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2008年11月 9日 (日)

最近の学園ドラマ(?)について

 テレビはあまり見ない私であるが、食事のとき家族と一緒に見ることがある。多くはお笑い番組かドラマである。ドラマでは高校を舞台にしたドラマが多いように思う。昔は、“学園もの”と呼ばれたが、今はそういう決まった言い方があるのだろうか。

 なぜ高校が舞台に選ばれるのか。①役者がそろう。中学生というのは子供と大人の中間で、その時期も短いから演じられる役者の絶対数が少ない。高校生なら20代の大人でもなんとかごまかせる。②あつかう題材が多様である。恋愛もあれば暴力もある。受験もある。③したがって見る層の幅が広がり、視聴率につながる。若者と同時にその年代の子供を持つ親が一緒に見るのである。

 見ていて思うこと。生徒と教師を対立的に描いている。これは確かに昔も同じだった。生徒の側に対して甘い視線がある。すなわちひいきしている。これは傾向としては昔もあった。子供の気持ちを大人は分かってくれない。体裁ばかり気にして本気で心配してくれない。そういう見方は昔も表現されていた。どこが違うかというと、教師の無能さを突くような内容が出てきた。何か、教育のまずさ(本当にまずいかどうかも検証されつくしていない。もっぱら「学力」に議論は集中している。)の原因が教師の無能さにあるかのごとき描き方であり、製作者がそこまで意図しているかどうかは別にして、客観的には攻撃キャンペーンになっているのではないか。

 強く教員を弁護する気はない。しかし気の毒だと思うことはある。能力のバラバラな生徒を相手に一つの教材で教えるのは大変だ。いろいろな家庭環境で育っている子供たちを一つに束ねるにはそれなりの能力が必要だ。また昔ほど教師の権威がない。すなわち、世間の目が厳しいのである。

 教育は国の政策の文字通り柱でなければならない。よって重点的に予算を配分しなければならない。教員の地位を社会的に高いものにすれば、優秀な人材が集まり、父兄の見る目も違ってくる。このような政策は軽視され、人材育成が遅れただけではなく、教育自体への失望感を蔓延させた。

 教師に問題がないとは言わない。しかし考えてみれば、同じ教師といえども、千差万別。教科に対する理解力にも差があれば、指導力にも差がある。使命感の強さにも差があるだろう。何事も一様ではない。そんな中で、大事な仕事を託さなければならないとしたら、いずれの要素においても一定の水準をクリアする素質と努力を要求しなければならない。だが、要求するならば、誇りを持てる立場を保証してやらなければならないのではないか。

 いつの時代でも、社会的な問題は存在する。その要因は単純ではなく、複数の要因が絡み合っている。しかもその要因を担っている勢力が多数あれば、意図的に他の一勢力に集中的に押し付けるのだ。しかも一番弱いところに。これが政治のリアルな力学である。

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