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2008年8月の投稿

2008年8月30日 (土)

再び日本相撲協会

 若ノ鵬の大麻所持による逮捕を受けて、抜き打ちで尿検査を行うと相撲協会が発表した。これを聞いて、なんと頓珍漢な対応かと思い、協会への不信を深めた。

 協会傘下の力士の数はたかだか数百名であり、所属する部屋の数も数十である。国際的な競技であれば、アスリートに目が行き届かないのでドーピングの仕組みは必要であるが、相撲のように閉じた世界であれば、親方がきっちり管理していれば防止できるのである。管理・指導体制をしっかりさせる前に、尿検査を持ち出すのは本末転倒である。協会の体質を見直さない限り、尿検査などやっても逆にその信ぴょう性を疑われるだけではないのか。

2008年8月24日 (日)

マラソンでメダル獲れず

 期待された女子マラソンでは野口みずきが欠場し、土佐礼子にわずかな期待がかかったが、その土佐も足の痛みで途中棄権した。男子は大崎が足の故障で直前に欠場を決め、佐藤と緒方に、これもわずかな期待が残されたが、予想を上回るハイペースとなり、最初から後方に置かれてしまった。

 マラソンは過酷な競技である。日本人に特別長距離に向いた身体的特性があるわけではないが、選手育成のノウハウがあり、またテレビへの露出を期待して企業が駅伝の選手を多く抱えることを背景にして、世界に通用する選手を排出してきた。トラック競技では、せいぜい決勝に残り、入賞を狙うポジションだが、マラソンに限ってはもっと高いレベルにある。女子選手では、高橋、野口とスピードにおいても負けない選手を育て、高温の条件にはめっぽう強い土佐も育てた。男子はスピードには劣るが、過酷な条件では粘れる選手を育てた。

 今回の敗北は、国民の期待もあって、ぎりぎりのトレーニングで自らを追い込んでいった選手に無理がたたったということであろう。日本のトレーニングも基本的には科学的な考えを基礎にしていると思われるが、期待を背に、一番多くの練習をした選手が勝つという非科学的な根性論が入り込んだのではないかと推測するのである。

 女子は野口が出ていれば勝てただろう。だが、ロンドンまでは体が持たないと思う。彼女に続くスピードランナーが出ない限りメダルは遠くなる。男子は暑さのなかでワンジルが6分32秒という驚異的な記録を出した。これについていける日本人選手は出ないだろう。

 スポーツは全く同じルール、基準で競うものである。民族による身体能力の差や選手の練習を支える環境に差があるなかで競えば、国家によって有利不利は当然生まれるのである。卓球における中国選手、陸上中長距離におけるアフリカ選手のように国籍を変えて活躍する選手も出てくる。そこにどれほどの意味があるのか考えてしまう。これに対し、民族が持っている文化は同じ基準で評価するものではない。ジャズと民謡ではどちらが優れているか比べようもない。スポーツに目が集まることは悪いことではないが、もっと文化が大事にされるべきではないか。経済のグローバル化のなかで、ローカルな文化が危うい状況にある。グローバル化は無条件に善であるわけがない。それを拒む、ローカルなパワーも、市民権を持つべきなのである。

2008年8月23日 (土)

星野ジャパンがメダルを逃す

 藤川投手が、準決勝で韓国に敗れたあと、自分が打たれたこともあって「韓国の方が力が上。」と述べたが、私は実力は日本の方が上であると思っている。マイナーリーグの選手を集めたアメリカチームより上であることも間違いない。キューバと比べても見劣りはしない。

 今回の結果を招いたのは、明らかにチームの編成ミス、調整ミス、起用ミスが重なったからである。確かに、プロ野球の日程やチーム事情に制約を受けていることは事実であるが、それは他のチームも多かれ少なかれ同じである。監督、コーチは有名なビッグネームが並んでいるが、オリンピックのような短期決戦で上手な指揮が執れるスタッフだったか疑問が残る。短期決戦では、調子のよい選手を集中的に使うのが常道であり、初めての投手にも対応できるバッターを優先すべきであるが、果してそういう起用ができていたか。

 韓国戦のあとの記者会見で、韓国の記者からなぜ岩瀬を出したのか聞かれて、それは私の考え方だ、あなた方にとってはよい結果になっただろうと答えた。これはスポーツの次元の回答ではない。民族感情まるだしの政治的発言である。逆に、イーソンヨブは、決勝のホームランを打ったことに対し謝罪発言を行った。イーよ、そんな気遣いはやめてくれと言いたい。彼にそんな気を遣わせなければならない日本という国はどんな国か。また、オリンピックとは何なのか。

日本相撲協会の判断について

 若ノ鵬の大麻所持事件で、日本相撲協会は本人を解雇処分にしたが、間垣親方に処分はなく、自ら理事を辞任した形をとらせた。これに対しては、身内に甘い体質との批判があいついだ。私も、部屋の解散までいかずとも、何らかの処分はあってしかるべきとの意見をもった。

 ところで、言いたいことは別にあって、時を同じくして報じられた北の湖理事長が黒海に対してとった行動である。黒海は夏巡業を病気で欠場していたが、母国のグルジアがロシア軍に攻撃されたことに対し、ロシア大使館に向けて抗議行動を行った。デモに参加したわけであるが、これを理事長は病気中は治療に専念せよと厳重注意した。これが釈然としない。

 仮に、巡業を休んで、カラオケに行って遊んでいたというなら、厳重注意でもいいだろう。しかし、問題は全く別である。祖国が外国の軍隊に攻撃されているのである。病気どころの話ではない。病気を押して駆け付けたとしても、褒められこそすれ、非難される内容ではない。北の湖には理解できないのだろう。しっかりした理念、判断基準をもたず、形式的な対応をしているから、物事の本質が見えないのである。

2008年8月17日 (日)

夏季休暇に読書

 まとまった休暇は、年末年始の休暇、お盆の休暇、ゴールデンウィークの休暇の3回ある。こういうときには帰省も含め、行楽に時間を使うか、読書に時間をとるかいずれかである場合が多い。今回の休暇では、普段は読まない娯楽小説を読むことにした。

 最初に、東野圭吾の「分身」を読んだ。これは帰省前に駅の本屋に積んであった文庫本のなかから選んだのだった。東野は売れっ子作家であるが、これまで一冊も読んだことはない。15年前に書かれたサスペンスであったが、率直に言って飽きさせない面白いストーリーであった。クローン人間として誕生させられた「姉妹」の運命がその内容であるが、全く同じ遺伝子をもつ二人が、それぞれ違った個性として描かれ面白く、最後に二人が初めて対面するシーンは感動的であった。

 2冊目は、水上勉の「眼」という小説である。これは昭和30年代に出されたいわゆる社会派推理小説というジャンルのものである。婦人向けの既製服メーカーの社長が業績不振を乗り切るため、在庫品の取り込み詐欺の被害者を装い、会社を整理し、在庫品を処分した金で事業を再興しようと企てた。そこには仲間が何人かいて、巧妙に仕組んだはずであったが、刑事の追手を振り切ることができなかった。その過程で仲間が一人殺害され、この偽装詐欺にはかかわっていなかった専務が、証拠隠滅のため最後に殺害される。最後の落ちで、この専務の義眼が、詐欺仲間の女性事業家の邸宅に飼われていたシェパードの糞のなかから出てくる場面はギョッとさせるものがあった。義眼はこの終幕への振りであったわけだ。面白く読んだが、在庫品を横流しする時の価格が1着平均3千円であったものが、テキ屋に現金でさばかれ、露店で売られるときには5百円になっており、これだけの金額では事業の立て直しもあったものではないと思った。また、仲間を牛久沼近くで殺害したときに、釣りざおを持たせて川岸に座らせ発見を遅らせる工作をしているが、それなら草むらのなかに放置した方がよほど人目につかぬように思ったりした。

 3冊目は、東野圭吾にかえり、「容疑者Xの献身」である。これはテレビドラマ化された「探偵ガリレオ」シリーズの元になった作品であり、直木賞受賞作でもある。数学に天才的な才能を持ちながらも職に恵まれず、高校の教師をしている独身男が、アパートの隣室に住む女性と娘が犯した殺人の身代りになろうとする。これは女性に対する男の純粋な愛情がさせた業であるが、その巧妙なトリックにも関わらず、大学時代の友人であるガリレオこと物理学者の湯川学に見破られてしまう。松本清張を愛読してきた者にとっては、今風で読みやすく新鮮な感じはした。かつての社会派推理小説は、犯罪を犯すにいたった社会的背景に重きが置かれていて、それはそれで重厚さを感じさせる作風になっていたが、読んでいて重苦しさにつながっていた。それに比して、たくさん読んでいるわけではないが、最近のものは個人的動機に重きが置かれているようである。

2008年8月13日 (水)

公私の区別

 一般的に公私の区別をつけることは大事なことだと思うが、具体的にどういった内容を含んでいるのだろうか。

 私のように会社に勤めているものからすれば、会社が「公」であって家庭が「私」となる。この図式が基本になる。視点を変えると、国家や自治体によって管理される組織や空間における行動が「公」であり、企業の活動は「私」の領域となるが、ここでは前者の図式に従って考えたい。

 公私の区別とは、一番次元の低いことから始めると、会社の物を私用で使わないといった類の話になる。私用電話も同じである。これは理解しやすい事象であるが、家庭のもめごとを会社に持ち込まないということになると、考え方としては正しいことだと誰もが言うだろうが、気分・感情のレベルまで制御して、全く別の気持ちで会社に出てくるのは実際は不可能である。基本的には、家庭で何があろうが、何をしようが本人の勝手であって、会社できっちり仕事をすればいいのであるが、そうはいかない。

 「公私の区別」という考え方は、「公」においてはルールに従い、勝手な行動を慎みなさいという「規制」として意味をもつのであるが、人間は統一された一つの個体であって、時間や空間できっちり二つに分けられる存在ではない。もしも分けられるとすれば、分裂した二つの精神をもつ二重人格者ということになる。

 一事が万時という言葉が示しているように、家庭でゴロゴロして時間を過ごしている人に、会社で仕事のスピードを要求しても無理な話である。また、そういう人に計画的な仕事の実践を要求しても無理である。家で何をしようが文句はなかろうという主張になるのだろうが、計画的にゴロゴロしているならともかく、何も考えずに時をすごしている人に、時間のコントロールはできない。

 これからは、時と場合を選ばず、合理的効率的に行動できる人が求められる。もともとそういうタイプではない私から見れば窮屈な感じがしないではないが、そのように変わらなければ生き残れない現実があることは間違いない。「私」のレベルから変わらなければならないのである。

 以上述べたことと同じことだろうが、会社で環境活動だとか省エネだとか言ってみても、家庭でエネルギー、資源を浪費していては、そういう活動は前進しないだろう。まずは、自分のライフスタイルを顧みる必要がある。

2008年8月12日 (火)

携帯電話の会話

 固定電話は屋内でかけるものであったが、携帯電話が登場してから屋内屋外のいたるところでかけ、会話することになった。したがって、今まで他人の通話を耳にすることはなかったが、特に聞こうと意識しなくても聞こえてしまう、あるいは聞きたくなくても聞こえてしまう状況が生まれた。

 携帯電話で会話している人は、その間、周囲に人がいることを忘れたかのように、相手との二人の世界に没入する。したがって、相当大きな話し声があたりに響くのである。これは、最近の話であるが、徒歩で通勤中にマンションの隅から携帯電話での話し声が聞こえてきた。「帰る金が稼がれへんから、家におるわ・・・。」想像であるが、同郷の友人から田舎に帰らないか聞かれたのであろう。言葉通りであれば、収入が不十分で帰省の費用が捻出できないということになる。帰らない理由付けで、そういう言い方をする場合もあろうが、口ぶりが非常に親しい相手に対するものに感じたので、事実をそのまま語ったと思われる。

 そうすると、昨年後半からはっきりしてきた景気の後退がこんなところにも表れているのか。たった一つの現象を取り上げて言うことではないかもしれないが、こういうことを通じて世の変化を感じることはあるのだ。盗み聞きはよくないが、周囲の変化に聞き耳を立てていることは大事なことである。

文部科学大臣の言葉

 ラジオの放送が耳に入った。今の文部科学大臣の発言で、人に優しく自分に厳しくできる人を育て、秋葉原で起こったような事件を二度と起こさせないような教育を進めたいとの内容だった。

 意気込みはよしとしても、教育で秋葉原のような無差別殺人がなくなるのだろうか。まず、犯罪の原因は何なのか。私は、生活の窮屈さが背景としてあると思う。人間関係の窮屈さと経済的な窮屈さである。この窮屈さを回避する手段として教育があるという主張は可能だ。

 人間関係の窮屈さは、経済的な窮屈さから来ている場合も多い。収入が少ないことにより周囲の人々と同じように生活することができない。借金などすれば途端に関係が悪化する。うまく人と付き合えないということは、教育の不足も一因ではあるが、人間の置かれた物質的条件が大きいと思う。

 人間は「衣食足りて礼節を知る」。衣食が足りるように働いて収入を得なければならない。働く能力を身につけるために教育が必要だ。国家は、教育を受ける機会を等しく国民に与えなければならない。それが文部科学省の仕事の根幹であろう。他方で、雇用を創出することも国家の責務である。それは経済産業省の仕事であったり、厚生労働省の仕事であったりするわけだ。

 犯罪者の服役後の再犯率も問題にされているが、これを単に犯罪者の「性質・性格」から判断したのでは対策は見えてこない。一度犯罪者になれば前科者のレッテルを貼られる。仕事には容易にはつけない。生活があまりに窮屈なのである。そこを自力で切り抜けよというのは厳しい対応である。環境が再犯に追いやっている側面を重視しなければならない。

 われわれが、幸福であるかどうかは、まさしく「生活実態」に依るのである。

2008年8月10日 (日)

北京オリンピック開幕

 8月8日に北京オリンピックが開幕した。もともと開会式や閉会式には興味がないので、今回も見ていない。関心は競技そのものにあり、競技も特定のものに絞られる。

 ①陸上競技 ②競泳 ③柔道 などが面白い。①は純粋に競技の面白さであり、フィールド競技よりもトラック競技が面白い。②と③は日本のメダルの可能性が興味を引く。

 日本が多くのメダルを獲得することを期待してはいるが、それほど簡単に獲れるものではない。世界中が必死で頑張っている中で一番になるのは容易ではない。柔道などは日本のお家芸であるから、全部獲れるような気になってしまうが、海外での競技人口も増えており、独壇場とはならない。日本人が特別身体能力に優れているわけではないので何割かのメダルをシェアできれば結果としては妥当ということになろう。

 谷亮子は残念ながら銅メダルに終わった。準決勝の試合は慎重になりすぎて攻められなかった。勝負は攻めなければ勝てない。格闘技は特にそうである。プロボクシングは挑戦者が攻めなければ勝てないというが、それは極端なホームディシジョンがあるからで、ニュートラルな場所では、チャンピオンにハンデがあると思わなければならない。

 その他、男女のサッカー、重量挙げでの三宅と結果が出ていない。これは力を出し切れていない面もあるし、力の差であるという見方もできる。競技の結果は力関係の所産であるから自分の調子だけでは決まらないのだ。とはいえ、オリンピックともなれば相手に力があるのだから、少なくとも自分のベストプレーがなければ結果はでない。

2008年8月 2日 (土)

中国旅行その3

 中国は模造品の天国である。旅行中に、日本人と知ってであろう、時計や財布を売りつけに来る。売り言葉は、「安いよ。」「A級、A級。」である。さすがに情報が流れているので本物だと思う日本人はいない。偽物のなかでも質はいいというアピールである。偽物のランクとしてA級、B級、C級があるのだ。

 ガイドさんによれば、売っている人はいわゆる文革の時代に教育を受けられなかった人達で、職につけないのでこういう商売に走るしかないらしいのだ。そういう事情があるので、黙認されているのだろう。ちなみに、ガイドの王さんはSEIKOの偽物を身に付けていたが、これはA級だそうで、時間もよく合うと自慢していた。

 

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