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2008年12月 1日 (月)

夏目漱石の「こころ」

 漱石の「こころ」を読みました。昔、若い時に一度読んだ記憶がありますが、いつだったか定かではありません。読むきっかけは、姜尚中が書いて、結構売れている新書の「悩む力」に漱石が取り上げられていたからです。

 江藤淳は、新潮文庫の「こころ」の解説で、漱石が今なお広く愛読されている理由として二つの点を挙げています。ひとつは、漱石が伝統的な価値観・趣味を持っていたこと。もう一つは、それゆえに近代的な社会状況や価値観と真っ向から衝突せざるをえなかったことです。伝統的なものを持っていたがゆえに、近代の否定的な面をいち早く認識できたという逆説なのです。多くの明治の文人たちは、過去の価値観を捨て去り、西欧的なものを無批判的に受け入れたのですが、漱石はそうではなかった。これは彼の経歴に由来するところが大きいと言っています。すなわち、江戸以来の有力な名主の家に生まれ育ったということです。明治に入り没落していきますが、価値観や趣味は根付いていますからそのまま受け継がれます。そういう彼が、イギリスに留学することで近代とぶつかります。孤独な自我、孤立した個人を実感します。その体験は象徴的なものですが、これは現代に生きるものにもそのまま当てはまることで、そういう意味で姜尚中は漱石を取り上げたのです。

 近代は人間を共同体からの束縛(庇護)から解き放つが、孤立化させ、不安に陥れる。これは、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」で説かれている現象ですね。姜尚中は現代に生きる人間の宿命であり、その運命に耐えざるをえないと言います。悩みは尽きず、それを避けるよりは悩みぬいて突き抜けよと説きます。これは、私が学生の頃に、マックス・ウェーバーを学んだ時にも出てきた議論で、万人に当てはまるというよりは知識人の心境として共感できるものでした。

 近代人の孤立化は、経済学的に言えば、資本制生産の広がる過程で、農村から都市へ労働者が流れ込み、共同体的な紐帯を失うということでしょうか。しかし、この先永遠に孤立したまま、信頼関係を喪失したまま生きていかなければならないのでしょうか。姜尚中に言わせれば永遠なのでしょう。ウェーバーには次の答えがありません。しかし、人間を結合させる契機として、何か考えられるのではないでしょうか。マルクスは、「協働」という行為だったように思います。他に、労働の場を離れたNPO的な活動もあります。そういう集団的な活動に知識人は「宗教的」な臭いを感じたりして抵抗感を感じるもので、なかなか中に入っていけません。しかし、抵抗なく入っていける人たちも多くいます。したがって、経済学的には孤立化は普遍的な現象として正しいとしても、それは別の次元で克服されうるということではないでしょうか。マルクスは同じ経済学的次元で開放させようとしましたが、別の道もあります。どちらが正しいということではないと思いますが、姜尚中のように言ってしまえば、孤立化を克服する道を閉ざしてしまうのではないでしょうか。とはいえ、姜尚中の言っていることも心情的には分からないではありません。かくいう私も現実には孤立感が強いのです。

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