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2008年10月の投稿

2008年10月26日 (日)

村上春樹 「ノルウェイの森」

 今読みつつあるのは、村上春樹の「ノルウェイの森」(講談社文庫、、上下巻)である。この小説は20年余り前に刊行され、ベストセラーになった。この文庫版でさえ、4年で20刷を超えている。村上はここ数年ノーベル文学賞候補にあがっている世界的に有名な作家である。

 実は、村上春樹の作品を読むのは初めてである。同じ村上でも、村上龍の作品は、「限りなく透明に近いブルー」と「コインロッカーベイビーズ」を学生時代に読んでいる。方や、春樹は作品の名前や、彼の活躍の様子は知っていたが、本を手に取ることはなかった。これは、大学を卒業してから、小説を読む機会がグンと減ったことにもよるが、勝手な思い込みがあって読む気を削いでいたのだった。それは言うのも恥ずかしいが、「ノルウェイの森」は北欧のノルウェイが舞台で、そこで若い男女が恋愛を繰り広げる、若い女性が好むような物語だと思っていたのだ。

 今年も村上春樹がノーベル文学賞を逃したと聞き、ここらでひとつ読んでおくかという気になった。賞を取った時に一冊も読んでないようでは会話に参加できないからである。化学賞や物理学賞は畑違いだから知らなくて当然。少しでも知っていればプラスの点が付く。ところが文学は、文系の私にとっては知らないと減点である。さて、「ノルウェイの森」の上巻を読み終えたところである。タイトルは、ビートルズの曲の名前だと分かった。ビートルズの曲もヒットしたものは大抵知っているはずであるが、これは知らなかった。

 まだ読み終えていないので、全体を評価することはできない。もっとも、「小説」一般を深く読み説く力量は私にはない。一文学ファンとして、いくつか感想程度のものを言いたいだけの話である。まず、優劣はさておき、確かに面白い。なかなか思いつかないような話が展開される。主人公の恋人が精神の病で療養している施設で展開される話は時間を忘れるほどであったし、恋人と同室で療養しているレイコさんという女性が、そこに来る前にピアノを教えていた中学生の少女からレズビアンを仕掛けられる場面は面白かった。次に登場人物も存在感があって面白い。先輩の永沢さん、特攻隊と呼ばれる同僚は、居そうであるが実際は居ないだろう。でもひょっとしたら居るのではないかと思わせる。それだけ興味をそそられる存在に書けている。最初に言ったように全体はまだ読み終えていないので分からないが、着想としてはよくある、精神の在り方が世間には適合せず別の小世界に退避している人たちが実はまともで、世間で正常者として暮らしている俗物たちの方がまともでないという構図がうまく描かれていると思う。まともでない主人公たちの感性があまりにもみずみずしく、愛らしいので、自分の感性もまともでない方に位置づけ、彼らに同調しようとしているのかもしれない。

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2008年10月19日 (日)

1998年という年

 1998年というと今から10年前ですが、日本の社会が大きく変わってしまった年だと言えるのではないでしょうか。「変わってしまった」ということは、それまで毎年変化が続いていたが、それが一定の段階に達し、構造的な変貌を遂げたという理解です。

 1995年から金融危機の状況が続きました。1995年には木津信用金庫の取り付け騒ぎがありました。また住宅ローンの焦げ付きが急増していきます。1996年には日栄ファイナンスの経営破たんがありました。1997年には拓銀と山一證券の倒産がありました。1998年には長銀と日債銀が一時国有化されました。このような危機はいわゆる公的資金の投入でしのがれることになりましたが、この間に同様に体力を弱めていた金融機関以外の企業を救済するために多くの政策が実行されましたし、企業自身もそういう後押しを力にして今までにない激しいリストラを断行しました。ちなみに、ここで言うリストラは、狭い意味で従業員の首切りを意味します。

 1998年のトピックスは、自殺者が3万人を超えたということです。警察庁のデータでみると、前年の24391人から一気に32863人まで急増しました。そしてその後3万人を下回ることはありません。ちなみに最高を記録したのは2003年の34427人です。この自殺者の増加の原因は生活苦だと考えられます。他の原因としては、病気や人間関係の悩みなどがありますが、そういうものは大きく変化しないと思われるので、増えた部分の大半は経済的困窮なのではないでしょうか。

 企業はバブル崩壊後、三つの過剰を背負うことになりました。負債の過剰、設備の過剰、人の過剰です。順番から言うと、負債を減らすために、工場を閉鎖するなどして生産設備を縮小し、人員整理を進めたのです。ちなみに、「整理」とは、要るものと要らないものを分け、要らないものを捨てることです。人が捨てられたのです。1998年ごろになると、それまでリストラの対象だったブルーカラーに加え、ホワイトカラーも整理され始めました。企業は整理した上で、業務をアウトソースしたり、派遣労働者に置き換えていきました。そして、政府はそれが進めやすいように法整備を行っていきました。こうやって所得水準を大きく下げる労働者が増えました。これが、自殺者の増加に結びついていると考えられます。そして、労働者にとって過酷な状況は今日もなお続いており、さらに悪化する恐れもあるのです。

 思い返せば、人身事故で電車が止まるというニュースが毎日のように報じられた時期がありました。今でもあるようですが、ニュースとしての価値がなくなったのか、違う死に方を選ぶようになったのか、前ほど聞かなくなりました、それでも統計資料を見ると3万人以上が自ら命を絶っています。もう一度1998年を振り返ると、1993年に住宅ローンのゆとりローンが創設されていて、5年経過した後、金利が大きく上がった年でした。前年の1997年には消費税が3%から5%に上がっています。私の仕事の関係で目立つ現象として、外食産業の市場規模(売上げ)が縮小に向かい出した年でもあります。

 このように見てくると、1998年は構造調整の仕上げの年だったと言えるのかもしれません。それ以降も変化の傾向は変わらずにいますが、変化の度合いは少し小さくなったように思います。これ以上労働者を追い詰めると、社会が持たなくなるという認識を官僚や政治家が持ち始めたということでしょう。しかし、アメリカ発の金融危機が日本の実体経済に悪影響を及ぼしています。さらなるリストラが進められる恐れもあるのではないでしょうか。しかし、日本の国民が長くそれに耐えられるとは思いません。結果として、自殺者が減少するような、政策こそが求められるのです。

2008年10月18日 (土)

新聞記事の整理から

 今日は、新聞の切り抜きを整理した。5年ほど前から溜まっているものをチェックして、3分の1は破棄した。内容別にまとめていくと、日経の切り抜きが大半で経済関係が多いが、その他のジャンルも含めて、一時期に集中して特定のテーマについて集めているのが分かる。たとえば、2002年は小泉首相が拉致問題の解決に動き始め、北朝鮮との交渉を全国民が固唾をのんで見守ったのであるが、新聞紙上でも多くの論者がそれぞれの解釈を展開していた。そのなかに、毎日新聞の「時代の風」に連載していた作家の高樹のぶ子氏の見解が残っていた。読み返してみたが、大騒ぎしている世間からは距離をおき、冷静に自分の意見をまとめている。おそらく、他の文章の何倍もの時間をかけ、考え抜いて原稿を書いたのだろうと想像される。それほどデリケートな事件であった。

 氏の考え方は、この問題の解決を、日本をとりまくアジア地域の平和を実現する方向に向けて考えなくてはならないというものである。拉致被害者を取り返すための駆け引きの次元ではなく、道理を尽くした交渉を国際世論を背景にすすめる必要がある。本よりまともな国でないことは承知の上の話である。アジア地域における平和にとって、核とミサイルに関する情報が最も重要であり、そのことが話題にされなかったことは残念であるという主張だった。世間の大方が感情的な反応を示す中で、このような見解を掲載すること自体が勇気の要ることだ。しかし、大衆から距離を置かざるをえない知識人は、敢えて、広く、長い射程でとらえなくてはならない。大衆と一緒に行動しないことを非難する思想家もいるが、それはそもそも無理なことなのである。たとえ傍にいたとしても、考えることは違うのである。高樹氏の主張は知識人の領分を守っているのである。

 ところで、その後、高樹氏ははっきりしない理由で連載を中止した。どこからか大きな圧力を受けたのではなかろうか。

2008年10月13日 (月)

NHKスペシャルは面白い

 10月12日夜のNHKスペシャルは、読字障害についての特集だった。読字障害は欧米で十人に一人、日本では二十人に一人いると言われている。うまく文字が読めないのは、本人の努力の不足ではなく、脳の働き方の違いによる。人間は文字をいったん音に変えて理解する。その変換の働きを、脳の第39野と第40野が担っている。この部分の働き方が、他の人と違うのが読字障害をもつ人の特徴なのである。その反面、右脳の働きが活発で、空間の処理能力が高いという。こういうことを知ると、普通ではないからと言って低く評価してはいけないことがわかってくる。怠けているのではなく、他の人と違うだけなのだ。違うことは悪いことではなく、新たな可能性を秘めていると捉えることができる。

 人類の歴史のなかで、文字を使うようになったのは数千年前からであり、ごく最近のことである。言葉を使った会話は、原始的なレベルで言えば数百万年前に始まっている。ずっと音で判断してきたのだ。それが文明の発達とともに文字による情報伝達が急速に発展してきた。これに人間の脳が付いていっていないのである。読字障害は、それを引き受けている個々人の問題なのではなく、人間の発達に内在した、普遍的課題だと言えるだろう。

親の収入と学歴

 親の収入と進学する大学の偏差値とは強い相関があるようだ。東京大学の学生の親の収入は平均で1千万円を超えるとも言われ、貧乏人の行く大学ではなくなっている。この事実に対し、東京大学は親の年収が4百万円以下の学生の授業料を免除すると発表した。

 何もしないよりはましであるが、どうもおかしいのではないか。問題は入るまでの経済的負担なのである。それを軽減することが教育に公平さを取り戻す根幹なのである。東大に入れば、家庭教師などで学費を稼ぐこともできるだろう。奨学金を借りても、就職してから返すことができるだろう。本末転倒ではないだろうか。

質的変化

 私の体重は66kgから67kg程度で、ここしばらく変化していない。しかし腹の脂肪が増え、まだメタボの域に届いてはいないが、体形が変わってきている。なぜかと言えば、運動量が極端に減少したからである。昨年の春ぐらいまでは自宅で筋トレを行っていた。40代前半にジムに通っていたこともあって、自宅で再開したときには一旦落ちかかっていた筋肉が戻っていった。しかし、その後腰を痛めて完全に回復しないのでトレーニングを断念した。その結果、みるみる筋肉が落ち、腹に脂肪が付き始めた。筋肉が落ちるとエネルギーの代謝が減少し、脂肪が燃焼されないのである。体重が変わらなくとも、このような質的な変化が進行している。

 これは肉体の話であるが、組織や社会もおなじではないだろうか。見た目には目立った変化は感じられなくても、内部で質的な変化が進んでいる。油断していると、思いもよらぬ危機が訪れる。腹が出るとズボンの寸法が合わなくなる。お金を出して、新調しなければならない。それだけならよいが、病気になる恐れもある。病気になれば仕事に集中できない。治療費が莫大にかかる。同じようなことが、組織にも起こらないとも限らない。日々、行動を継続することが大事である。

フランク・ゼーン

 フランク・ゼーンはボディビルコンテストの最高峰である「ミスターオリンピア」で、1977年から1979年まで3連覇した有名なボディビルダーである。ちなみに、歴代でもっとも有名で人気のあるビルダーはアーノルド・シュワルツェネッガーである。彼は1970年から1975年にかけて同大会で6連覇している。

 さて、フランク・ゼーンを取り上げる理由であるが、それは彼の作り上げた肉体の「美しさ」にある。「美しさ」であって「逞しさ」ではない。もちろん、ビルダーだから普通の人に比べて著しく筋肉が多いことは言うまでもない。これはビルダーのなかでの比較の問題である。

 ボディビルのコンテストにおける選手の評価は非常に難しい。記録を競う競技ではないので、審査員の主観的評価にならざるをえない。オリンピアの歴史を見ると、圧倒的に筋肉の量が評価されている。もちろん、量だけではなく、カットの深さ(凸凹感)やバランスも併せて見ているが、第一義的には量だと思う。セルジオ・オリバー、シュワルツェネッガー、ドリアン・イエーツ、ロニー・コールマン、ジェイ・カトラーと、時代を経るに従い巨大化している。これは、練習方法や器具の進歩、サプリメントの進歩、ステロイドなどの薬物の使用が背景にある。これはでかい方が良いという評価基準がもたらした変化ではないかと考えられる。

 そういう風潮の中で、フランク・ゼーンが現れた一時期だけは、「美しい」ものを選ぼうとする意思が働いたのではないだろうか。それも、彼の肉体のバランスの良さとそれを際立たせるポージングの巧みさがあっての話だろうが、私にはそう思える。何か社会的な背景がありはしないか。これは想像の域を出ないが、何かしら感じるところがある。それは、今年のオリンピアをデクスター・ジャクソンが制したというニュースを聞いたことにもよる。一旦勝ち始めると連覇が続くという流れからいえば、ジェイ・カトラーの時代といえるが、それをひっくり返したのはなぜだろうか。サブプライム問題と金融危機で成長神話が崩れ、大きいことよりもバランスが重視され始めたのではないだろうか。フランク・ゼーンの連覇はジミー・カーターの時代だった。今、大統領選ではオバマが有利に戦いを進めている。

2008年10月12日 (日)

月影(法然上人の歌)

 月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞ澄む

 浄土宗の宗歌であるらしい。したがって公式の解釈があると思われるが、私は宗徒ではないので、自分なりの解釈をしたい。

 月の光は、人間が住むいたるところに降り注ぎ、牢屋にでも入っていない限りだれでも目にすることができる。しかし、それを美しいと思うかどうかは、見た人の心が決めるのである。世の中には、値打ちのある物、あるいは事が五万とあるが、それを見逃している人があまりに多い。考え方を変えるだけで、世の中が今までとは違った姿に見え、人生が豊かになるのである。その機会は、誰にでも与えられている。まずは、自分の心次第なのである。

国破れて山河在り

 有名な杜甫の「春望」という詩の冒頭である。漢詩に関する知識は実に乏しく、この杜甫の他に名前を言えるのは、李白、陶淵明、白楽天ぐらいだ。作品は、高校でいくらか教わったような気がするが覚えていない。白楽天は中華料理屋の屋号でよく目にするが。

 春望という詩を改めて読んでみると、こういう内容だったなと思い起こす。普段は国破れて山河在り、の部分だけが頭にあって、そこだけ勝手に解釈をしている。ネットで調べてみると、この詩は、自然は依然と昔のままの姿を保っているのに、国は戦乱で荒廃し、自分も家族と離れ離れになってしまい嘆かわしいことだという意味らしい。方や私の解釈は、冒頭だけ見ているので、国は戦乱で崩壊しても、山や河などの自然は元のまま失われていない。またこれを土台にしてやり直すことができる、と受け取っていた。

 昨年からサブプライムローン問題に端を発して、金融危機が深まり、この一週間は株の暴落が世界的に起こっている。こういう状況を見ていると、「国破れて山河在り」が口をついて出てくるのである。金融のシステムが混乱し、信用が崩れても、実体経済は残る。社会的インフラは遺産としてあるし、生産設備も、労働者も、生産のノウハウも前のままある。確かに、システムがなければ経済は動かないが、システムは組み換えが可能である。移行期には混乱が生じ、既得権を失う者も出る。しかし、それは避けられない。要は、だれが次のシステムを作り出し、担うかという問題である。少なくとも今のシステムを作った人間にはできない。やったとしたらそれはペテンである。騙されないようにしなければならない。

2008年10月11日 (土)

緒形拳

 俳優の緒形拳が亡くなった。数少ない本物の役者が消えてしまったという思いがある。経歴を調べたら、高校を卒業したあと、1958年すなわち私が生まれた年に新国劇に入団している。その後1965年にNHKの大河ドラマ太閤記に秀吉役として抜擢されて売れっ子になった。ドラマのことはうっすらであるが、記憶に残っている。秀吉が信長の草履を温める場面はこのとき初めて見たのである。

 緒形はテレビドラマにも数え切れないほど出演しているが、私は映画俳優としての緒形の印象が強烈である。たくさん見ているわけではないが、「砂の器」「鬼畜」「復讐するは我にあり」「楢山節考」と見てきて、どれも役どころを押さえた際立った名演であったと思う。特に、「鬼畜」の気弱な町工場の経営者と「復讐するは我にあり」の根っから悪の殺人犯とは全く対照的な役であるが、見事に演じきっている。私には、後者の方が演技の切れ味鋭く、はまり役だと思われるのである。

 善人はある意味、だれでもそこそこの演技ができるだろう。しかし本物の悪人は、本物の役者でなければ演じきれない。悪人と言っても、善悪を対立させる単純なドラマ、たとえば水戸黄門の悪代官などを指しているのではない。人間は皆、自分は善人だと思って生きている。しかし、現実には悪いことをしてしまっている。世の中がそうさせている場合もあるし、その人の特殊な性に由来する場合もある。普通の人は、それがある範囲に収まっており、目立ちもしないのだが、一線を越え、雪だるまのように膨れ上がっている人がいる。それは必ずしも犯罪者だということではない。合法的な巨悪もある。いずれにしてもそういう普通からかけ離れた人間を演ずることは難しい。役者は、自分が悪人である必要は毛頭ないが、心のなかに悪を飼っていなければならない。悪の魔性といつも対話している人間でなければならないのだ。

2008年10月 4日 (土)

中国文学

 仕事でたまに話をする日本経済新聞社のA氏は、学生時代に中国文学を専攻していた。そのことは先日取材を受けた時に知ったのだが、私の知っている中国の作家と言えば、魯迅ぐらいのものであった。そこで、私は魯迅が好きだというと、そうなんですかという話になり、少しだけ盛り上がった。A氏は中国の近代文学が専門で、あとでネットで調べたところによると卒論が巴金(バキン)の研究になっていた。巴金とは、1904年に生まれ2005年に亡くなった、魯迅と並び中国近代を代表する作家である。後で、メールで巴金の本を紹介してほしいとお願いすると、「家」という作品を教えてくれた。岩波文庫で出ているとのこと。しかし、アマゾンで見ると取扱いしていない。絶版状態だ。そうすると古本屋で探すか、図書館で借りるしかない。

 考えてみれば中国のことに対しては無知である。特に文化に対しては無知で、大半の日本人がそうだ。逆に、欧米については文学作品も知っているし、音楽もよく聴いている。日本は地理的に言えば、アジアの国だが、文化的には欧米の国ではないかと思われる。中国だけではなく、韓国についても同じで、作家の名前など一人も知らない。かろうじて、詩人の金芝河を知っているだけである。魯迅と金芝河を知っているだけでもましな方かもしれない。人間の関心は、国家による外交や教育と言ったものに制約され、情報産業の動きがそれに追随するものだから非常に偏ってしまう。今回のA氏との話で、隣国の勉強もしなければならないと感じた次第である。

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