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2008年11月の投稿

2008年11月24日 (月)

観光地の食堂はなぜまずいか

 今日、近くへ行ったついでに法隆寺を訪れました。確か、前回行った時も晩秋だったと記憶しています。生憎の雨模様で、観光客も少なかったです。お天気がよく、暖かければもっと人は多かったに違いありません。ただ、ちょうど紅葉のシーズンでもあり、大半の観光客は京都方面に流れると思います。

 訪れたのはお昼時だったので、拝観後お腹が空いて周辺の食堂で食べようと思いましたが、結局食べませんでした。そういう場所の食堂は高くてまずいという認識があります。これは偏見かというと、あながち間違いではなかろうと思うのです。とはいえ、お店の方も、一元さんだから、少し高くても金を出すだろう、まずくても食べるだろうと、居直っているわけではないでしょう。そうなるには、お店の人の考え方ではなく、そういう場所での商売に共通の条件があるのではないでしょうか。このことに特別興味をもって調べたことはないので、今日の思い付きですが、ちょっと考えてみましょう。

 どういう特徴があるか。お客さんは、特定の日に集中しますね。暇な時期の方が多いのではないでしょうか。繁華街であれば、週末に人が多いだろうし、ビジネス街はウィークデーの人出が多い。観光地は大概春と秋の行楽シーズンが繁盛します。バラツキが大きいと利益を出すのが難しいのではないか。固定費は同じようにかかるが、年を通しての売り上げは大きくはない。繁忙期だけに人手を集めるのも手間でしょう。そう考えると、コストは高くなるし、上乗せする利益が大きくなるから、自ずと高くなりますね。客の足元を見ているわけでもなさそうです。それから味の方ですが、お客が常時来るわけではないから、新鮮な食材は調達しづらいでしょう。どうしても日持ちのする食材になるし、冷凍ものも多くなる。それから、これは考え過ぎかもしれませんが、いろいろな地方から人が来るので、味が一般的になるのではないでしょうか。大体無難な味付けになる。素材と味付けの両面から、おいしくない理由が考えられます。

 かなり経験に基づいた、主観的な部分の多い推測ですが、いかがでしょうか。

2008年11月16日 (日)

あやふやな発言

 推測でものを言っちゃいけないと言いますが、推測であればまだましなのです。推測というのはいくつかの事実を根拠にして何らかの結論を出そうとしているので、何の根拠もなしにどこかで聞いてきたような主張をする人に比べれば格段にレベルの高い行為なのです。

 日常の会話だけではなく、仕事場でも同じことが言えます。資料は見ていないし、現場も見ていないのに、「こう思う」と言う。過去の経験、それも不確かな経験を思い出して口にする。私にも身に覚えがありますが、事実を確かめるのが面倒だったり、リスクを取りたくないので言い訳のようにして発言しているだけです。

 仕事場でのことは置いといて、日常の会話でも、いわゆる俗説が多くの人の頭のなかに入っていて、繰り返し言葉にされています。たくさんありますが、ひとつ例を出すと、勉強ばかりしていると頭がおかしくなる。受験勉強ばかりしていると、自分勝手な人間になる。視野が狭くなる。こんなことがよく「常識的に」語られます。しかし、真面目に考えてみると、そもそも「勉強ばかり」とは言っても、一日に何時間以上勉強すると、「勉強ばかり」になるのでしょうか。仮に、学校の授業以外に5時間以上すれば該当すると決めても、進学校の生徒でさえそんな子はたくさんいないでしょう。あるとき、無料のコンサートに行った時に、有名なピアニストに対して、いつもピアノの練習をしているのかという質問がされましたが、そのピアニストは「そんなわけないでしょう。家でゲームしたり外へ遊びに行ったりしてますよ。」と答えていました。ピアニストは四六時中ピアノを弾いているという思い込みがあるのですね。同じように、進学校の生徒は家に帰ってからも大半の時間を勉強に費やしているという思い込みがあるのでしょう。

 実際に、そんなに勉強ばかりできるものではありません。学校でクラブ活動をやっている子も多いだろうし、家でも食事や入浴など必要なものを除いた時間の半分以上を勉強にあてることは難しい。休日の時間も合わせて半分以上となると普通の子にはありえないことです。特定のテーマに限って追究している研究者ならば、没頭することはあるでしょうが、一般の学生は本を読んだり、音楽を聴いたり、外出したりしてバランスをとって生活しています。

 また視点を変えると、勉強時間が相対的に長い進学校出身者の考え方が常識外れで、自分勝手な人間が多いかというとこれも言えそうにありません。私は、進学校出身者をたくさん知っていますが、彼らを見ていると、それぞれ個性があって、たまに変わった人もいますが、その程度は一般的なバラツキと変わらないように思います。逆に全体としては、お人好しが多く、それは比較的生活に余裕があるのでものの見方が素直になるからでしょう。加えて言えば、難関大学にチャレンジして合格したという成功体験があることが人生における大きな自信になるようです。

 これと逆に、勉強時間の少ないグループが、多いグループよりも他人を思いやる気持ちが強いかというと、それは言えないと思いますし、その逆も言えない。ただ、言えることは、勉強をする余裕もないような生活条件を余儀なくされている層の生徒は、生活全体に余裕がなく、視野が狭くなりがちだということです。また、格差社会論に戻ってしまいますが、貧困層に対する社会からの援助をどう考えるかということと、高学歴で高所得の層が自分たちの立場をどう考えるかといことが重要です。両社の対立が先鋭化してしまうと全体が不安定になり、誰にとってもよい社会ではなくなってしまいます。

 最後に話をまとめますと、勉強ばかりしている子供は実際には多くはない。進学校に通っている生徒を勉強ばかりしている子だと想定しても、そういう子が特別歪んだ人格を持つのではないといこと。歪みが生じるとすれば、それは勉強するとかしないとかの問題ではなく、生活の条件の違いが根拠になるということです。そして、元に戻り、俗説になっていることを疑問を持たずに正しいことと思いこんでいる場合が多く、そのことが真実を知ることを妨げているという事実があります。

大学の価値

 仕事柄、経済雑誌を見ることが多いが、時々大学のランキングをやっている。切り口は主に財務状況、就職に有利かどうか、出身者の年収、社長になりやすいかなどである。こういった内容には、わざわざ買ってまで読もうというほど興味はない。偏見かもしれないが、研究機関としての実力評価はあまりされていないのではないか。

 大学の機能には、学生に有用な情報を与え、また論理的な思考、発言、文書作成などの実力を付けさせて社会(企業や公的機関など)に出すこと以外に、有能な研究者候補を選別し、研究の水準を上げ、中長期的に社会の発展に資するということがある。それが研究機関としての価値ではないかと思うのである。

 ところで、グーグルにユニバーシティという機能があって、大学関係者からWebに流れている情報を検索できる。大学別にも検索できるので、特定のキーワードでやってみると大学別の情報量を知ることができた。情報量は研究水準の一つの尺度になるだろう。「格差社会」と「金融危機」の二つのワードを使った。著名な大学に限ったということと、量だけでは質の判断まで踏み込めないという制約はあるが、結果は非常に面白いものだった。おおよそ、日頃思っているイメージと一致したのであった。早稲田大学は大阪大学と同じ程度の情報量。京都大学はその2倍程度。東京大学は京都と大差はないものの、何割かは多い。立命館大学と名古屋大学は、早大・阪大よりやや少ない。地方の国公立大学は早大・阪大の5分の1から20分の1である。地方の私立大学は総じて少ない、ゼロに近いところもある。

 以上、非常に限られた情報で判断するのはよろしくないが、あまりに日頃の感覚と一致するので驚いたほどである。ただし、例外はあって、たとえば滋賀大学は非常に多くの件数が引っ掛かってくる。これは、積極的に情報発信していると受け取れるし、あるいは大学独特の仕組みがあるのではないかと想像される。

2008年11月 9日 (日)

最近の学園ドラマ(?)について

 テレビはあまり見ない私であるが、食事のとき家族と一緒に見ることがある。多くはお笑い番組かドラマである。ドラマでは高校を舞台にしたドラマが多いように思う。昔は、“学園もの”と呼ばれたが、今はそういう決まった言い方があるのだろうか。

 なぜ高校が舞台に選ばれるのか。①役者がそろう。中学生というのは子供と大人の中間で、その時期も短いから演じられる役者の絶対数が少ない。高校生なら20代の大人でもなんとかごまかせる。②あつかう題材が多様である。恋愛もあれば暴力もある。受験もある。③したがって見る層の幅が広がり、視聴率につながる。若者と同時にその年代の子供を持つ親が一緒に見るのである。

 見ていて思うこと。生徒と教師を対立的に描いている。これは確かに昔も同じだった。生徒の側に対して甘い視線がある。すなわちひいきしている。これは傾向としては昔もあった。子供の気持ちを大人は分かってくれない。体裁ばかり気にして本気で心配してくれない。そういう見方は昔も表現されていた。どこが違うかというと、教師の無能さを突くような内容が出てきた。何か、教育のまずさ(本当にまずいかどうかも検証されつくしていない。もっぱら「学力」に議論は集中している。)の原因が教師の無能さにあるかのごとき描き方であり、製作者がそこまで意図しているかどうかは別にして、客観的には攻撃キャンペーンになっているのではないか。

 強く教員を弁護する気はない。しかし気の毒だと思うことはある。能力のバラバラな生徒を相手に一つの教材で教えるのは大変だ。いろいろな家庭環境で育っている子供たちを一つに束ねるにはそれなりの能力が必要だ。また昔ほど教師の権威がない。すなわち、世間の目が厳しいのである。

 教育は国の政策の文字通り柱でなければならない。よって重点的に予算を配分しなければならない。教員の地位を社会的に高いものにすれば、優秀な人材が集まり、父兄の見る目も違ってくる。このような政策は軽視され、人材育成が遅れただけではなく、教育自体への失望感を蔓延させた。

 教師に問題がないとは言わない。しかし考えてみれば、同じ教師といえども、千差万別。教科に対する理解力にも差があれば、指導力にも差がある。使命感の強さにも差があるだろう。何事も一様ではない。そんな中で、大事な仕事を託さなければならないとしたら、いずれの要素においても一定の水準をクリアする素質と努力を要求しなければならない。だが、要求するならば、誇りを持てる立場を保証してやらなければならないのではないか。

 いつの時代でも、社会的な問題は存在する。その要因は単純ではなく、複数の要因が絡み合っている。しかもその要因を担っている勢力が多数あれば、意図的に他の一勢力に集中的に押し付けるのだ。しかも一番弱いところに。これが政治のリアルな力学である。

2008年11月 8日 (土)

危ない社会

 今の世の中は、いろいろな意味で便利になった。昔は情報の大半が書籍などの紙ベースの資料であり、図書館や資料館など特定の場所まで足を運ばなければ手に入らなかった。ところが、現在はインターネットでグーグルやヤフーで検索すれば容易に入手することができる。しかし、インターネットの便利さの裏には、不確かさと危険性が潜んでいる。

 情報は文字通り膨大にあり、そこから良質のものを選び出さなければならない。データや意見・主張の類は目を通しきれないほどあるのだが、出所の分からないものがある。データは政府や公的機関から出ているものや名のある民間の調査機関のものはある程度信用できるだろう。意見・主張は自分の考え方に照らして判断するしかない。何の判断基準も持たない者は最初に目に触れた情報を受容する確率が高いだろうから、まさに運次第である。誤ったものの見方が急速に広がっていく恐れがある。

 インターネットには様々な落とし穴が仕掛けられている。情報を検索したり、データをダウンロードしたりすると、知らない先から請求書が届いたりする。私は経験していないが、経験者に言わせると無視するに限るらしい。また、インターネット懸賞というものがあるが、これには本物と偽物がある。偽物は応募しても絶対に当選しないのであるから、正味犯罪である。しかも、応募の時に書き込む氏名、年齢、住所、電話番号、メールアドレスなどの個人情報は高値で売買される。この個人情報の流出は非常に恐ろしい。しっかりした実体のある企業の懸賞であっても、どこから漏れるか分からないのである。

 もう一つ便利なものがある。コンビニで24時間買い物ができるし、様々なサービスが揃っている。買い忘れた物があったり、夜遅くに急に必要なものができたりしたら非常に便利だ。しかし、ここにも危険が潜んでいる。たとえば、宅急便の送付だ。送り状には個人情報がたくさん記載されている。受け付けたアルバイトの店員がそれを書きうつしたり、コピーするのは容易である。深夜に、若い女性が荷物を送るのはいかにも危険であり、無防備と言わざるをえない。ストーカー事件などの犯罪につながる恐れがある。

2008年11月 3日 (月)

映画鑑賞 容疑者Xの献身

 子供が見たいというので、東野圭吾原作の「容疑者Xの献身」を梅田の映画館まで見に行ってきた。最近は便利なもので、インターネットで席を押さえられるから上映開始時間に合わせて出かければよいのである。

 観客は若い人たちが多く、女性の割合が高い。東野圭吾の読者に女性が多いということも考えられるが、一番の理由は福山雅治人気であろう。さて、内容であるが、ほぼ原作に近い脚本で撮られていた。福山演じる主人公湯川と堤真一演じる容疑者の石神が雪山に登るシーンがあったが、これは原作にはなかった。しかし、湯川と石神の関係をより鮮明にさせる効果があって成功しているのではないかと思う。この映画、主演は湯川を演じている福山であるが、上映が終わった後で、近くの女子高校生(もしくは中学生)が話していたように、石神を演じている堤真一がストーリーの中心に位置していて、存在感で福山を圧倒していたと思う。原作の頭が薄く、丸顔の男性とはイメージが違ったが、石神の孤独を非常にうまく演じていて、素晴らしい。いろいろ評価があるだろうが、一見の価値ありである。

 最後に、石神が愛する隣人を救うためにホームレスの男性を殺害する。そのことが、愛の証のように表現されているが、殺された男性の命は、人生はなんだったのだろうか。そんなに軽いものではなかろうに。

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