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2008年12月21日 (日)

プレカリアートと雨宮処凛

 「プレカリアート」とは、不安定な労働者という意味であり、具体的にはフリーターなどの非正規雇用者と失業者をさしているようである。政治の世界や労働運動においては元々「プロレタリアート」という言葉があったが、最近はあまり聞くことがなくなった。高度成長期を経て労働者の生活が一定の水準に達し、同時に労働運動が低迷していったことにより先鋭的な言葉である「プロレタリアート」という言葉は、「労働者階級」という言葉と合わせて使われなくなった。

 今日では、それに代わり「非正規雇用者」という言葉が使われ始め、特にここ数年は景気の後退とともにその存在に関わる様々な問題点が指摘されている。そもそも「非正規雇用者」は雇用の形態、あるいは労働の形態を表した言葉で、これだけでは政治的な指向性を持たなかったように思う。しかし、「格差固定社会」とか「ワーキングプア」という言葉で現状に批判的な主張が行われ始め、同時に当事者であるフリーターなどが労働条件、生活条件の改善を求める運動が発生し始めた。このような共通の「要求」(「思想」というにはまだはっきりした形になっていない)をもった社会集団(現実には組織化されず、バラバラに存在しているが、インターネットでの交流が行われている)として意識され始めた。それが日本の「プレカリアート」だと思う。

 雨宮処凛さんは、「いじめ、受験の失敗、リストカット、薬物体験、右翼運動、フリーター生活」などプレカリアートにまつわる体験をフルコースで味わってきた人である。著作が多く、現場での発言は強い影響力を持っているようだ。プレカリアートメーデーがあったり、社会運動として育ちつつある。方や、一人でも入れる労働組合という形で、労働運動に取り込もうという動きもある。今後、どうなっていくか分からないが、日本のみならず、新自由主義のもとで生み出された同じ境遇の者は世界中に存在しており、無視できない勢力であるどころか、明らかに大きな影響力を持つ勢力になっている。動向を見続けるとともに、雨宮さんの発言にも注目していきたい。

雨宮処凛の発言をいくつか

・いろんなセーフティネットに少しでも引っかかっていれば、死ななくて済んだ人もいると思うんですけれども、具体的な、生きさせようとするシステム自体がありませんね。

「極限まで自由を犠牲にした果てにやっと生存が認められるような状況はおかしい、生存は自由と引き換えにされるようなものではない」と。ただ生きるだけでいいじゃないか、ただ生きていることをまず肯定しろ、誰かに「生きていい」と許可される筋合いはない・・・

新自由主義のもとで、「働かざる者食うべからず」的な一般論を何にでも機械的にあてはめて、「役に立たない奴は生きる価値がない」とか、「生産性の高くない奴は職場にいてはいけない」とかとらえる風潮が強まったと思うんですが、・・・

生存よりも市場原理が優先されてきたからこそ、働いても生活していけないという状況が現れてきたわけですから、まず生存をいちばん中心に置くという考えを据えてほしいです。

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