえないが、合わせて考える地力を養成する教育も進めなければならない。このことは、最早、結論の出ていることであり、具体的な政策を実行しなければならない。

2009年2月 7日 (土)

昔の人は偉かった?

 福沢諭吉の「福翁自伝」に母親の慈悲心に触れたくだりがある。諭吉の母親は、市中を徘徊する一人の女乞食を時々庭に呼びいれて、虱を取ってやったという。諭吉もそれを手伝わされた。それが終わると、取らせてもらったお礼にと飯を食わせたということだ。

 ドトールコーヒーの創業者である鳥羽博道氏が「私の履歴書」に書いている。「祖母は慈悲深い人だった。物乞いの人が訪ねてくると、家に招きいれてご飯を食べさせ、コメを持たせて帰した。」

 私の祖母は明治生まれで、乞食や浮浪者にも優しかった。乞食が飯を食わせろと家に入ってきた時に、どんぶりに飯を盛り食べさせた。そして、自分で働き、稼いだお金で食べられるようになりなさいと説教していたのを覚えている。また、近所に身寄りのない「お夏」と呼ばれる老女が住んでいたが、身なりの汚さを気にせず、よく立ち話をしていた。

 いずれも昔の女性の話であり、今ではありそうもない話である。ホームレスのテント生活者はいるが、見えないバリアのようなものを作っていて一般の人と接触はしない。一般の人も、そういう人が家に入ってきたら、すぐに警察を呼んでしまうのではないか。物乞いという行為すら成り立たない社会なのだ。

 人間が慈悲心を持たなくなったということは事実であろう。では、人間が悪くなってしまったということなのか。そうではないだろう。勝手に善くなったり、悪くなったりはしない。人間は環境で変わってしまう。人間には善い心の芽もあれば、悪い心の芽も持っている。どちらが育つのかという問題である。今のような「市場原理主義」が跋扈する社会では、人間同士がお互いに競争相手として現れ、慈悲心よりも敵愾心が育ってしまう。助け合うよりも出し抜く方が賢い人間の採る道になるのだ。

 良い社会とは、人の心に善い芽が育つ社会である。そういう社会を作らなければならない。自分のなかで、子供の頃にあった善い芽がしぼみ、悪い芽が育ちつつあることを感じて、なおさらそう思うのだ。

2009年2月 1日 (日)

うますぎる儲け話には注意を

 ある主婦が15億円を預かって運用していたが失敗し、責任追及を逃れて逃亡生活をしているという。読売新聞の報道では、20年ほど前から個人的に株で運用を始め利益を上げた。バブルの頃だから儲かったのもうなずける。羽振りが良くなったのを見て、周りも運用を依頼することになる。違法な点は、元本保証をしたことであるが、個人にそれだけの保証能力はないと見るのが常識だと考えられるので、預けた方も欲に目がくらんだと言えるのではないか。私には余裕のある資金など一文もないから株などはやらないので運用の仕方など詳しくは知らないが、個人で勝ち続けることなどは無理な話であって、穴を開けた分は他の資金で埋め合わせていけば、次第に全体の資金が縮小していき、いずれはショートしてしまう。実際、リーマンショックでどうにもならなくなったらしい。

 銀行預金でさえ100%保障されているわけではない。国債でさえ完全ではない。リスクは常に存在している。あまりにハイリスクな商品取引が横行した果てが金融危機である。リスク分散を行ったと言っても、リスクの総体が巨大だったために、火がついたら一気に爆発した。リスクの大きすぎる社会、リスクの大きすぎる人生は好ましいとは思えない。急激に発展する社会、成功へと一気に駆け上がる人生こそが幸福の源泉であると考える人もいるだろうが、大半は堅実で安心できる社会、人生を求めているのではないだろうか。

 そんな社会が思い通りに作れるかって?確かに、社会は建築物と違って設計図にそって部品を組み合わせて作れるようなものではない。あまりに特定の人間のイメージにしたがって恣意的に社会が構成されれば好ましくないが、あるべきビジョンを示し、基本的な柱部分は明確にして、国民の合意を得て、そこを目ざして政策を行使すべきである。無策で流されるのと比べれば、結果は大きく違ってくるはずである。

お墓参りをする人は霊を信じているか

 早稲田大学の大槻教授は霊魂を信じておらず、お墓参りをしないと言っているらしい。私は、霊魂は信じないが、お墓参りはする。お墓参りをするのは習慣である。盆と正月にお寺へ行き、墓参りをするのは年中行事である。

 お墓に霊魂が宿っているのではない。墓に向かって手を合わせる。父や祖母の記憶がよみがえる。そしてよみがえったイメージに向かって、心のなかで言葉を投げかける。当然、返事は返ってこない。生前、心配をかけ、十分に親孝行できなかった自分への戒めの行為が、墓参りである。すべては生きている者の、より良い生き方を求めるのが儀式の目的である。死んだ人を蘇らせることもできないし、過ぎた過去を変えることもできない。過去に対する解釈の変更は、これからどう生きるかを決める際の前提の見直しにすぎない。

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