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2008年10月11日 (土)

緒形拳

 俳優の緒形拳が亡くなった。数少ない本物の役者が消えてしまったという思いがある。経歴を調べたら、高校を卒業したあと、1958年すなわち私が生まれた年に新国劇に入団している。その後1965年にNHKの大河ドラマ太閤記に秀吉役として抜擢されて売れっ子になった。ドラマのことはうっすらであるが、記憶に残っている。秀吉が信長の草履を温める場面はこのとき初めて見たのである。

 緒形はテレビドラマにも数え切れないほど出演しているが、私は映画俳優としての緒形の印象が強烈である。たくさん見ているわけではないが、「砂の器」「鬼畜」「復讐するは我にあり」「楢山節考」と見てきて、どれも役どころを押さえた際立った名演であったと思う。特に、「鬼畜」の気弱な町工場の経営者と「復讐するは我にあり」の根っから悪の殺人犯とは全く対照的な役であるが、見事に演じきっている。私には、後者の方が演技の切れ味鋭く、はまり役だと思われるのである。

 善人はある意味、だれでもそこそこの演技ができるだろう。しかし本物の悪人は、本物の役者でなければ演じきれない。悪人と言っても、善悪を対立させる単純なドラマ、たとえば水戸黄門の悪代官などを指しているのではない。人間は皆、自分は善人だと思って生きている。しかし、現実には悪いことをしてしまっている。世の中がそうさせている場合もあるし、その人の特殊な性に由来する場合もある。普通の人は、それがある範囲に収まっており、目立ちもしないのだが、一線を越え、雪だるまのように膨れ上がっている人がいる。それは必ずしも犯罪者だということではない。合法的な巨悪もある。いずれにしてもそういう普通からかけ離れた人間を演ずることは難しい。役者は、自分が悪人である必要は毛頭ないが、心のなかに悪を飼っていなければならない。悪の魔性といつも対話している人間でなければならないのだ。

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